店
あたしはその後も、あの料理店で働き続けた。
毎日同じ時間に宿を出てゆき、決められたことを淡々とこなす。
満席になるほど盛況しているのに、この料理店の給仕はあたし含めて四人しかいない。料理人も数人しかおらず、手が足りていない。料理を提供する時間が遅れれば、客は「料理はまだか」と怒り出す。そうしたらあたしが「もう少しお待ちください」と謝りに行く仕事が増える。
仕事の疲労と客の苦情対応であたしは満身創痍になっていた。
休日は四日に一度貰えるが、それはベッドで横になっているだけで終わる。活動しようかと思った時にはもう夕方になっているのだ。日が暮れれば、大体の店は閉まる。夕食を摂って、明日の仕事に備えるのだ。
「……つらいニャ」
ふと、あたしは不満を呟いた。
「人間って、これを毎日やるのかニャ?」
老いるまで、お金を稼ぐために身を削って“労働”を続ける。
人間は衣服を買うにも、食事をするにも、住処を得るにも“金”が必要になる。
あたしが選んだ第二の人生は、こんなにもきつく、希望の持てない人生なのか。
不満を一つ呟いた瞬間、あたしはその場から動けなくなった。
「人間社会に溶け込むのが大変だったなんて知らなかったニャ……」
あたしは立ち直れず、弱音を吐き続けた。
猫だったあたしは、人間は自由に外へ出れて羨ましい存在だった。だから、寿命が尽きたら人間に生まれ変わりたいと願っていた。
この子の身体に憑依することで夢が叶ったのに、労働というものは精神をすり減らすだけで何も楽しくない。
それなら――
―― だめ! ――
「……声?」
頭の中で声が響いた。
これはキャスパリーグの声じゃない。女の人の声――。
「スミレだニャ!」
あの子の声だ。
あたしは手を自身の胸に当て、瞳を閉じ、声の主へ意識を集中させる。心の奥底にあの子はいた。
あたしに何かを訴えようと、必死になっているみたいだ。聞こえたのはその主張の一部だろう。あの子を深く意識したことで、だんだんと声がはっきりと伝わってきた。
『猫に戻りたいなんて言わないで! そんな弱気だったら身体を取り戻すわよ』
「そ、それは困るにゃ」
『取り戻して、マスクなしでロンドンを駆け回ってやる』
「だめニャ、それじゃ死んじゃうニャ」
心の中のあの子は、弱気なことを呟いたら憑依状態を解いて、自傷行為をしてやると脅してきた。憑依状態を解かれてしまったら、あたしは魂だけの存在になり、拠り所を失ってしまう。そうなったら、天へ召されてしまうだろう。
あたしはやけになっているあの子をなだめた。
少しすると、あの子はフッと微笑んだ。
『人間の労働は猫よりもつらいのよ。私の両親は仕事を二つ掛け持ちして、大変な生活を送っていたわ』
「ふ、二つ⁉ 疲れて死んじゃうニャ」
『人間として生活するのは大変なのよ?』
「みゃーは、人間はもっと楽に生きていると思ってたニャ。労働はつらいニャ」
『キャスパリーグさんは、あなたにそれを伝えたかったんじゃないかな?』
「……よく分からないニャ」
『人間は猫よりも過酷な人生だ。それでもお前は人間として生きたいか? ってね』
あの子の言う通りかもしれない。
実際に働いてみないと、苦労は分からなかっただろう。キャスパリーグはあたしを働かせて労働の大変さを体感させたかったのだろう。きっと、あの場で問われたとしても、あの時のあたしは「へっちゃらニャ」なんて気楽なことを言ってただろうし。
「あたしは……、人間として生きたいにゃ‼」
『なら、仕事が終わったらキャスパリーグさんの所へ行きましょう。もう一度会って話してみるのよ』
「うん」
ここで、あの子の声が途切れた。会話が出来たのは、あたしの魂とあの子の身体が完全に交わってなかったからだと思う。
あの子が前に出たのは落ち込んでいるあたしに喝を入れにきたのだろう。
「スミレ、ありがとニャ」
あたしはあの子にお礼の言葉を呟き、仕事へ向かった。
仕事は変わらず忙しかったが、気持ちは晴れやかだった。
店長にも「何かいいことあった?」と聞かれるほどに。気持ちが顔にも出ていたらしい。
高揚した気持ちで仕事を終えると、あたしはキャスパリーグの元へ向かった。
行き止まりの壁をすり抜け、霧が晴れた場所へ出た。
あたしは庭園を超え、キャスパリーグの家を訪ねた。
「来たか」
「人間として生きるのは大変だって、よーく分かったニャ」
「それを言いに、我の元へ来たのか?」
「働くことは大変ニャ。でも、人間は仕事とは別に楽しいことがいっぱいあると思うニャ!」
「その通り。人間には様々な“娯楽”がある。体を動かしたり、日光浴をしたり、恋愛をしたりと多岐にわたる。仕事の他に、娯楽をして人間は生きているのだ」
「日向ぼっこは楽しいニャ。でも、他に楽しいこともあるなんて知らなかったニャ」
「ここへ向かうがよい、我が管理している空き店舗がある」
「行ってみるニャ。ありがとニャ‼」
あたしはキャスパリーグに感謝した。
キャスパリーグはロンドンの一角に店舗を持っているそうな。一度、店を構えて商売したいと用意したそうだが、用意した直後、途端にやる気が無くなってしまい放置しているという。ただ、店内はキャスパリーグに仕える猫妖精たちに管理させており、一から準備しなくてもいいという。
あたしはキャスパリーグからその店の行き先を書いた地図を受け取り、彼の家を出て行った。
キャスパリーグの家から、ロンドンへ戻ったあたしは、マスクを装着して目的地へ向かった。しかし、霧のせいで目的地へ向かうのに難航した。派手な看板に書かれた場所を頼りに、あたしは進んでいった。
太陽の灯りから、街灯へ切り替わり始めた時、あたしは目的地に着いた。
それは高い建物の一番下にあった。
外から見える内装は、カウンター席と小さなテーブルが三つあった。その上にはチェアが逆さまに置かれており、放置しているという話は本当のようだ。
あたしはその店のドアに近づいた。すると、ガチャと鍵が外れた音が聞こえた。
「カギが開いてるニャ……」
きっとキャスパリーグが開けてくれたのだろう。
あたしは店の中に入った。
店内は猫妖精たちが手入れをしていたので、綺麗だった。白一色の壁紙が貼られており、狭い空間でも広く感じられる内装である。
あたしは店内の内装をぐるっと観察した後、厨房へ入った。ここも綺麗に手入れされており、材料さえあればすぐに調理できそうだ。
「……なんか作ってみたくなったニャ」
綺麗な厨房を見て、あたしの口からぽろっと言葉がこぼれた。でも、料理なんてやったことがない。熱い火を扱うことも猫だったあたしには恐れ多い。そんなあたしに料理が出来るだろうか。
―― 店長が、私のお菓子を気に入ってくれてね、料理屋で販売してたんだよ ーー
ふと、あの子が毛繕いをしながらあたしに話してくれた内容を思い出された。
今まで看板の文字が理解できたり、給仕の仕事が出来ているのは、身体の経験があってこそ。それなら、あの子が屋敷で作っていたお菓子を作ることが出来るのではないか。
あたしは早速試してみることにした。
「お菓子の材料はーー」
材料を買いに行こうと考えた途端、目の前に食材が現れた。強力粉、薄力粉、卵、砂糖など、それらはあの子がお菓子を作っていた時に使っていたものばかり。
唐突に材料が現れたのも、キャスパリーグがやってくれたのだろう。
「早速作ってみるニャ‼」
あたしは、生まれて初めて料理をした。
材料を計量し、それを順番に入れて生地を作る。それを暖めていた竈に入れた。それが焼きあがる間、温めた生クリームとチョコレートを湯煎する。
お菓子を作っている間、あたしは身体が勝手に動いているようで不思議な感覚だった。これがあの子の“仕事”。猫の姿で見上げていた時は分からなかったけれど、慎重に材料を計量していたし、材料によって混ぜる手つきが変わる。特に卵白を高速でかき混ぜた時には二の腕が疲れた。
「腕が、上がらないニャ……」
湯煎した材料を冷蔵している間、あたしは一息ついた後、生地の膨らみ具合を確認した。ぷくっと膨らんだところで、生地を乗せた鉄板を少し離れた場所に置いた。
「どうして、離すのかニャ?」
あたしは自身でやった行動に首を傾げた。あたしは鉄板を置いていた場所に手を近づけた。熱い。火に近い場所だから当然か。
「こっちよりは熱くないニャ。もしかして鉄板を置く場所で焼き加減が変わるのかニャ?」
鉄板を移した場所は、さっきの場所よりも熱くない。少し経って、あたしは鉄板を竈から取り出した。生地から粗熱が取れた後、冷やしていたクリームを間に挟んだ。完成品を見てあたしは何を作っていたのか判った。
「こ、このお菓子は⁉」
見覚えがある。これはご主人様が大好きだったお菓子だ。
あたしは、完成品を一つ口にした。
サクッという触感としっとりしたチョコレートクリームの二つの触感が面白い。
「美味しいニャ!」
あたしは続けて三つ食べた。
「ご主人様がスミレを雇ったのも分かるニャ」
ご主人様が好きなお菓子はまだまだある。
もっとお菓子を作ってみたい。
作ったお菓子を味わいたい。
あたしはそう思った。胸が高鳴り、頭の中は作りたいお菓子が沢山浮かんだ。
「……楽しい! 楽しいニャ!」
あたしはロンドンに来て初めて、楽しいと感じた。
お菓子を作る楽しみがあれば、仕事も乗り切れるような気がする。これがキャスパリーグの言ってた“娯楽”だろうか。
「まあ……、それは後で聞いてみるとして、もっとお菓子を――」
もっとお菓子を食べようと手を伸ばしたら、突然それらがあたしの前から消えた。
「ミャ⁉」
まだ三つしか食べていないのに。
「キャスパリーグ! ひどいニャ‼ もっとお菓子食べたかったニャ」
あたしはこの場にいないキャスパリーグに抗議した。けれど、作ったお菓子は戻ってこない。その代わりに天井から一枚の紙きれがひらひらと降ってきた。
あたしはそれを手に取り、そこに書かれていた文字を読む。
―― 菓子、美味である ――
書いてあった一文を理解すると、あたしはそれをくしゃくしゃに丸め、床に投げ捨てた。怒りの感情を呼吸で鎮めた後、あたしはキャスパリーグに話しかけた。
「ここ、また使ってもいいかニャ?」
返事は帰ってこない。でも、使っていい気がした。
仕事終わりにまたここへ来て、お菓子を作ろう。また、キャスパリーグに作ったお菓子を奪われてしまうかもしれないが、厨房を利用する対価にして貰おう。
お菓子を作って満足したあたしは、空きの店舗を出て行った。
その後も、仕事終わりに厨房に寄り、お菓子を作る日々が続いた。
仕事のやる気も変わってきた。これを終えたらあのお菓子を作って食べることが出来る。そう考えるだけで、気持ちが楽になったのだ。
料理店の店長も、あたしの気持ちの変化に気づいたようで、時々「何か嬉しいことでもあったのかい?」と尋ねてくるようになった。多分、気持ちが顔に出ているのかもしれない。
仕事終わり、あたしはすぐにキャスパリーグの店へ向かった。頭の中に浮かんでいるお菓子を作るためだ。
はじめはあの子の経験を借りて作っていたが、身体を動かしてゆくうちに、材料の測り方、混ぜ方、焼き方が分かるようになってきた。そして、自分の考えたお菓子を作ってみたいと思うようになった。しかし、自分で作ってみようとすると生地が焦げたり、パサパサになったり失敗作が生まれる。まだあの子の知識に頼らないと満足に作ることが出来ないようだ。
失敗作が生まれたとしても、次、焼き方や材料の配分を工夫すれば乗り越えられることが分かり、何回か改善した後に出来上がったお菓子は格別に美味しかった。
「スミレもこうやってお菓子を作っていたのかニャ?」
屋敷で働いていたあの子は、失敗作を作っている様子は無かった。一度で美味しいお菓子を作り上げ、ご主人様に振舞っていた。完璧な印象を持っていたが、あたしの知らないところでこうやって練習をしていたかもしれない。
「そうだったら、いつかみゃーも上手くお菓子が作れるようになるニャ」
自身にそう言い聞かせていると、作ったお菓子が消えていた。
「またニャ……」
一つ困ったことと言えば、作ったお菓子をキャスパリーグが勝手に持ってゆくことである。それも、美味しく出来たものだけ。きっと、あたしが一口食べた反応を見て判断しているに違いない。始めは都合の良い時に現れるなんて、と怒っていたが段々とその気持ちも失せてしまっていた。
あたしが盛大なため息をつくと、紙がひらひらと天井から落ちてきた。
「ん? キャスパリーグに呼ばれたニャ」
その紙を受け取り、読み取る。
キャスパリーグはあたしに用があるらしい。向こうから呼ばれるのは初めてかもしれない。
あたしは、すぐにキャスパリーグの元へ向かった。
家に入ると、キャスパリーグはアタシが作ったお菓子を食べていた。
奪い取ったお菓子を当人の前で堂々と食べているとは、神経が図太い猫貴族だとあたしは思った。
「そっちから呼ぶなんて、何かあたしに用かニャ?」
「うむ」
キャスパリーグはあたしが作った菓子を突き出した。
「お主の菓子を食べていたら、店を開きたくなったのだ」
「店⁉ あ、あの店舗でかニャ?」
「元々、喫茶店を開くために我が買ったものだ。我がどう使おうが勝手だろう」
「それは困るニャ! みゃーはどこでお菓子を造ればいいニャ」
「喫茶店の開店はお主にも関係ある話だ。だからここに呼んだ」
「関係あるかニャ?」
キャスパリーグの話題を聞いても、ピンと来ない。
それと、あたしは喫茶店というものが分からない。“店”とついているから何かのサービスでお金を貰うのは理解したが、“喫茶”という単語は初めて聞いた。
ぽかんとした顔をキャスパリーグに向けていると、説明をしてくれた。
「“喫茶店”とは、コーヒーという飲み物と甘いお菓子を提供する店だ」
「コーヒー?」
「お前が滞在している宿屋に黒い飲み物は無かったか?」
「あ、あるニャ! 朝食に皆飲んでるニャ」
「あれがコーヒーだ」
朝食の時、宿屋の客がこぞって注文している黒い飲み物。それを頼んだ人の隣に座ると香ばしいに匂いがする。前から興味はあったが、水の色が黒いから手が出せなかった。
「口にしてみるか?」
キャスパリーグの提案にあたしは頷いた。
キャスパリーグが手を振ると、あたしの目の前に湯気の立ったコーヒーの入ったカップが現れた。あたしはそれにフーフーと息を吹きかけ、十分に冷やしてから口に含んだ。
「に、苦い‼」
あたしはコーヒーの苦さに驚き、カップを落としてしまった。
キャスパリーグはあたしの反応に笑いながら、割れる前にカップを宙に浮かせた。液体のコーヒーもあたしの目の前で浮かんでいる。
「苦い飲み物を飲むなんて、人間は変ニャ」
「だが、お主の周りでは飲んでいる者はいるだろう」
「いるニャ」
宿屋の宿泊客は朝食にはこぞってコーヒーを注文する。その光景を目にしているからキャスパリーグの話を否定できない。
「コーヒーの話をしに来たんじゃないニャ!」
このままではコーヒーの話で終わってしまう。
あたしは話題を断ち切り、本題を切り出すよう促した。
少しの沈黙の後、キャスパリーグはあたしを指した。
「お主の菓子を喫茶店で使いたいんだ」
「みゃーのお菓子を⁉」
「そうだ。あの菓子なら商売になる。やってみないか?」
これは嬉しい提案だ。すぐに受けたいけれど、あたしは考え込んでしまった。
「料理店の仕事を辞めなきゃいけないニャ」
忙しくて大変な仕事先だったが、辞めるとなると名残惜しい気持ちになる。店長や同僚たちと打ち解けてきたからだろう。
「でも、好きな事を新しい仕事に出来るなんて、わくわくするニャ」
お菓子を作るのは楽しい。そして、美味しいと褒めてくれるのはもっと嬉しい。答えはあたしの中で決まっているようだ。
「みゃー、やってみるニャ」
あたしはキャスパリーグの提案を受け入れた。
後日、あたしは料理店の給仕を辞めた。辞める理由を正直に店長に話すと「頑張れ」と応援してくれた。
店を開店するには少し時間がかかった。
原因はコーヒーだ。
後から知ったのだが、喫茶店はあたし一人で運営するらしい。なぜかというと、猫や猫妖精たちにとって、コーヒーは毒であり、作ることが出来ないからだ。だから、コーヒー豆の挽き方から淹れ方まで習得する必要があった。
「うう……、苦いニャ」
淹れたコーヒーはもちろん試飲する。熱さと苦さがまだ慣れない。でも、商品として出せるくらいに仕上がった。
開店当日。
あたしは身支度を整えるため、店内の鏡の前に立っていた。
今日は三つ編みではなく、いつもと違う髪型で挑みたいと思ったのだ。
「うーん、高く一つに結わえてみるかニャ……」
髪を頭頂部まで集めてみたが、どうもしっくりこない。
「いい髪型、ないかニャ」
悩んでいると、手が勝手に動いた。
左右の髪の毛を一房ずつ拾い、それをクルクルと丸めてゆく。
「こ、これがいいニャ‼」
出来上がった髪型に決めた。左右が猫の耳のようになっており、あたしらしい髪型だと思えた。
―― 応援してるよ ――
あの子の声が聞こえた。
「ありがとニャ」
あたしはあの子が猫の耳のようにまとめた髪に触れ、お礼の言葉を呟いた。そして身支度を整えたあたしは店を出た。
店の前であたしは深呼吸をした。
「よし‼ 店を開けるニャ」
あたしは扉にかけてある“閉店”のプレートを“開店”へ変えた。今日からあたしの喫茶店運営が始まったのだった。