02.目覚め
2度目の目覚めは、暗い部屋の中。今度は横になった状態で目が覚めた。
体を起こすとまだ眩暈がしたが、先程——それが何時間前なのか不明だが——いくらかマシになったように感じる。気を失う前まで持っていた杖は手元になく、心許なく感じてしまった。まだ、右足はうまく動かない。支えがないと立ち上がれない。両の手首には金属の手枷が嵌められていて、鎖がそれを繋いでいる。
私は、何か悪いことをしたのだろうか。
室内はだいたい20畳くらいの大きさだろうか、装飾などないクリーム色の壁の部屋にいる。床は石でできていて、冷たい感触が布越しに伝わってきた。室内には30人ほどいるようで、皆同じような服…兵隊のような服を着ているようだった。サーコートというのか、西洋風のゲームで見たことがあるような、丈が太もも辺りまである暗い緑色の上衣だ。胸には鳥のような紋章が白く抜かれていて、どこかの国の兵士であることが想像される。年代は様々だが、その中に女性はいなかった。顔立ちは皆西洋人的なもので、やはりここが日本だとは思えない。
全員、消沈した様子で床に座り込んでおり、空気は重たい。自分はその部屋の壁際に寝かされていたようだ。
夢を見ているのだろうかと思うが、これまでの人生で、夢の中で夢であることを自覚できた試しがない。夢かどうか確かめる方法も、古典的だが、頬をつねる方法しか知らないし、つねってもただ頬が痛くなっただけだった。
鉄格子の嵌められた窓に囲まれた部屋は、まるで牢獄のようだ。照明は電気ではなく、所々に置かれた燭台の蝋燭の光のみ。出入り口となる扉はあるが、その扉の横には甲冑が2人立っていて、とても出られそうな空気ではない。手には長い槍を持ち、さらに腰には剣も差している。
銃じゃないんだ、と何となく考えを巡らせて、——それ以前にもっと気にすることがあるだろう、と思わず自分に心の中で突っ込んでしまった。
ふと、遠くで座り込んでいた男と目が合った。白髪混じりの、おそらく年齢は40代くらいの、暗い表情をした男。しかし目が合った瞬間、男は急に憤怒の表情になって立ち上がった。
「——!!——!!!」
彼は何事か叫び、人混みを掻き分けてこちらに近付いてくる。困惑して周りを見ても、誰も何の反応もしない。皆こちらに負の感情のこもった視線を向けているだけだった。憤怒、憎悪、侮蔑。今まで、これ程の恨みの感情を向けられたことがない。恨まれるようなことはしないように生きてきたつもりだ。男は大声で叫びながらこちらに詰め寄り、私の服の襟ぐりを掴んで無理やり立たせた。至近距離で怒鳴りつけるその言葉の意味はわからない。
助けを求めて周囲に視線を向けても、誰も助けてくれない。それどころか、暗い目をした彼らはゆっくり立ち上がり、同じようにこちらに詰め寄ってきた。髪を掴んで引っ張られ、口々に怒鳴られ、罵るように言葉を投げられる。言葉がわからなくて良かったと、心底思わずにはいられなかった。目の前の男の腕が振り上げられ、あ、と思った時には、思い切り頬を殴られていた。
「——!」
悲鳴は出なかった。殴られた衝撃で再び床に転がり、壁にぶつかる。強かに頭を打って、ぐわんぐわんと視界が歪んだ。一瞬後に、頬が酷く痛む。口の中を切ったようで、血の味がした。唸り声を出したつもりだったが、喉からは何の音も出ない。
助けて、誰か止めて、と叫んでも、口からは息が漏れるだけだ。ガタガタと震えが止まらない。兵士たちの顔には同情など一切なく、ただただ汚いものを見るような、蔑みの感情しか読み取れない。彼らはこちらに近付くと、今度は足を振りかぶった。
蹴られる。慌てて身を縮こませて、頭を腕で抱える。肘のあたりにガツンと大きな衝撃が走り、次は肩を踏むように蹴られた。凄まじい痛みに気が狂いそうになる。今度は背後から背中を蹴られた。衝撃に息が止まる。
そのまま何度か蹴られた後、唐突にそれが止まった。その隙に息を吸い込んで、今度は何をされるんだ、と身構える。頭を抱え込んでいた両腕の隙間から突っ込まれた手が、ローブの首根っこを掴み、ぐいっと上に持ち上げた。足が床につかない高さで持ち上げられ、襟が締まって息が詰まる。恐怖に身が竦んで、目を瞑って耐える。
「——」
淡々とした、感情的ではない声音で、何か話しかけられた。拳が飛んでくる気配はない。恐る恐る目を開けると、引き込まれるような薄い青い双眸がこちらを見つめていた。
歳の頃は30前後くらいだと思うが、西洋人の顔は年齢がよくわからない。ただ、若い男だということはわかった。髪は後ろに撫でつけられて、乱れた毛が数本額にかかっている。そして整った顔立ち。童話に出てくる王子様…というより王様みたいな、絵に描いたような金髪碧眼の良い男。だが目つきはかなり悪く、眉間には深い皺が刻まれている。首から下は見覚えのある甲冑で、その姿と低い声から、森で最後に声をかけてきた男だろうと察しがついた。
「——」
再び何事か話しかけられる。低くて威圧的な声。語尾が少し上がるから、何かを訊かれているのだろうとは思う。答える術もなく、ただどうしようもなくその青い目を見つめ返すと、男の眉間の皺が増えた。
男は私のローブの襟を掴んだまま、引き摺るようにして歩き出した。床に足はついたが、息が苦しくてもがく。部屋にいる兵士たちの、まだ怨嗟の念が籠った視線は、私を見つめ続けていた。小さな舌打ちが聞こえる。だが、金髪の甲冑は動じることなく、緑のサーコートの隙間を縫って、私を部屋の外に連れ出した。
その時は助かった、と思っていたが、助かっていた訳ではないことを、直後思い知らされる。
◇ ◇ ◇
部屋の外に連れ出されると、室内と同じ石の床が続いていた。そこを引き摺られながら進み、いくつかの扉を抜け、階段を降り——おそらく地下に連れてこられた。途中、大きなホールも抜けたが、石造りのホール内は至る所に血の跡が残っていた。ステンドグラスの嵌め込まれた窓もあり、本来であれば荘厳な雰囲気だったのだろうが…充満する血の匂いで気分が悪くなる。
階段を降りると、じめじめとした湿気、窓のない暗い廊下が続く。短い間隔で扉があり、中からは低い呻き声や、泣き喚く声、しゃくり上げる声が漏れ聞こえた。
ここはきっと地下牢だ。イメージされるような鉄格子の扉ではないが、扉は金属製で、覗き窓がついている。その小さな穴から、暗い瞳がじっとこちらを見ていた。
私を引き摺っていた男は、そのうちの一つの扉を開け、私を室内に放り込んだ。肩を床に擦って、痛みに悶えているうちに、扉が閉められる。鍵が閉まる音に絶望するが、覗き窓からは何も見えず、かつかつと足音は遠ざかっていった。
「…っ、……」
声を出せないと、痛みを逃す術がない。心の中では、「痛い!」とか「くそったれ!」とか叫び続けていても、音にならない叫びは何の効果もなかった。殴られ、蹴られた場所が滅茶苦茶に痛い。
部屋は僅か2畳ほどしかない狭い空間だ。部屋の隅にバケツが置かれているだけで、他には何も無い。バケツからは汚物の匂いが漂ってきて、そこで色々排泄しろということなのだろうと理解はした。理解はしたが、嫌悪感で、そのバケツから離れた部屋の隅で縮こまる。湿気のためか、壁はじっとりと濡れていて、壁と壁の隙間には苔が生えていた。
蹴られた場所を確認しようと、服の袖を肘辺りまで捲り上げる。記憶にあるより少し細い腕には赤く鬱血した場所がいくつかあり、更に心当たりのない傷痕まで残っていた。
ここまでくれば、察しがつく。おそらく、何か——頭を打っていたようだから、記憶を失っているに違いない。それがどれくらいの期間なのかは分からないが、ここまで髪が伸びているなら、1年やそこらでは無いのだろう。顔は確認できないが、手指の形も、手首にある黒子の位置も、記憶にあるのと同じだ。この体はちゃんと自分のものだろうと思う。ふと、足に目をやる。右足が動かないと思っていたが、足首のアキレス腱のあたりに傷痕があった。怪我をしてしまったのか、と思ったが、傷痕はまるで鋭利な刃物で斬られたような形で、ぞっと血の気が引く。
それに、あまり自覚はなかったが、どうやら左腕の様子もおかしい。きちんと動くのだが、物を掴もうとすると指が震える。左腕には目立った怪我の痕はないのだが。
膝を抱えて座り込んで、ぎゅっと体を抱き締めると、ぼろぼろと涙が出てきた。何もわからないし、声も出ないし、言葉もわからない。今も、嗚咽すら音にならない。痛い、苦しい。
私はいつからここにいるのだろう。ここはどこなんだろう。考えれば考えるほど答えのない迷宮に入る。目を閉じて、深呼吸を何度か繰り返すと、すっと涙は収まった。自分の体じゃないみたいだ、こんなにあっさり涙が止まるなんて。涙の止め方を体が覚えているのか、泣くことがそんなにあったんだろうか。ふ、と小さく笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
ぎい、と扉が開く音で、ふっと意識が浮上する。眠っていたわけではないが、ぼんやりと考え事をしていた。時計も無いのでどれほどの時間をここで過ごしたかは分からないが、閉じ込められてから1時間は経っていなかったと思う。
扉を開けたのは、私をこの牢に閉じ込めた男だった。軽く身を屈めて入ってきた背の高い男は、私の襟ぐりを再び掴み、外に出した。特に何の感情も読み取れない無表情で、今度は廊下の奥にある別の部屋に向かって歩き出す。
男は一人ではなかった。男の後ろから、男より幾分か背の低い人物が続く。足首あたりまである長いローブに、フードを被っていて、顔はわからない。長い黒髪が一房、フードの隙間から漏れていた。女性だろうか。そう考えているうちに目的地についたのか、襟を掴んでいた男の手が離れた。
つい失念してしまうが、自分は支えがないと立てないのだった。その場に膝をついて動けずにいると、腕を掴まれ、手枷の鎖を太いものに変えられた。その手の主は布のマスクをつけた老人で、男たちは老人といくつか言葉を交わすと、私から離れた。
やっと周囲に視線を向けられる余裕ができて、顔を上げる。直後それを死ぬほど後悔した。
漫画やアニメでしか見たことがないような、拷問具の数々。何に使うかなんて想像したくない。挟んだり、切ったり、刺したり、押し付けたり、捻ったり、痛みを与えることに特化した道具だ。
首を振って後退りするが、老人とは思えない強い力で手枷の鎖を引かれ、前に倒れ込む。ガチャガチャと鎖を動かすような音の後、上方向に強く鎖を引かれた。
ゴロゴロと、歯車を回す音と共に、腕がどんどん高く上げられていく。視界の端で、何かの機械をぐるぐると回す老人の姿が見えた。足が床に届かなくなったところで、機械は止まる。全体重が手首にかかり、痛みに悶える。
「——」
金髪の男が、こちらに何か問いかけた。矢継ぎ早に、いくつかの質問を投げかけられているのは感じる。首を縦に振っても横に振っても、質問の内容次第では殺されるんじゃないかと、恐怖で動けない。震えで歯の根が噛み合わず、ガチガチと音が鳴る。
「……」
男は質問をやめ、小さく息を吐いた。
かちゃかちゃと、何か金属のものを漁る音がする。そちらに視線を向けると、老人が、数々の金属の拷問具の中から、何か長い針のようのものを取り出していた。嘘だろう、まさか。
老人が、私の肩のあたりに針の先端を添えた。つ、と先端が肌に刺さる感覚、徐々にかかる負荷と痛みに、必死にもがいて音にならない声で叫ぶ。
相手が何を知りたいのかも知らないし、こんなことをされる心当たりもないのだ。じわじわと針が刺さり、肉をかき分けて内部を抉る。知らない、わからない、何でこんな思いをしないといけないんだ。
針がおそらく半分ほど深く刺さったところで、痛みと恐怖の限界に達した。
体に電流が走ったような衝撃があった。一瞬そういう拷問をされたのだと思った程だった。直後床に崩れ落ちて、手枷が外れたことに気付く。手枷は金属疲労を起こしたように捩じ切れ、割れていた。同時に、ぼた、ぼた、と地面に血が落ちた。鼻血が出ている。頭が痛い。この痛みに覚えがある。脳裏に過るのは声、痛み、血の跡。
それはおそらく、自分が失った記憶の一部の、フラッシュバックだった。