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1:シグナルレッド

 目の前で何が起こったのか、すぐに理解ができなかった。いや――今でも理解できないし、したくないのかもしれない。

 つい先ほどまで日常という平和を謳歌し、談笑していた親友の姿は、てらてらと光る赤い海で溺れている。

 周囲がざわめいているような気がするが、俺の耳には何も入ってこなかった。

「――おい、おい! 君、大丈夫か!」

 すぐそばで声をかけてくれているはずなのに、遥か遠くから聞こえる音。俺が見えない怪我をしているかもしれないと考えているのか、揺さぶったりせずに最低限の接触にとどめているらしい。

 けれども、今の俺にはそれに対応できるほどの余裕がなかった。

「うわあ……」

 誰かが、悲痛さを交えながらも引いた声を上げる。

「きゅっ、救急車……! もうすぐ来るはずだから!」

 また、別の誰かが叫ぶ。しかし、俺にはその内容が理解できていない。

「……そ、ら……」

 ようやく絞り出せた己の声は、ほとんど霞のようなもので形になっていなかった。

 空楽(そら)――菜種(なたね)空楽(そら)。俺の親友の名前であり、そして――いま目の前で、動かぬ肉の塊となっているものの正体だ。

 ……それから、どれほどの時が経ったのだろう。俺の記憶は曖昧なままで、当時のことをよく思い出せない。それどころか今は何月何日で、何時なのかも分からない。

 ただ、目の前で親友が事故死したという事実だけが、残された俺に突き刺さり続けていた。

 空楽と俺の時間は、あの事故で止まっている。

 学校どころか外にも出ず、電気もつけない暗い部屋で一日中過ごしていた。……何もしたくない。両親もそんな俺を無理やり連れ出そうとはせず、好きなようにさせてくれているのが唯一の救いだ。

 ――それも、今となっては少し前の話になる。

 あのときは一日中自分が何をしていて、どう過ごしているのかさえ分からなかったけれど、こうして生きているということは、生命維持に必要なことだけは最低限こなしていたのだろう。もちろん、両親の助けも大いにあったと思うけれど。

「あら、おはよう。ご飯ならもう少しでできるから、もうちょっと待っててね」

「……ん」

 煌々と室内を照らす明かりに目を細めながらも何気なくリビングへ向かうと、食事の支度をしているらしい母が出迎えてくれた。カーテンが閉まっている、から……今は夕飯時だろうか。

「軽く済ませたいなら、冷蔵庫にゼリーがあるわよ」

「……いや、いいよ、今日はちゃんと食べる」

 多少なりとも考え事のできる頭に戻ったせいか、軽食ばかりではなく、きちんと食べる日も必要だと自分で判断できるようになった。

 本当は今でも食欲は戻らない。食べなきゃいけないのなら、栄養補助食品で簡単に済ませてしまうほうが楽ではあるのだが、そればかり続けていると本当に何も食べられなくなってしまいそうだと思い、少しずつ通常の食事も摂るようにしていた。

「はい、どうぞ。食べきれなかったら残しちゃっていいし、食欲があるなら、おかわりもあるからね」

 俺の席へ配膳する母に向けて「ありがとう」と述べてから皿に視線を落とす。男子高校生が食べるにしては少ない量が盛られているそれは、どうやらカレーのようだ。

 一度キッチンに戻った母は、同じように皿に盛られたカレーやサラダの器を俺の向かいにある席に置き、そこに腰を落ち着ける。父のものが準備されていない辺り、今日は遅くなる予定なのかもしれない。

「さ、食べましょ」

 続けて「いただきます」と発してから、母が食事を始める。

 濃いスパイスの香りは、今の俺にはそれほど強く感じられない。それでも以前の記憶が染み込んでいるからなのか、手を付けようという気にはなれる。

 俺が食べやすいよう、少し小さめに刻まれた具材と絡み合ったカレーのルーをスプーンですくいあげ、口に運んだ。

「……おいしい」

 もともと濃い味の食べ物だからか、これまではただの固形物や液体としか感じられなかったものが、ふわりとした懐かしささえよぎるほど実感できていた。大きな変化だ。今はだいぶましになっているけれど、初期の頃――事故直後は嚥下さえ満足にできず、食事が苦痛でしかたがなかった。

「……っ、鈴真(れいま)……!」

 俺がぽつりと呟いた言葉に、母が感極まった声を漏らした。……ああ、そういえば俺の名前は鈴真……(ひいらぎ)鈴真(れいま)だったな、と他人事のように思い出す。

「よかった、よかった……ずっと、つらそうに食べてたもんね……」

 少し目を潤ませながら、本当にうれしそうな声色で話す母に、少しだけ苦笑いを漏らした。

 緩やかながらも、俺はそんな調子で日常を取り戻していく。たまにではあるが学校にも行くようになり、空楽のことも振り返られるほどになっていた。

 とはいえ学校は留年が確定しているようなものだし、思い出すのもあの事故のことではなく、それ以前の楽しかった日々についてだけれども。

 空楽は趣味で小説を書いており、それをネット上で連載していた。多数ある作品の中では埋もれてしまっていたが、それでも俺はいつも更新を楽しみにしていた、ということは覚えている。

 彼が死んでしまってからは、小説と共によみがえってくるさまざまな思い出がつらく、読み返すことはできていなかった。

 久々に読んでみようか。もう更新されることはないけれど、データごしに親友の存在を感じられる気がする。

「…………ん?」

 澄み渡る青空に、雲が通りすがる。明るいはずの部屋に窓越しの雲影が横切ったとき、わずかな違和感を覚えた。

 主人公が異世界転生をして森の中をさまよっていたところ、魔物に襲われている動物のようなものを見つける、といった始まりだった気がするけれど……。いくら読み進めても、助けるはずの動物が出てこない。

 それどころか魔物――いや、異形とも呼べる奇怪な生物が森を徘徊しており、それらに襲われないよう隠れて過ごしていくのが精いっぱい、といった状況のようだ。

 俺の記憶が正しければ、襲い掛かる魔物は異世界転生の恩恵によって習得した魔法で、難なく撃退できていたはず……。

 生前、気付かぬ間に修正していたのだろうかと思い、タイムスタンプや更新情報などを確認してみるが、特に変わりはない。

 それなら空楽がいじることなく内容が変わっていることになるのだが、一体どういうことだろう。仮に規約違反などがあったとしても、警告や非公開、削除処理をするくらいで勝手に書き換えるなんてことはしないはずだ。

 そもそも空楽が書いていた小説は、冒頭に悲しい描写があるくらいで基本はスローライフ系だ。悲しい描写というのも、魔物に襲われていた動物が死んでしまうくらいだし、その動物も主人公が魔物を撃退したあとで「魂を再生して蘇生する」という魔法を使って復活させている。

 考えてみてもまったく分からないし、ひとまず読み進めてみよう。

 ……続きは、違和感だとか記憶違いなんて言っていられないほど、以前とは明らかに内容が変わっていた。

 もはや異形と呼ぶのがふさわしいほど、醜悪で奇怪な生物が世界を徘徊しており、主人公は対抗できるすべもなく、命からがら逃げまどうことしかできない。死なずに済んでいるのが不思議なくらいだ。

 明らかにおかしい……。変わってしまった小説の内容もそうだけれど、この変化に対して読者からは何のアクションもなさそうに見えるのが不気味でならない。

 更新が途絶えてしまって、もう誰も見ていないのだろうか。

 ともかく読み進めよう。このことに俺が気付けたのも、きっと何か意味がある。

 そう考えて向き直ろうとしたところで、食事の支度ができたと呼ばれてしまった。いらないと言えば心配されてしまうだろうから、後ろ髪を引かれる思いではあるけれど、またあとでにしよう。

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