第五話 空の色、海の色
一人の女性が悲壮感を漂わせながら、教会の三角屋根の上に登っていた。
その屋根上に立てられていた大きな十字架にしがみつき、地を見下ろす。
そんな彼女をナツキが見上げていることを、当の本人は知る由もなかった。
「…やっぱ、神に仕えるシスターでもそういった類は視えねぇか」
本当は少しだけ期待していた。
純粋で、誰より心の綺麗な彼女なら、気づいてくれるのではないかと。
けれどそう思うのは全く不毛なことだった。例え視えたところで、彼女が今ここで死ぬのは決まりきった運命なのだ。
ふ、と自嘲のような呆れのような声を漏らす。
「案外俺もバカだったみたいだな」
ナツキの死因は病死ではあるが、ほとんど自殺に近いものだった。
それでも、自分の自殺を棚上げして、彼女には自殺を思い留まって欲しいだなんて。
兄弟のいなかったナツキに取っては、姉のような人だった。
毎日毎日飽きもせず、入院中の自分の見舞いに来てくれたひと。
親や友達でさえ思い出したようにくるくらいだったのに。
毎日毎日、自分の病が良くなるようにと、神様とやらに祈ってくれたひと。
正直、ナツキは神様なんて信じてなかった。そんな存在がいたら、誰も不幸にはならないだろう。
だから、初めは彼女をすごくバカにしてた。
実際、バカじゃないのかと言った。
祈れば病が治るとでも思っているのかと。
なのに彼女はにこやかに笑っていて。
「大切なのは、神様がいるかいないかよりも…誰かの為に何かをしたいと思う気持ちだと、私は思います。例え神様がいなくても、例えこの祈りが届かなくとも。…病院のベッドの上で、必死に病と闘っているあなたの為に、何かしたかったのです。口惜しいけれど、私があなたの体と代われるわけじゃないから、せめて祈っていたかったのです。あなたの病が良くなるように」
そうして、毎日毎日祈りに来た。雨の日も風の日も雪の日も。
それからナツキは彼女をバカにするのをやめた。相変わらず信仰心なんて持ち合わせてなかったけど、彼女の考え方は好きだったから。
「神様がいるかいないか問われたら、現実的にはいない存在なのでしょうけど…それでもやっぱり、信じていたいのです。奇跡を起こすのは神様だって。だから、祈れば届くかもしれないって」
今でも鮮明に覚えている。目を閉じ、両手を組んで天に祈る彼女の姿を。
と、その時。
シスターは思いきったように十字架から手を離し、彼女は頭から真っ逆さまに墜ちていった。
地面に叩き付けられた衝撃で、頭蓋骨は陥没、内臓は破裂、僧服は血で染まっている。数秒前までは生身の人間だったのに、今はどうだ。
ナツキは彼女から一瞬目を逸らし、悲しげに
「やっぱ神様なんていねーよ…。いたら信徒のおまえを自殺するほど追い詰めたりしねー」
と呟いた。
そしてフラフラ何処ぞへさまよいかけた魂を捕らえ
「心配すんなって。俺がちゃんと、連れてってやるよ」
となだめるように言い、いつだって変わらないこの街の海を見渡した。
深い蒼の水が、時々波で大きく、そして小さく揺れる。
ナツキは何故自分が海を好きになったのか思い出した。
「あんたが、教えてくれたんだよな」
『ねぇ菜月君。海の青が空の青と同じ色だって知ってる?全然違う色に見えるけど、人の目の錯覚なんだって。錯覚で本当じゃなくても、こんなに海が綺麗に見えるなんて、人間に生まれて良かったよね』