9:一筋のミモザ
「…………」
スピーカーの役割を果たすであろう部分からは、ノイズばかり漏れてくる。電話の先に何がいるのか分からない以上、こちらから喋るわけにはいかない。
そう思って黙っていると、ノイズの中に声のようなものが混じっているということが、次第に判別できるようになっていた。あるいは時間経過で、通話の精度が増しているのだろうか。
…………まさか、この声は――!
「――空楽!?」
俺が声を発した瞬間、音質はクリアになり、正常な音声が耳元から聞こえ始めた。
『鈴真!?』
名前を呼んだ俺の声に対して、相手も驚いたらしい。
端末越しだから直接ではないけれど、もう二度と聞くことさえできないんじゃないかと思っていた、本物の空楽の声だ……。
「どうして空楽が……どういうことなんだ、これ」
『俺にもよく分からない……ただ、えーっと……俺が持ってる端末のことは知ってる?』
肯定する。俺がコメントを残せていないから、空楽が知ることもなかったんだろう。
『その端末にさ、今まではなかったデータ……が追加されてて……なんだろう、って不思議に思っても、何か助けになってくれるんだったら使ってみようと思ってさ』
それで操作してみたら、発信状態になったそうだ。誰が出てくるのか、どこへ繋がっているかも分からないけれど、とにかく藁にも縋る思いだったらしい。
『でもまさか、鈴真に繋がるなんて思わなかった。久しぶり……って言うのもなんか変だけど』
「ああ、うん……そうだね、そうだ……」
少し照れたように話す空楽の声を聴きながら、改めてこの状況を実感して胸がいっぱいになっていた。鼻の奥がツンとし、涙腺が緩む。泣いていると知られたくなくて、どうにか深呼吸を静かに繰り返して気を鎮めた。
「ところで、こんな風に会話してて、そっちは大丈夫なのか?」
小説の描写では、ずっと警戒してばかりで落ち着ける場所もなく、ほとんど休めていなかったはずだ。
『……今はね。ちょっと前まではずっと森の中を走り回ってたんだけど、街を見つけたんだよ。――まあ、とっくに滅びてるみたいだけど』
「そうか……」
『廃墟にはなっているみたいだけど……建物が結構頑丈でさ、あと路地が狭くて入り組んでいるからか、異形もあまり近寄らないみたいなんだ。廃墟って危ないし、所有者の許可なしで侵入するのもダメだから、ほんとは無断で入っちゃダメなんだけどね』
「それ、元の世界で言えることだろ? 空楽の場合は状況が状況なんだから、仕方ないじゃん」
大変な目に遭っているのに、変なところで元の世界の常識を持ってくるんだな、と少しおかしくなって、笑みを含ませながら返す。
『そうそう。ま、でも崩れたら危ないし、気を付けてはいるよ』
安全が確約されたわけではないとはいえ、ある程度なら安心して休める場所を見つけたからなのか、生前に読んでいたときよりも元気になっているようでほっとした。
しかしそれで終わりにしてはいけない。こうして会話できるようになったのだから、具体的な解決策を話し合わなければ。
そう思って切り出そうとしたところで、雑音と共に通話は途切れてしまった。
「!? 空楽!?」
こちらからかけ直せないかと思って、端末を探ってみる――が、それらしきものは見当たらない。
「クソッ……!」
これでは振り出しに戻ってしまう。
「銀花、これは一体なんなんだ!」
頭上に佇む銀花に向けて叫ぶが、答えは返ってこない。
「自分で考えろってことなのか……?」
小説を開いて読み進める。そうすると確かに、空楽が廃れた街を見つけて、廃墟と化した建物へ逃げ込むシーンが描かれていた。
……驚くべきことに、その後にあった俺との通話までもが、ちゃんと記載されているのだ。そして、血の気が引いたのは――俺が現実世界で何をしていたのか、そしてどうなったか、ということまで描写されていることだ。
……じゃあ、もしかして、空楽は……、このことも、知って、しまった……?
「いや、でも、待てよ……、そう断定するのは早いんじゃないか……?」
誰に話すでもなく、動揺から独り言を漏らす。震えた声が実に情けない。
「空楽が、端末を使ってあの小説を見ているとは限らない……」
現実逃避だと頭のどこかで理解はしていても、そうせざるを得なかった。
……とにかく今は、そうだ……空楽とまた通話する方法が分からなければ、この世界を生きる俺たちへアクションを起こせるよう、修行でもしてみるしかない。
もう一度、銀花のほうへ目を向けてみる。先ほど叫んだときに少しだけ思ったのだが、まだ日が昇り切らない薄暗さの残る時間帯だからなのか、銀花の姿がわずかに眩しく思えた。
――やはり、気のせいではない。まさかと思って自分の姿を確認しようとショーウィンドウに顔を向けたところで、自身は映らないことを思い出す。
それならばと直接確認できる範囲で己の身体を見回してみたところ、銀花を見たときと同じように、ほんの少しだけ眩しさを感じられた。
「…………これって」
周囲の――俺と銀花以外の色が、少しだけ落ちている?
そのせいで、相対的にまぶしく感じられるんじゃないだろうか……。
断定はできないけれど、銀花は「少しずつ色が失われていく」と言っていた。だから、俺がブティックで放心状態になっていたときも、そんなことには構わずに残された時間は着々と減っていく。
こうしている間にも失われていくのだと思うと、急に焦りが生じてしまう。人通りが増えてきた街路から離れるために歩き出そうとしたところで、銀花に支えられていなくても宙に浮いていたことを思い出した。
他の人には俺の姿が見えない分、地上では障害物を避けて歩くのが大変だ。俺の意志で自由に浮遊できるなら、その方法で移動したほうがいい。
あのときの感覚と銀花の動きを思い出しながら、それらをなぞってみる。慣れていないから、宙を移動することに対して奇妙な感じはするけれど、なんとか地上を歩かずに済みそうだ。
……さて、ひとまず……ポルターガイストの練習をするなら、こんな街中ではまずい。自分の家では生きている自分を含めた家族に迷惑をかけてしまう可能性もあるし……。
そこで浮かんだのが、空楽の家の近所にある公園だった。あそこで子供たちの邪魔にならないよう気を付けながら、隅のほうでやれば問題なさそうだ。
正しい方法も分からない状況で練習をしながら、その合間に端末で空楽の小説を読んで、向こうの状況を確認する。その結果、生きている人が「風かな?」と誤認してしまう程度ではあれど、どうにか自分の意志で物を動かせるようになっていた。
しかし――それをうまく活用できないまま、俺はまた、空楽の死を目の前で味わっていた。
不自然ともいえるほど、急にコントロールを失ったダンプカーをいち早く察知できても、俺は生者に触れられない。腕をつかみ引き寄せて回避させることもできず、また目の前で死んでしまった。
「――あなたは、まだ諦めていないでしょう?」
背後から聞こえてきた声に対して、油の足りない機械仕掛けの人形のように、ぎこちなくゆっくりと振り向く。
俺の回答を聞く前から、すでに彼女は大鎌を振りかぶっていた。焼けるような痛みが身を覆いつくし、身体が裏返っていくような、吐き気を催す感覚で支配される。
――そしてまた、過去へ遡った。
「…………」
銀花が言っていたように、俺は諦めていない……けれど、今までずっと引きずっていた空楽の死を再度見せられてしまっては、精神的に追いつけるわけがなかった。
それなのに猶予もなく事故前に戻され、再びタイムリミットが迫ってくる……。
俺がまた失敗したとしても、銀花が時間を巻き戻すという保障はない。いや――そもそも、失敗を前提にしてはいけない。
今度こそ俺は、どうにかして空楽を救わなければ。大丈夫……少しずつではあるけれど、霊として世界に干渉できるようになってきた。絶望的とは言えないはずだ。
だから、少しの時間も無駄にしないように、今すぐにでも動くべきだと言うのに……まどろみの中でたゆたっているような、夢と現実の区別がつかないふわふわした状態のままで、俺は立ちすくんでいた。
そんなとき、端末から電子音が鳴り響く。緩慢な動作で画面をよく確認せずに出ると、聞きたかった声が耳に入ってきた。
『鈴真――?』
「……空楽……」
『ごめん、ようやくかけ直せるようになったんだ。…………鈴真、どうかしたの?』
明らかに様子のおかしい俺を気にかけてくる。時差があるだろうから、俺が失敗したことが小説に反映されるとしても、まだ知らないはずだ。しかし俺の死については、すでに知っていてもおかしくない。
それなのに、空楽の声色は特に変わったようには思えなかった。
「……なんでもないよ。それで、前は急に切れちゃったけど、大丈夫だったのか?」
『ああ。こうやって鈴真と通話するのも、どうやら制限があるみたいでさ……繋げられる時間と、繋ぐ回数がそれぞれ決まっているらしいよ』
「そうだったのか」
空楽が認識できるのはコメントだけで、改変された小説を読んでいないのだろうか……?
生前の俺がコメント経由で「本文が改変されている」と報せてしまったから、もし手段があれば確認くらいはしてそうだけれど……。空楽からも、改変された内容は分からないのだろうか。
気にはなるけれど、わざわざ確認のきっかけを与えてしまうこともない。心にささくれを残したまま、通話に集中することにした。
『もしかしたら鈴真は、状況を何も変えられなくて気に病んでいるかもしれないけれど……俺はこうして、自分の状況を知ってくれている人がいるだけでも、すごく助かってるよ』
「…………、それは……」
『だってさ、考えてみてくれよ。俺がどうなったのか誰も知らないまま、異世界に一人取り残されて……しかも、常に死の危険が付きまとってるなんてさ、独りだったら耐え切れないよ。だから、見つけてくれてありがとう』
俺が何か反応する前に、通話は切れてしまった。制限時間とやらが来てしまっていたらしい。
何もできなくても、異世界で生きている空楽のことを知っていればそれでいい――俺を気遣っての発言だと分かっていても、その言葉で少なからず俺自身も救われている。
……でも、それなら……やっぱり……。
「俺が死ぬ必要はなかった…………」
空楽がこのことを知ったうえで話していたのかは、判別できなかった。ぽたぽたと静かに流れ落ちる涙は、地面に染みを作らずに跡形もなく消えていく。
――優しい言葉で救われるのと同時に、その甘さが毒として俺に突き刺さっていた。
俺の中で、きっと一生付きまとい続ける後悔。腹の中で黒くよどみながら渦巻くそれを抱えたまま、俺はようやく行動を始めた。




