ブリテンへ
「うーん」
スミレの身体に乗り移ったあたしは、背伸びをした。
目の前には動かなくなった白い老猫シャルロットがいる。自分を俯瞰して見る日が来るなんて夢にも思わなかった。それに、人間の身体になると背が高くなった分、見える世界が違った。
「……人間の身体で何をしようかニャ」
あたしは人間に生まれ変わることが夢で、その他の事は何も考えてなかった。それにあたしの世界は屋敷の中ととても狭い。この町でこの子の知り合いに会ったとしてもどう接したらいいか分からない。
「飼い主様は、確か……、沢山の人に命令していたニャ」
あたしの人間としての基準は飼い主であるシュルツになる。
シュルツは沢山の人に命令をし、お金を払っていた。人間は何かをしてお金を得なきゃいけない。
「飼い主様みたいな人……、キャスパリーグ様を頼ってみるかニャ」
シュルツのような人、それは外国、ブリテンにいる猫魔族のキャスパリーグだ。彼は猫妖精を統べる存在で、シュルツのように真面目ではないが、色んな猫の話を聞いて、指示をしているという。
シュルツからお金を得ていた人は“働く”といってた。それは“仕事”というらしい。
キャスパリーグに会えば、“仕事”を与えてくれるかもしれない。
「よし、ブリテンに出発ニャ!」
あたしはキャスパリーグから仕事をもらうため、彼のいるブリテンを目指すことに決めた。
ブリテンへ向かう手段は二つある。
一つは密入国すること。出来なくはないが、身分を証明するものがないから後々苦労することになる。
もう一つは魔道汽車に乗って入国すること。移民として受け入れられるので後々楽になるが、魔道汽車に乗るためには“お金”が必要になるという。この子も出てゆく際にシュルツから餞別として大金を貰っているが、それで足りるのだろうか。
「ブリテンでの生活もあるし……、お金は大目に持っておきたいニャ」
お金をすぐに得る方法……、と考えていたら、ふと前の身体についている首輪に目がいった。
この子が毛繕いをしてくれた時、この首輪は宝石が付いていると言ってた気がする。
宝石は売ればお金になるらしい。
あたしは元の身体についている首輪を外した。
これはあたしのものだ。あたしの次の人生のために必要なものだ。
「ご主人様、これは貰ってゆくニャ」
あたしは首輪をぎゅっと握りしめた。あたしを育ててくれたご主人様から離れるのは胸が締め付けられる思いだけれど、この子の姿で戻ることは出来ない。新しい人生を送るために必要なことだと割り切り、あたしは荷物を持って屋敷を出て行った。
屋敷を出た夜、あたしは人も灯りもついていない真っ暗な広場にいた。もちろん一人である。傍にあるベンチに座り、幽霊汽車がやってくるのを待っていた。
ブリテンへ向かう幽霊汽車は真夜中にやってくる。人間の間では、怪奇の一種とされているが、幽霊汽車は実在しており、乗車する時刻に特別なことをすれば、それは現れる。
幽霊汽車はタフトの町ではこの広場に停車する。時刻は真夜中の二時半。特殊な紙を持って指定のベンチに座ればいいのだ。
特殊な紙というのは、魔力を込めたインクで行き先を書いたものだ。この世界の人間は魔力を秘めているものの、それを溜め込んでいるだけで、吐き出す手段を知らない。だから大抵の人間は幽霊汽車に乗れないのだ。
「そろそろかニャ」
あたしは呟いた。上空から、汽笛の音が聞こえたからだ。
その直後、目の前に線路が見えた。しばらくして、幽霊汽車が停車する。見た目は普通の汽車と変わらない。
ちょっとして、汽車のドアが開いた。そこには車掌がいた。
「お客さん、切符を拝見するよ」
「ブリテンへ行きたいんだニャ」
「ブリテンかい……? ああ、あんた人間に憑いた化け猫かい」
あたしが人間だと思った車掌は、行き先を聞いて首をひねったが、すぐに正体を看破し、納得していた。化け猫ならブリテンにいるキャスパリーグを頼って当然だと解釈してくれたようだ。
「お金だけど――」
「これで足りるかニャ」
「おお、宝石か。でも、偽物かもしれないからなあ……」
「元のみゃーはタフトの町の貴族に飼われてた猫ニャ。貴族が偽物の宝石を装飾に使うと思うかニャ?」
「うーん」
車掌は首輪についた宝石を見つめながら唸っていた。
「現金はないかい?」
「……あるニャ」
車掌は鑑定書のない宝石を乗車賃の代わりにすることは出来ないと判断したようだ。
あたしは荷物の中から金を取り出した。
「いくらあればいいニャ?」
「えーっと」
車掌はあたしの手の平から乗車賃を取っていった。高額だと聞いていたから、全部なくなると思ってたけど、あたしの手の平には硬貨が沢山残っていた。
「お嬢ちゃん、憑いたばかりだね」
「……実はそうニャ」
「忠告しておくけど、君が持っているのは“金貨”だ。乗車賃はそれが五枚あれば足りる。ブリテンだったら、それが一枚あれば一か月、三食付きの宿に泊まれるだろう」
「へえ……」
金貨はまだある。車掌の話が本当であれば、ブリテンに長く滞在できそうだ。
「だから、金貨を沢山持っていることを誰かに話してはいけないよ。無理に奪おうとする人が現れるからね」
「分かったニャ」
車掌の忠告を受け止め、あたしは幽霊汽車に乗った。
乗客を乗せると、幽霊汽車は汽笛をあげる。そして、上空へ走っていったのだった。
乗客はあたしだけで、ブリテンへ向かう間、車掌からお金の使い方と“人間”の暮らし方を教わった。憑いたばかりのあたしを気遣ってなのか、雑談相手が出来たからなのか分からなかったが、そのおかげで到着するまでの時間が短く感じられた。
「そろそろブリテンだぞ」
雑談が途切れ、車掌が告げた。
窓の外を見ると、星空が白い煙のようなもので見えなくなっていた。窓を何度もこすってもそれは消えなかった。
「星が見えないニャ」
「それは“霧”だよ」
「キリ?」
飼い猫時代、雨が降った時、屋敷の外の景色が今のようになった時があった。でも、窓が露結していないから、あたしはこの現象があの時体験したものと同じものだとは思えなかった。
キョトンとした顔で車掌を見ていると、彼は深いため息を吐いた。
「ブリテンに着くまでに少し時間がある。簡単に説明してやるよ」
「ありがとニャ」
あたしは車掌の話を熱心に聞いた。
幽霊汽車が停車するのは、ブリテンの“ロンドン”という町だという。キャスパリーグもそこに暮らしており、居場所は化け猫であるあたしであれば、気配で探ることが出来るだろうと教えてくれた。
ロンドンは別名“霧の町”と言われている。でも、霧が出ている要因は雨が降っているなどの自然現象ではなく、魔石を用いた魔法装置が発する人為的に発せられた有害なものだという。あたしには少しその耐性が付いているものの、一日中吸い続けていれば死に至るとか。だから、町へ入ったらすぐに“マスク”を買えと助言を貰った。
「そろそろ着くぞ」
「……地面も線路も見えないニャ」
車掌の話が終わると、減速を知らせる汽笛が鳴った。周りが霧に包まれていて、線路が見えないので、目的地に到着したのかさえ分からない。
幽霊汽車が減速を始めた。体が前方に引っ張られ、バランスを崩したあたしは前に転んでしまった。顔を床に強く打ち付ける転び方をした。
「いった~いニャ」
「ははっ、憑いたばかりだからな、人間の身体に慣れてないだろ」
「少しずつ慣れていくニャ」
「じゃあな、またのご利用をお待ちしております」
猫らしからぬ転び方を見た車掌が笑った。確かにシャルロットの頃だったらありえない転び方だ。車掌の言う通り、憑いた身体に慣れていないせいだ。
幽霊汽車のドアが開いた。それと同時に有害な霧がもわっと車内に入ってきた。
あたしは霧の中へ飛び込んだ。
車掌の言った通り、霧を吸い込むとふらっとめまいがする。
「うーん、何も見えないニャ」
あたしはとりあえず前へ進んだ。霧のせいで遠くに何があるか見えないが、近づけば物の気配が感じ取れるくらいだ。ぼーっと歩いていたらぶつかってしまうだろう。
ちょっと歩くと、沢山の人間の気配を感じた。どうやら町へ入ったみたいだ。
町に入ったらマスクを買え。
車掌の助言通り、あたしは店でマスクを買った。金貨一枚払って、お釣りとして銀色の硬貨が沢山戻ってきた。これが銀貨だ。
金貨一枚で銀貨九十九枚の価値がある。銀貨は銅貨百枚の価値があるから、ロンドンでお金に困ることはないだろう。
あたしは買ったマスクを着け、キャスパリーグの気配を探った。マスクをつけただけで、呼吸が楽になる。
キャスパリーグとはすぐに会うことができそうだ。暮らしている場所を知っていたわけではない、なんとなく歩いていたら、キャスパリーグの家が目の前にあったのだ。あたしが無意識にキャスパリーグの気配を感じていたのかもしれない。
キャスパリーグの住処には扉がなかった。あたしの目の前にあるのは行き止まりである。レンガ色の高い壁で、この先へ進めるとは普通なら思わない。
でも、今は行けると思った。そしてこの先にキャスパリーグがいると感じられる。
「……行くニャ」
あたしは壁に手を伸ばした。するとあたしの手が壁をすり抜けた。前へ進むと体も壁に吸い込まれてゆく。どうやらこれはキャスパリーグの魔法で、限られた者しか入れないようになっているらしい。あたしは化け猫だから、何もせずとも歓迎してくれる。
キャスパリーグは英国中の猫妖精を統べる王なのだから。