8:闇に浮かぶ翡翠
「なんで……どうしてだよ」
はやる気持ちに引っ張られながら、目次のトップにある第一話を開く。中身は、俺が――俺だけに見えていたであろう、改変された小説だった。
それなら続きはどうなっているんだ。その疑問を即座に解消するべく、最期に読んでいた話数の次を開き、読み進める。
前に質問していたことに対する空楽の返答があり、その後も変わりなく空楽は異世界に留まり続けている。
俺が過去に戻ったのなら、この空楽もいなくなってるんじゃないのか!?
「――おい、なんで空楽が異世界に行ったままなんだよ!」
「死ぬことに変わりないままなんだから、当たり前でしょ」
自分の魂が死ぬのが先か、空楽が異世界で死んでしまうのが先か……ってことなのか? それでは状況が変わらないどころか、俺自身にもタイムリミットが付与されてしまった辺り、むしろ悪化していると言ってもいいくらいだ。
ともかく異世界の空楽には、この状況を伝えられる。そう思ってコメントを残そうと操作してみるが、入力スペースが見当たらない。
「…………」
……まさか、この連絡手段すら絶たれてしまったとでも言うのか。
己の血の気が引いていくのがはっきりと分かる。……もしかして、……いや、もしかしなくても、絶望的な状況……?
「…………はは…………」
乾いた笑いがこぼれる。過去に戻っても、その時を生きている自分や親友にはなんのアクションも起こせず、これまでなら連絡が取れたはずの、異世界にいる親友に対しても何の反応もできない。
どちらも、ただ眺めているだけになってしまった……。
行き場のない感情を発散させる手段として、壊れたようにひとしきり笑った。……自分の行動がすべて裏目に出ているなんて、笑うしかないだろう?
よろめいて壁にもたれかかろうとするが、今の俺にはそれすらできない。簡単にすり抜けてしまい、ブティックの店内へ倒れこんでいた。
落ち着いた色合いの内装に、ささやかな歓談や店内の雰囲気を邪魔しない程度の、寄り添うような音楽。客が行き交う足音に、控えめながらも人の気配を感じさせるざわめき。
ああ――「人の生」を、否が応でも感じざるを得ない……。俺がどんなに願ったとしても、もう二度と手に入らないものだ。
幽霊が生者を妬ましく思うというのは、こういう感覚を指していたのだろうか。
倒れたままの体勢で、天井のはるか先を見つめる。壁は通り抜けるのに、こうして地面には埋まったりしないのだから不思議だ。意識していないだけで、実は少し浮いているのかもしれない。何しろ死んでいるし。
外が暗くなり、しばらく経ってから店内が消灯され、静かになっても俺は変わらずそこにいた。あれほどまでに感じていた人の気配は、すでに皆無だ。
はっきりとした時間は分からないけれど、とっくに深夜を回っているのだろう。ようやく身体を起こして、ブティックから出た。数時間前まで、できれば壁を通り抜けるのは避けたい、なんて思っていたはずなのに、早くも繰り返し体験している。
感覚が死んでいるわけではない。蝕まれるような、こみ上げる吐き気に耐えられず、膝をついてから両手を地面につけると、歩み寄る銀花の足が目の前に迫った。
「もういっそ殺してくれ、って思ってる?」
「…………」
それは思っていない。俺の魂まで消滅してしまったら、未だ異世界に取り残され続けている空楽を救う手段が、本当になくなってしまう。「俺なら空楽を救える」という驕りではなく、彼が異世界転移しているという事実を知る人物が、この世界からいなくなってしまうからだ。
「……そう。諦めていないのね」
顔を上げた俺の表情を見て、無表情のままそう口にする。それ以上は興味をなくしたのか、ふわりと飛んで、二階くらいの高さまで移動してしまった。
「――時期尚早……。おいしくなるのはまだまだ先かしら」
空中でぽつりとつぶやく銀花の言葉は、誰の耳にも入らず宵闇へ溶けていく。それから彼女は周囲の気配を探るようなしぐさを見せるが、引っかかるものはなかったのか、その場から動くことはなかった。
「…………小説……」
スマホのような端末に触れる。先ほど――といっても数時間前だが――内容を確認したときに、生前の俺が疑問に思っていた「どうやって俺のコメントを認識しているのか」という質問への回答も反映されていた。
端末のようなものから確認できる方法と、頭の中に直接流れ込んでくるタイプがあるらしい。端末……いま俺が持っているものと、同じものなのだろうか。
小説の内容に関しては、空楽自身が端末を利用して直接打ち込んでいるわけではなく、自動的といっても過言ではないらしい。というのも、実際に発言したものが本文中の台詞として反映されているからだとか。
それなら、場所やタイミング次第では、空楽はかなり危険なことをしているんじゃないか……?
安全のためにもできればやめてほしいけれど、そうすると空楽の意見を確認するすべがなくなってしまう。最低限でいい、と伝えたかったけれど……俺にはもう、伝える方法がないのだ。
すでに死んだ身だというのに、胸の苦しさを感じる。霊ってこういうものなのか……? 夢も人によっては五感があるままだと聞くけれど、霊体も似たようなものなのかもしれない。生前と変わらぬ感覚が残っているのなら、死んだことに気付かないものがいるという話も納得できる。
空楽に申し訳なく思いながら、小説の続きを開いて本文を読み進めてみると、反応が途絶えてしまった俺のことを心配する彼の姿が描写されていた。
「…………」
ごめん、と口にしたつもりだった。実際には声どころか、口すら動いていなかったように思えるけれど。
日の出が近いのか、辺りが仄暗い水色に包まれている。まずは俺が、生きている世界へ干渉できる方法を探らなければ。……夢枕にでも立てばよかったのか?
何度も練習していれば、そのうち物に触れたり、俺の声が生者に届いたりしないだろうか。
霊特有の感覚があるのかもしれない……そう思って早速探ってみようと思い立ったところで、端末から奇妙な音が聞こえてきた。電子音のようにも聞こえるけれど……いびつな、聞くに堪えない音だ。
「なん……、……え……?」
画面を確認してみたところ、どうやら着信らしい。しかし発信元については、名前や番号が表示されておらず、空白だ。
銀花の様子を伺ってみても、特に変わりなくこちらを空から見下ろしているだけで、反応は期待できそうにない。
少しためらったあと、通話に出ることを決めた。