01.プロローグ、森の中で
ふっと意識が浮上したとき、濃密な緑の香りに咽せ返りそうになった。
「——っ」
驚いて息を吸い込んだ。ひゅっと、小さく喉が鳴る。
「……?」
ただ眠りから覚めた状態だと思っていたが、なぜか座り込んでいる。眼前に広がっているのは鬱蒼とした森で、見慣れた寝室では無かった。
理解が追いつかず、すぐにまた目を閉じる。貧血を起こした時のように、ぐるぐると目が回った。頭が痛い。何度か肩で息をして、再度目を開ける。夢に違いない、どうせすぐ覚める夢だ——だが、景色が変わることはなかった。
地面に座り込んだ姿勢のまま、自身の周囲に視線を巡らせる。右も左も後ろも、見渡す限り背の高い木々が繁る。地面は湿気を含んでじっとりとしており、近くの木の根元にはキノコが生えていた。図鑑でも見たことのない、毒々しい紫色の傘を持つキノコ。食べられるキノコだと説明されたとて、口に入れる勇気はない。
視線を上に移し、空を見上げるが、生い茂った葉でまともに上空が見えない。微かな木漏れ日で、今がまだ陽のある時間帯だということは分かった。ほんの少し暑さを感じる程度の気温と、服が体に張り付くじっとりとした湿度。
「…?」
やはりこんな場所、来た覚えがなかった。直前の記憶といえば——記憶といえば、何だったか。
確か、夏だった。大学は山の中にあって、自然が多いと言えば聞こえはいいが、蚊は多いし、蝉はうるさいし、天気は変わりやすいしで、良いことなんて一つもなかった。田舎だから遊べる場所も少なくて、皆すぐに「普通の遊び」には飽きた。
その日は2年の前期最後の試験が終わった後で、友達と肝試しに心霊スポットに行こう、なんて話をして。女ばかり4人、夜中に車を走らせて、それは確か森の中にある工場跡地で。
結局何も起こらず、幽霊なんていないじゃん、なんて笑い合っていたところまでは覚えている。が、そこから先の記憶がさっぱり欠落している。
それにしても酷い頭痛だ。頭に触ると、手に少しだけ血が付いた。…どうやら頭を打ったみたいだ。触った感じ、傷口はごく小さなものだと思う。いや、それより——、記憶にある髪の長さより随分、髪が長い。本来肩より下、胸にかかるくらいの髪の長さだったはずなのに、腰よりも下に毛先がある。確実にほんの数時間で伸びる長さでは無い。身につけているのも、泥だらけの黒い長袖のワンピースと黒く長いローブ?だろうか、これも心当たりがない。こんな服、自分では絶対買わないのに。
訳がわからないまま立ち上がろうとして、右足にうまく力が入らないことに気がついた。痛みはないので怪我をしている様子はないのだが、足首から下が思うように動かない。途方に暮れていると、おあつらえ向きとしか思えない、長い杖が近くに落ちているのに気がついた。まるで童話に出てくる魔法使いの杖みたい——そう思って、ほんの少し現実逃避の笑みが溢れる。
杖を手に立ち上がる。立ち上がったところで、その先どうすればいいのか全く分かっていないのだが、何故か少しだけ、立ち上がれたことに安心している自分がいる。
再び前に向き直るが、そこに広がるのはただの森だ。方角もわからないし、わかったところでどの方向に進めばいいのか。
そのまま動けずにいると、背後の静寂の中から足音のようなものが聞こえてきた。映画でしか聞いたことがないような、沢山の、おそらく馬の蹄の音だ。馬?と疑問に思いつつも、この状況の説明が欲しくて、ふらふらと足音の方へ近付いてみた。思いの外、その足音に接近するスピードは速い。ほんの数秒で、木々の隙間から、遠目に馬の姿が視認できた。馬の上には人影…それに安心できたのは一瞬で、木漏れ日を反射してぎらりと光る、鋼色の西洋甲冑姿に混乱が先に立った。
映画のエキストラとか?いやいや、日本で外国の映画なんて撮らないだろう、そもそもここは日本じゃないのか。とかなんとか考えているうちに、気が付いた時には馬に囲まれていた。
馬の近くになんてそもそも立ったことがないから、想像していたより倍ほど大きく感じる。頭を打っていることも相まって、見上げただけで眩暈がした。
「————」
「——」
複数人から何事か話しかけられるが、言葉がわからない。耳慣れない発音で、英語ではないだろう、というのは辛うじてわかる程度。何度も話しかけられるが答える術もなく、沈黙で返していると、徐々に相手の語気が荒くなってきた。
「——」
何か答えなければ。そう思い、こちらもどうにか言葉が通じないことを伝えようとしたのだが、何故か全く声が出なかった。口からははっきりした音が出ず、喉を空気が通過する、ひゅうという微かな音がしただけだ。わからないことがあまりに多く、混乱で泣きたくなってくる。それでも声を出そうと何度か口を開くが、声と呼べるものは全く出てこなかった。
甲冑たちは、ちらりと顔を見合わせる。頭まで覆われた鎧のせいで、表情は全くわからない。すると、その甲冑たちの奥から、大柄な甲冑が現れた。肩からは真紅のマントを垂らし、鎧の形も少し違う。頭には羽飾りがついていた。妙に存在感があるというか、威圧感がある。腰に下げられた剣も、他の兵士のものより豪華で大きく、重そうだった。
「…——、——」
とても低い声だ。その声音だけで、より強く威圧感を感じてしまう。だがやはり、何を言われているのか分からず、固まっているしかない。その男はじっと返事を待つようにこちらを見下ろしていたが、甲冑の奥の瞳がふと細められ、何かを合図するように軽く手を振った。
「——!」
直後、どすんと脳を揺さぶられるような衝撃が首の辺りに走り、目の前が真っ暗になったのだった。