歯医者
働きはじめた。
といっても歯科助手なので、患者に直接触れることはない。衛生士の資格をもっていれば、皆が想像する仕事をキュイーンとかウィーンすることになるわけだが、あくまで資格をもたない助手だ。
私がするのはせいぜい、薬剤を練ることと、簡単な受付と、シュゴーまでだ。先日初めてシュゴーをした。シュゴーというのはバキュームだ。バキュームというのは、「唾液溜まってきたで、限界限界。」ってなったときに吸ってくれるアレだ。
先日、35歳くらいの女性患者が来た。根本までがっつり虫歯だったらしく抜歯することになった。
その日は優秀なベテラン助手たちは早めに帰ってしまい、私と先生の二人だけになってしまった。やむを得ず私がシュゴー担当になったのだ。すなわち患部を間近で見ることになる。
麻酔を打つのを初めて間近で見た。どんどん歯茎が白っぽくなっていく。
「早くバキューム渡しなさいよ。」
そう、先生は高圧的だ。ヒステリックに限りなく近い。医療現場だから多少の緊張感はあってしかるべきかも知れん。しかし急かしたり横柄な態度を取るのは逆効果だ。焦りはミスを誘発する。この人には人の心が分からぬ。
それはさておき、患部を見つつ作業を進めていく。「あーこれはまずいなー。」とか「根が曲がっちゃってるもん。」とか先生が声を出す。やめろ患者を不安にさせるのは、と制したいが、彼は苦戦するといつもこんな調子だ。
どんどん歯が小さくなっていく。初めは人の体の一部だと思っていたものが、"物"のように見えてくる。時々患者が痛そうにすると、治療を止めて麻酔を追加する。その時はまた人の体の一部に見える。
最後の方は半ば力任せじゃないかと思ってしまうほどぐりぐりする。繰り返していくうち、ようやく抜けた。おもわず、おぉ、と心が感嘆する。憑き物が落ちる瞬間だった。
患者がぐったりとしている。それもそうだ。こんな長時間ゴリゴリガリガリ歯を削られるなんて堪ったもんじゃない。加えてまだお若い。歯を1本失うショックは想像を越えるだろう。
先生はそんなことお構い無しに「これですよ、これ」なんて抜いた歯を見せようとしている。
心で「このサイコパス野郎!マッドサイエンティスト!」と毒づくも伝わるはずがなく。
どんなに毎日丁寧に磨いていても、虫歯になるときはなる。だが歯医者選びには注意していただきたい。すぐ削るとこもあるが、削らず時間をかけて治そうとしてくれるとこもある。なにが正解かは分からんが、失った歯がニョキニョキ生えてくることはない。削ったとして、埋めるものは人工物だ。埋めたところが傷むこともある。
年末年始はどこも休診する。
今年の病の精算は、今年のうちに。
私はこの歯医者の給料を慰謝料と呼ぶことにした。今年の慰謝料を貰って年末年始は実家に帰省したい。