プロローグ-2
シュルツの愛人となって半年が経った。公に出来ない関係のため、私はラクディング家に仕える使用人として雇われたことになっている。けれど、私の仕事は掃除や身の回りの世話ではなく、ラクディング一家の菓子を作ることだ。
新作の菓子を考え、試作し、完成品をラクディング家に提供する。私としては、菓子で生計を立てる夢が叶って、給仕の頃よりも充実した日々を送っていた。
家族からも時々手紙が届く。シュルツは私との約束を守ってくれているようで、両親は普段の仕事量に戻り、弟はより一層勉学に励んでいるという。家族も良い方向に向かっていて、シュルツの求愛を受け入れてよかったと思えた。
ただ一つ、嫌なことがある。
それは、正妻の嫌がらせである。
「はあ……、またか」
洗っていない食器や、野菜の皮やヘタ、パンくずが散らかっている。これはシュルツの正妻が調理師と使用人に銘じて私に嫌がらせをしているのだ。私はこれを片づけることから始まるため、製菓作業が必ず遅れる。
私とシュルツの関係は、二か月経った頃で正妻にばれた。それ以降、シュルツに見えないところで使用人などを使って嫌がらせをするようになった。
私はため息をつきながら、後片付けをし、調理を始める。材料を混ぜ、生地を作り、それを窯の中に入れる。砂時計を傾け、私はここで息をつく。
「あら?」
休憩していると、猫の鳴き声が聞こえた。
長毛種の白猫が私の元へ寄ってくる。
「おいで、シャルロット」
この猫は、ラクディング家の飼い猫、シャルロットである。長い毛で身体を覆っているため、身体が大きく見えるが、触れてみると細いことが分かる。そして、この子はゆっくりと私の元へ近づくと、顎を撫でられゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「よく来たね」
シャルロットは毛ツヤが良く、首輪は高価な宝石に埋め尽くされた特注品である。だが、年齢は十五歳と高齢で、いつもはシュルツの部屋で丸くなって眠っていることが多い。
階段を下りて調理場までやってくるのはかなり珍しいのだ。
「生地が焼きあがったら、毛繕いしてあげるね」
私は懐いてくれているシャルロットの世話を自主的にやっている。長くてふわふわな毛は手入れを毎日やらないとほこりが毛に絡まるようで、絶えず毛繕いをしている。それで飲み込んだ毛を吐き出すのだが、高齢ということもあり、吐く行為も辛そうだった。それを見かねた私が仕事終わりにブラシをかけてあげたら、私の元へやって来てブラッシングをねだるようになった。
「この家で優しくしてくれるのは、シュルツとあなただけよ」
私は柄にもなく、シャルロットに弱音を吐いた。
「ありがとうね」
猫のシャルロットには私の言葉なんて分からないだろう。でも、分からないからこそ弱音を吐き出すことが出来た。
私はシャルロットの頭を撫で、彼女に触れた手を洗った。
傾けた砂時計の砂は反対側に落ちており、生地が焼きあがる時間が迫っていたからである。私が仕事に戻ると、シャルロットはツンとした顔で、調理場を去っていった。きっとシュルツの部屋にあるシャルロッテ専用のソファで丸くなって眠っているのだろう。
「あの人の嫌がらせは段々度を越してきた」
私は焼きあがった生地の様子を確認しながら呟いた。
生地は膨れ上がっており、後はこれを冷まし、中に生クリームを入れたら完成だ。これをシュルツと正妻のお茶の時間に振舞えば私の仕事は終わる。
慣れたとはいえ、正妻の嫌がらせはひどくなってきている。今は自分だけに降りかかっているが、その内誰かが巻き込まれるかもしれない。
私の不安はすぐに的中した。
それから三日経った。
今日はシュルツの仕事相手が来るそうで、もてなす菓子はタルトにしてほしいと言われた。私はその通りに作り、約束の時間に二人に提供した。
その日は紅茶を淹れる使用人が席を外していたため、用意されていたものをカップに注ぎ、シュルツと客人に振舞った。
「下がってくれ」
「はい」
私はシュルツの言う通り、席を外した。
二人の話が終わる間、シャルロットの毛をブラシですいてあげようと、意識が別の場所へ向いていた時だった。
「スミレ!」
バンッ、と勢いよくドアが開かれた。そしてシュルツが私を呼んでいる。彼の切迫した表情から、ただならぬ事が起こったに違いないと感じた。
「客人が倒れた! すぐに医者を」
事情は知らなかったが、私はすぐに屋敷に常駐している医師を呼び、シュルツの元へ連れてきた。現場を見たことで、私は何が起こったのか理解した。
客人の紅茶のカップが投げ出されている。紅茶の中に毒らしきものが盛られていたのだ。
「スミレ、あの紅茶は君がーー」
「旦那様、私はあの紅茶を使用人から受け取っただけです」
「……」
嫌がらせの被害がシュルツの友人に及んでしまった。
恐れていたことが起こり、私はその場にへたり込んだ。
「話は後だ。君は部屋に戻りなさい」
「はい」
私はシュルツに支えられ、自室へ戻った。
ベッドの上にはシャルロットが寝転がっていた。くわあと欠伸をしている。
私はシャルロットの隣に座り、彼女のふわふわな毛を撫でつけた。そうやって気持ちを落ち着かせないと、不安で押しつぶされそうだったからだ。
後日、私に処分が言い渡された。
ラクディング家専属菓子職人の辞任である。原因はシュルツの友人が倒れたあの事件だ。幸い、致死量の毒ではなかったため、意識を取り戻したが、その顛末の責任はすべて私にのしかかった。
正妻の息のかかった使用人が、私の菓子に毒が盛られていたのだと主張したからである。シュルツの友人はあの時、菓子とあの紅茶を口にしていた。だから紅茶に毒が入っていたのだという証拠にはならなかったのだ。
私は荷物をまとめ、屋敷の外へ出た。
無実の罪を着せられたことが悔しくて仕方がない。それに、菓子職人を辞任されたと同時に愛人契約も打ち切られた。家族への支援が絶たれ、両親はまた仕事を掛け持ちする日々に逆戻りである。
正直、実家に戻りたくはなかった。
「……この場からいなくなりたい」
この悔しさを発散させる気にもならなかった。
私は身売りまでして、ラグディング家の専属菓子職人になったのに、えん罪ですべて失った。家族をまた不幸にさせてしまう。そんな親不孝な自分なんていなくなったほうがいい。
―― どうせ死ぬのニャら、その身体、私にくれないかニャ ーー
「え?」
頭の中で声が響いた。幻聴だろうか。
私はすぐに平静を取り戻し、この場を離れようと屋敷から背を向ける。
「シャルロット?」
私の目の前にはシャルロットが座っていた。
「あら、脱走しちゃったのかしら……」
すまし顔で座っているシャルロットはみゃーと鳴いた。
シャルロットは完全室内飼いだ。屋敷の外に出たとなれば、使用人が総出で彼女を探す。シャルロットはシュルツの愛猫だからだ。
私が屋敷の中へ帰そうとシャルロットに手を伸ばした時、あの声が聞こえた。
―― みゃーは、外に出たいんだニャ ――
私は伸ばす手を止め、その場にしゃがみ込む。
この声はもしかしてシャルロットの声?
私はシャルロットをじっと見つめた。
「外に? 連れて行ってほしいの?」
シャルロットが鳴いた。多分、肯定していると思う。
多分、あの声はシャルロットのものだと思う。でも、シャルロットが屋敷からいなくなったら、大変なことになる。それに、私の身体が欲しいってどういうことなんだろう。
訝しげな顔でシャルロットを見つめているとまたあの声が聞こえてきた。
―― スミレの身体に憑依すれば、それが出来るニャ ――
つぶらな瞳でシャルロットが私に訴えている。
「私の身体を使って、外に出たいの?」
それならば猫よりも遠くへ行ける。
不思議な提案だった。
だけど、私はそれを断ろうとは思わなかった。だって、シャルロットに出会う直前、私は消えてしまいたいと願っていたんだから。この身体が誰かの役に立てるというのなら――。
「いいわ。私の身体を使って」
私はシャルロットの提案を受け入れた。
提案を受け入れた直後、私の意識は遠のいた。胸からドンと強い衝撃を受ける。
これが人間として生きた私の最期だった。