7話 筆算と塩不足
中庭で父上たちの激しさを増す鍛錬を素振りをしながら見学し、ふと見上げると、太陽が正午のあたりに差し掛かっていた。
「お腹空いたなぁ。」
太陽を見上げながら、思わず呟く。それが聞こえたのか、鍛錬に夢中だったパッケが動きを止めて、空を見上げる。
「そろそろ昼食ですな。鍛錬は終わりにしましょうか。」
鍛錬の見学は、こちらの世界の人間が、前世ではありえない動きをするという事実を知れて、とてもためになった。生存を脅かす魔物がいて、それでも人間が滅びていないということは、人間もそれなりの対抗手段を持っているということで、それがあの動きなのだとしたら不自然なことではない。
が、正直自分が剣士を目指すというのは考えられない。下手に剣士になって、敵として父上やパッケクラスの剣士を相手にしたら、一瞬で死ねる自信がある。父親が優秀すぎるので、期待されて、結果そういう相手にぶつけられるというのは考えられない話ではない。
また死ぬのは勘弁してほしい。
「おお、もうこんな時間か。プラースからいくつか決裁を頼まれていたんだった。ちょっと書斎でやってくる。昼食ができたら呼んでくれ。」
父上が手拭いで汗を拭きながら、中庭から引き上げていく。
「かしこまりました。旦那様。坊ちゃまも少々お待ちください。」
試しにちょっと素振りをしてみたせいか、ちょっと腕が痛い。8歳の頃のことなんてあんまり記憶にないけど、思っていたより非力だ。
「うん。今日の昼ごはんって何なの?時間がかかるようなら昼寝を・・・」
昼寝したい。パッケと一緒に階段を上がりながらそんことを考えていたら、食堂に上がったところで、マイナ先生と目があった。笑顔で手招きされる。
「本日はあのスープで茹でパンを作りますので、さほど時間はかかりません。坊ちゃまはマイナ様と食堂でお待ちください。」
あっさりパッケに売られる。今日も昼寝はあきらめたほうが良いかもしれない。
「イント君、ちょっと良い?昨日の計算方法のことなんだけど。」
またか。平凡な高校生にみんな何を期待しているんだろうか?
しかも、暗算は苦手だし、筆算も大半の同級生より遅い。つまり数学は苦手なのだ。
「どうしたの?先生?」
先生は、昨日授業で使った黒い石板をテーブルに置いていた。計算の時にメモった筆算が消されず、そのまま残されている。
「これについて聞かせて。ちょっと先生にはわからない部分もあって。」
先生は計算ができる。しかも暗算で。これがわからない理由がよくわからない。
「え?どこがわからないんですか?」
横からテーブルの上の黒板を覗き込む。黒板の書かれているのは普通の筆算だ。問題が数字ではなく文字で書かれていたのが気になるところではあるけど、それはまだ数字を習っていなかったからと推測される。
こちらにアラビア数字は存在しないのだろうけど、読み解くのはそれほど複雑でではないはずだ。
「まずは読み方から教えて。」
グッと先生が肩を寄せてきて、ちょっと良い匂いがした。ドキドキしながら、数字の読み方と計算記号について、順番に説明していく。先生は元々四則演算をこなせるので、それほど苦労はなかったけど、一点だけ、ゼロについてだけこちらの説明をなかなか理解してもらえなかった。
何で理解してもらえないのか、よくよく聞いて驚いたが、こちらの高名な学者さんは、『何もない』状態であるゼロを数字として取り扱うことを否定しているらしい。
これは長さのない道がないことや、カレンダーに0日目が存在していないことなどを根拠にしており、さらに昔の学者が提唱した『2つの数字を足せば、必ず元の数字より大きくなる』というよくわからない理論が邪魔していた。ゼロとゼロを足しても、元の数字より大きくならないから、数字ではないという発想だ。
だから先生は、ゼロが理解できず、さらにアラビア数字で書く602と62が見分けられなかった。どうやらゼロを拒否していたことで、桁が繰り上がっていく状態を記述できなくなっていたらしい。
試しにゼロ以下の負の数字について聞いてみると、先生は概念自体を知らないらしかった。
ちょっとタメ息が漏れる。当たり前の話なので、きっと誰かは気づいていたはずだけど、偉い学者が進歩を止めていたのだろう。
縦横にⅹ軸とy軸を書いて、交点である中心を0にして、正の整数と負の整数で座標で表現して説明してみると、マイナ先生が急に興奮し始めた。何を興奮しているのかよくわからないけど、どんどんヲタクっぽくなっていく。元々知的な雰囲気の美人だっただけにちょっと残念感が否めない。
そのうち先生のハイテンションがちょっと可愛くなってきて、二元一次方程式で直線を書いて、マイナスでも矛盾なく直線になることを説明してみたけど、先生のテンションはこちらが心配になるくらい一気に下降してしまった。
先生は何も喋らず、真剣な眼差しで石板を見つめている。
足し算や引き算と違って、二元一次方程式とか現実で何に使うかわからないし、こちらの世界には入試もないわけで、そんな真剣に向き合わなくて良いと思う。
「坊ちゃま。昼食ができましたので、旦那様に声を掛けてきていただけますか?私は並べておきますので。」
会話が途切れたところで、パッケが声をかけてきた。マイナ先生は固まったまま、ブツブツと呟いている。
「わかった。行ってくる。」
立ち上がって、父上の書斎に向かう。マイナ先生は自分の世界に沈んでいて、こちらに気がつく気配はない。
「父上~。昼御飯できましたよ~。」
声を掛けながら、書斎の扉をノックする。
「ああ、イントか。今行く。」
やや深刻そうな声とともに、ゴソゴソという音が扉の向こうから聞こえて来た。
父上の仕事について考えて見る。父上は平民上がりの男爵、つまり貴族で、ここコンストラクタ領の領主だ。
去年、マイナ先生からこの家の歴史を習った時の記憶によれば、父上は隣国との戦争の際、斥候部隊を率いて敵陣深く侵入し、敵軍の将軍を討ち取って騎士爵に叙爵されたらしい。
ちなみに、『騎士爵』というのは、貴族位の最下級である『従士』の一つ上の序列で、世襲を認められていない、領地が持てない等の制約があるものの、法的には貴族として扱われる。
父上はその後も孤立した国王一家の救出、侵攻してきた敵軍の補給線に対するゲリラ戦で手柄を挙げ、男爵に陞爵してコンストラクタ領を賜ったのだそうだ。
多分、父上のあの人間離れした剣技は戦場仕込みだろう。聞いたことはないが、パッケも父上を隊長と呼んでいたので、当時の関係者かもしれない。
男爵からは世襲を許されていて、僕は後継者として紋章院に登録されているわけだが、一方で昨日義母さんはリナでは家を継げないと言っていた。そして、増えすぎた貴族を減らすことを、紋章院は躊躇わないとも。
つまり、理由さえあれば簡単にとり潰しされかねないということかも知れない。
そして、父上は武力で成り上がった。ということは、我が家に期待されているのは武力で、その期待を失えばとり潰しの可能性があるということだ。
それを考えると、うちの領土が国境沿いの干渉地帯に面しているのも、意図的なものかも知れない。
「待たせたね。」
考え事をしていると、父上が書斎から出てきた。とても難しい顔をしている。
「父上、どうされたんですか?」
食堂へ向かう途中で、気になったので尋ねてみる。
「ああ、ちょっと領内で塩不足が起きていてね。いつも市に塩を売りに来ていた商人たちが、塩の取り扱いをやめてしまったみたいなんだ。次の市でもおそらく塩商人は一人も来ないと思う。」
ああ、なるほど。こちらの料理が薄味なのは、文化じゃなくて塩不足が原因か。
あちらの世界の歴史上でも、塩は重要な戦略物資だったらしい。塩が無くなれば人々の健康は保てないし、塩漬けが出来なくなれば、冬の間の食料が不足しかねない。
「蓄えはないの?」
父上は歩きながらスムーズに答えてくれる。
「うちの倉庫にあるのは壷二つ分てところだな。住民たちが蓄えてるかも知れないけど、望み薄だろう。」
「近くに海はないの?」
父上は食堂の手前で立ち止まって、目を丸くしてこちらを見た。
「海で塩が取れるとかよく知ってるな。それも前世の知識か?」
「うん、そうだよ。それよりも海は?」
「ああ、海はないな。というか、ログラム王国は海に面していない。隣のナログ共和国は海に面しているけど、少し前まで戦争してた影響が残ってて、頼れないんだ。」
そうだったのか。海産物とか見かけたことがないのも、そのせいか。魚食べたい。
「じゃあ岩塩がとれるところは?」
前世の母は塩に凝っていて、家にピンク色の岩塩が常備されていた。地学の授業でも、先生が塩について熱く語っていたのを覚えている。
「岩塩?何だそれは?」
父上は怪訝な顔で尋ねてきた。前世の世界では、かなり古い時代から採掘されていたはずだけど、こちらでは一般的ではないのだろうか?
「簡単に言うと、山を採掘して取る塩で、岩みたいな見た目の塩だよ。他にも、山の中で温かい泉が湧いているところがあったら、その中に塩が含まれていることもあるかも。」
温泉にも塩水のものがある。それ以外にも、塩湖というものがあるらしいが、それは目立つので、あれば発見されているだろう。伝えなくても大丈夫だ。
父上が真剣に考え込み始める。
「旦那様?そこにいらっしゃるなら、席についていただけますか?マイナ様もお待ちですし。」
「ああ、すまん。マイナはまだ帰ってないのか?」
まだ固まったままだったマイナは、父上の声に気がついて、慌てた様子で立ち上がった。少し頬が赤らんでいる。
「ひゃ、ひゃい。シーゲンの街に戻る前に、イ、イント様にわからない部分をいくつか確認させていただこうと思いまして。先ほどお話したのですが、その中には私の知らない、算術の世界に革命が起こるかもしれない話もあり、ちょっと帰るのを忘れておりました。」
マイナ先生、なんかしどろもどろだ。これはもしや・・・
「そうか。ではそれも新発見として、マイナとイントの連名で報告するようにしてくれ。」
ん?ちょっと待った。僕と連名?アラビア数字とか筆算とか、どこにでもありそうな知識だから、きっと別の人が似たような物を作っているはずだ。
だとすれば恥ずかしいし、もしそうでないなら、それはそれで問題だ。
レイスに襲われてすぐに、この世界では珍しい知識を8歳の子どもが世間に公表するとか大丈夫だろうか。
父上たちは、僕がレイスに乗っ取られたり、アンデット化したりしていたのを警戒していた。つまり、世間でもそう思われる可能性が高い。
「父上、連名というのはやめませんか?僕はレイスに襲われたばかりですし、その・・・」
父上は少し考えて、手を叩いた。
「ああなるほど。未練を残したレイスの仕業と思われるか。それは問題だな。悪いがマイナ、報告はお前の名前だけでやってくれ。筆算だったか?あれをマスターした優秀なやつがいたら、また紹介してくれ。」
「え?えええええ?わ、私が発見したことにするんですか?そ、それはちょっとーー」
先生が目を白黒させているが、父上は無視して続ける。先生、がんばれ。
「それともう一つ、賢人ギルドでコンストラクタ領内に岩のような塩か、温かい塩水が湧いているような話がないか調べてくれ。報酬はーーー」
父上が目を泳がせる。察するに、我が家はかなり貧乏だ。まともな報酬を出せるとは思えない。
「で、では、滞在用の家をご用意いただけますか? 実はシーゲンの街からこちらに住まいを移そうかと考えておりまして。」
「なるほど。イントの知識はそれほどか。しかし、家か。うーん。」
父上は腕を組んで考え込む。報酬で家って、けっこうすごいこと言うな。
「い、家が無理でしたら、こちらの館に一部屋頂ければ、しょ、しょれでもかまいません。」
マイナ先生が真っ赤になりながら必死で喋って、結果噛んでいる。愛の告白か何かだろうか?
先生がやたらカワイイ。。
そんなマイナを、父上はポカンと見つめている。かなりの間をあけて、父上が我に返った。
「ええと。それについては相談させてもらっても良いか?」
マイナ先生は父上と目を合わせず、コクコクと頷き、崩れるように席についた。
その後、昼食が始まったが、父上もマイナ先生も一言も喋らなかった。
父上はマイナの顔をチラチラ見ては目をそらす挙動不審な感じで、なぜだかちょっと空気が重くなっている。
ちなみに茹でパンというのは、前世の世界でいうところの「すいとん」で、味はイマイチだった。うどんのほうがよっぽど良いと思うのだけれど。
余談ですが、地球では有名な哲学者であるアリストテレスがゼロを否定し、それに教会が便乗したために、中世ヨーロッパでは17世紀頃までゼロが否定され続けました。時代によっては、「ゼロはあります!」と言っただけで、神への冒涜と言われて死刑になったほど。
16世紀頃から宗教改革やイギリス国教会設立等キリスト教の分割が起きて宗教による締め付けが緩められ、17世紀頃ようやくゼロが認められるなど柔軟性が見られるようになり、結果18世紀頃に産業革命が起きてイギリスがチートな国になりました。
何が言いたかったというと、人間って教育を受けていないと今じゃ当たり前と思われてるゼロですら認識できない生き物です。
イントの暮らす異世界でも、まだゼロは認識されてないようです。マイナさん、うまくやってくれると良いですが。
(なお、作中の桁表記のゼロが認識できないというのは、中世ヨーロッパではなく、古い日本の状況を混ぜてます。アラビア数字の表記と漢字の表記を比べると、なんとなくわかっていただけるかと。)
あ、そう言えば、今朝100PV達成しました。ありがとうございました。