04.砦の小部屋にて
ローブの男に肩を貸されながら地下を出て、階段を登る。ここはどうやら石造りの建物で、1階部分はホールになっているが、2階から上は部屋が複数あるようだ。3階から上はどうなっているか分からないし、記憶もない。
今度は2階にある普通の小部屋に通された。元々はここで生活していた誰かの部屋なのだろうが、室内にあるのは質素なベッドと、洗面台と、小さな箪笥のみ。窓は無い。男はベッドの上に私を下ろすと、居住まいを正してこちらに向き直った。
「許可があるまで、この部屋からは決して外に出ないでください。いいですね」
「…」
はい、と頷く。
「部屋のものは使って構いません。暫くはここには来られませんので、好きに過ごしてください。後で杖を持ってきます」
静かな口調で淡々と彼は続ける。
「あなたの記憶がどこまで失われているかわかりませんので、簡単に説明しておきます。あなたはこの砦を守る魔術師でした。私の国と、この砦がある国とでは戦をしています。この砦はあなたの力で、1年間落ちず耐え続けていました」
つまり、私はここに1年はいたのか、とふと思う。
「先程あなたに色々と指示をした、金髪の男がいるでしょう。彼は我が国の第15大隊の大隊長をしています。我々の隊は4ヶ月前からこの地で、小競り合いを繰り返しながら砦と睨み合っている状態でした。この砦が落ちたのは内乱が起きたためです。我々が内乱を起こした、と言ってもいいかもしれませんが。その時あなたに何が起きたのかは分かりませんが、敗走する途中で記憶を失い、森の中を彷徨っていたようですね」
「……」
その辺りの記憶はさっぱりだ。首を捻ると、男は微かに苦笑する空気を出した。
「文字は書けないと言っていましたが、読めはしますか」
曖昧に頷く。読めはすると思う。
「では後ほど文字盤を持ってきます。このままでは意思疎通にも問題が生じるでしょう。私はフォルカー・モーガンといいます。あなたに名を呼ばれることはないと思いますが、念のため。大隊長は、アデル・グラハム。よろしいですね」
頷くと、彼は「それでは後ほど」と言って、壁の燭台に火をつけ、部屋の外へ出ていった。マッチやライターの類を持っているわけでもなく、蝋の先端にそっと触れただけだったのに。あれが魔術というやつか、と納得する。自分も使えるらしいが、まだピンと来ない。
「……」
敵だった人を登用することなんてあるんだなぁ、と胸中でひとりごちる。電気を流す便利な首輪などなければ、あの場であっさりと殺されていたかもしれない。電撃は凄まじい激痛だったが、命令を聞いていればあんな思いをすることはないだろう。そう考えれば耐えられないものでも無い。理不尽な暴力じゃないなら。
そんなふうにあっさりと切り替えられるのは、理不尽な暴力を受けてきたからなのだろうか。
部屋はとても静かで、やっと安心して落ち着ける場所を手に入れた気分だった。
幸い箪笥は手の届くところにある。引き出しを開けると、タオル類が入っていた。それを2つ掴んで、壁伝いに洗面台に移動する。鏡にはヒビが入っていたが綺麗にこちらを反射していた。
殴られた頬は少し腫れている。これからもっと腫れるのだろう。首には黒い首輪、その下に薄く引っ掻き傷のような痕があった。心当たりはない。
顔立ちは若干の違和感はあれど、ちゃんと自分のものだ。何年か分の記憶が曖昧だが、そんなに老けてはいないように思う。肝試しに行ったのは19の時だが、今は何歳なんだろう。30は行っていないだろうし、行っていないと思いたい。もしそうだとしたら、それはショックが大きすぎる。
蛇口を捻れば、水が出てくる。良かったと安心しながら、タオルをひとつ水に浸した。左手に力が入らないので、ちゃんと絞れないが、ひとまずはこれでいい。
ベッドに戻って、濡れタオルで体の汚れを落とす。着替えがあれば良かったが、仕方がない。
森の中を彷徨ったせいで、服にも泥がついている。ローブを脱ぐと、長い黒髪が体に纏わりついた。凄く邪魔だ。
ローブはベルベットのような上質な触り心地で、汚れもつきにくいのか、乾いた泥を軽く払えば綺麗に見えた。それを箪笥の上に引っ掛けて、靴を脱ぐ。裸足の足を拭いて、ワンピースの裾の汚れを払う。体型も、記憶にあるのとさほど変わらない…が、胸だけ、こんなに大きかっただろうかと違和感を感じた。いや、親の遺伝で、元々大きい方ではあったのだ。人間無い物ねだりで、デカくて重い、こんなにいらんと思っていたのだが、あの頃よりも若干大きい。一体どういうことだ。
濡れタオルで拭いた後は乾いたタオルで拭き直し、ベッドの上に大の字で寝転がる。ぞんざいにシーツがかけられただけの硬いマットレスだけのベッド。毛布も布団もない。ローブを手繰り寄せて着込み、ブランケット代わりにした。ごろりと寝返りを打って、胎児のように体を丸める。
とても疲れていた。もう何もしたくない。今日はよく頑張ったと思う。何も考えたくない。
横になっているうちに、すっと意識は落ちていく。記憶は無いはずなのに、ここ最近で一番ゆっくり眠れたような気がした。
◇ ◇ ◇
何時間眠っていただろう。
自然と目が覚めて、体を起こす。箪笥の上には金属の文字盤が、その横には捨てられたと思っていたあの杖が立てかけられていた。愛着があるわけではないが、不思議と手に馴染む杖だ。長く触れていたものなのだろうと思う。硬い木でできた杖は、手が触れる部分がつるつるとした光沢を放っている。
それを手に立ち上がってみると、安堵の息が漏れた。もう一度ベッドに腰を下ろして、右足の傷痕を見てみる。
深い傷痕だ。こちらに連れて来られて、意識を失っているうちに斬られたはずだ。それはうっすらと記憶にある。
こんな傷で、人間は歩けなくなってしまうものなのだな、と他人事のように考える。自分の身に起きたことのはずなのに、幸か不幸か記憶が曖昧なせいで、まるで誰かの記憶を覗いているようだった。
小さな窓からは、僅かな光が差し込んでいる。おそらく夜の月明かりだろう。
何もすることがないので、なんとなく箪笥の引き出しを漁ったり、文字盤を触ったり。文字は案外きちんと読めた。
再び横になって、目を閉じてみる。満足がいくくらいの睡眠は取れているので、もう眠くはならなかった。部屋の外に出るなと言われているし、このまま時間を潰すほかない。
そのままじっとしていると、扉が数回ノックされ、遠慮も何もなく開かれた。
「起きてるか」
低い声は、あの金髪——何だったか、アデルという男のものだ。体を起こすと、彼はずんずんと部屋の中に入ってきた。
今はもう甲冑は着ていないようだ。生成色のシャツは筋肉に押し上げられ、体格の良さが強調されて見える。むちむちしているほどではないが、かなり筋肉質だ。ほぼゴリラだな、とぼんやり失礼なことを考えていると、彼はこちらに紙袋を放って寄越した。慌てて空中でそれを掴むと、ほんのりパンの良い香りが微かに漏れてくる。
「食事だ。詰まらせて死ぬなよ」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼は部屋から出ていった。
香りに刺激され、お腹が空いているのを思い出した。匂いに刺激された胃袋が、きゅるきゅると悲鳴をあげる。
袋を開けて中身を確認すると、フランスパンのような見た目の、手のひらに収まるようなサイズのパンが2つ、乾燥させた薄い肉のようなものが1枚入っていた。パンを取り出して手に取ってみるが、とても硬い。不自由な手でちぎれるようなものではなかった。
止むを得ず奥歯で噛みちぎって、柔らかくなるまで根気強く噛む。喉を通過する時に首輪でつっかえる感覚があり、酷く不快だ。食事の時だけ外してくれたらいいのに。どうせ逃げるつもりもないのだから。逃げたところで行く場所もない。
「…っ!」
案の定喉に引っ掛けて咽せる。咳き込んでいると、また扉が開かれた。
「詰まらせるなっつっただろうが、馬鹿か」
呆れた視線と、小馬鹿にしたような口調に腹が立つ。男は面倒臭そうにため息をついてこちらに近付くと、背中を何度か叩いた。痛い、痛い!力が強い!このゴリラが!声が出ないのをいいことに罵っている間に、喉のつっかえが取れた。
肩で息をしていると、アデルは「魔術師のくせにどん臭えな」と失礼なことを言って、小さな箪笥に腰掛けた。もしかしたら、食事の間、私のことを見張るつもりかもしれない。
「こんなどん臭え奴に1年も手こずったのかと思うと泣けてくる」
「……」
「お前、【蝙蝠】の拠点がどこかわかるか」
「…」
その辺りの記憶は無い。そもそも知っているかも怪しい。首を振りながら、再びパンに齧り付く。今回はもっと小さく噛みちぎった。少しずつなら、喉に詰まることはなさそうだ。
「この辺の生まれの顔じゃねえが、出身はどこだ。南か?」
「……」
首を振る。今度は薄い肉に齧り付き、犬歯でぎりぎりと噛み切る。ビーフジャーキーを何倍も硬くしたような感じのもので、とても塩辛かった。ほぼ味のしないパンと組み合わせると、どうにか食事として成り立つ味になる。
「東か」
違う。
「西か」
違う。
「それなら、北か」
違う。
「じゃあどこだ」
知らん、そんなこと。適当に首を傾げて、再びパンを口に入れる。
「記憶がねえか」
頷きを返した。勿論記憶はある。あるが、説明のしようもない。だから覚えていないことにしてしまった方が都合がいい。パンをゆっくりゆっくり噛み砕いて、喉の奥に流し込む。口の中の水分をかなり持っていかれてしまうので、喉が渇いた。
「魔術はどうだ。魔術を扱える記憶はあるか」
矢継ぎ早に質問されても困る。そもそもの扱い方がわかっていたかも怪しい。記憶がないと首を振ると、訝しがる視線が向けられた。
「嘘じゃねえだろうな」
頷きを返す。嘘をついたところで得になることなんてない。私の目をじっと見下ろして、彼は眉間に皺を寄せたまま唸った。
「命を握られてんのに、随分と冷静だな。だから魔術師は気持ちわりいんだ」
そんな事を言われても。また肉を口にいれて、ぎりぎりと歯で噛みちぎる。
「……」
室内に沈黙が流れる。硬いパンと肉を咀嚼する音しかしない空間は、とても居心地が悪い。早く食べ終わってしまいたいが、それで喉に詰まらせてしまったら元も子もない。よく噛んで少しずつ嚥下していく。
男は腕を組んで、無表情でこちらを見ていたが、それにも飽いた様子で、床の何も無い空間に視線を落とした。
「その足は」
2つ目のパンに手をつけたところで、再び話しかけられた。顔を上げると、男の視線が足首の傷に向けられていた。
「【蝙蝠】の奴に斬られたのか」
そうだ、と頷く。
「声が出ねえのも、【蝙蝠】に何かされたのか」
そうだ。
失うなら、どれがいいかと聞かれた。
視力がいいか。
聴力がいいか。
それとも、声がいいか。
こんな地獄なら、もう何も見えない方がいい。視力がいいと答えた。
それなら、その次なら何がいいかとさらに問われた。
こんな地獄なら、何も聞きたくない。聴力がいいと答えた。
そうですか、と声の主は穏やかに言った。
その人の顔は靄がかかったようによく思い出せない。声の主は何事か長い呪文を唱えた。ああ、これで何も見えなくなるのか、とぼんやり思っていたが、呪文が終わっても、視力も聴力も失っていなかった。何も変わったところはない。
問いただそうと口を開けて、そこで初めて声が出ないことに気付いた。
失いたくないものの方が効果が高いから。その人物はそう言って、穏やかに微笑んだ。
「おい」
アデルの声で、記憶の波から現実に戻される。パンを手に握りしめたまま、固まっていた。パンを持つ左手が震える。右手はカリカリと、無意識に喉を掻いていた。金属に爪が触れて、かつ、かつ、と乾いた音を立てる。
男は変な顔で私の近くに来ると、右腕を掴んでその動作を止めさせた。
「お前…」
何か言おうと口を開いて、しかし黙り込む。気遣うような空気が嫌で、首を振った。
首を引っ掻いてしまうのは、きっとあの頃からの癖だ。少しだけ傷痕も残っていた。
手元に置いていた文字盤を手繰り寄せ、問題無い、大丈夫だと伝える。
男は私の右腕から手を離すと、ため息をついて元の位置に戻った。そしてまた居心地の悪い沈黙が流れる。またパンを口に運んで、咀嚼する。半分ほど食べすすめたところで、男は体重を預けていた箪笥から体を起こした。
「明日、砦を別の部隊に占拠させ、俺たちは国に戻る。約2週間の行軍で、休憩しながら帰還する。まあ、お前は特に荷物もねえだろうから、準備も何もねえだろ。それまでこの部屋から出るなよ。それから——」
男は一呼吸置いて、じっと私の目を見下ろした。
「お前、名は何だ」
「……」
文字盤を指し示す。沙耶。面倒なので苗字は省いた。
「サヤ、か?」
こくりと頷く。
「サヤ。俺の隊には無能は要らねえ。術は使えるようになってもらう。扱えるようになったら馬車馬のように働け。いいな」
こくりと頷く。アデルはそれを確認して、部屋から出て行った。