2話 今世と教科書
目覚めは、思っていたより爽快だった。
ベッドからゆっくり起き上がると、横に座っていた眠そうな顔のアンと目があう。
「おはようございます。坊っちゃん。体調はいかがですか?」
アンに聞かれて、ベッドの上で少し身体を動かしてみる。
「うん。もうだるくない。大丈夫みたい。」
昨日はあんなにだるかったのに、今日はびっくりするほど身体が軽くなっていた。いつもより調子が良いくらいだ。
「それはようございました。お水をどうぞ。」
アンは水差しからコップに水を注いで、ベッドの横の机に置く。そして、半開きだった明り取り窓を全開にした。朝の光で目が痛い。
「父上は?」
水を飲んでから、ふと気になってアンに聞くと、少しだけ困った顔をした。
「先ほど、シーゲンの街に向かわれました。一昨日、シーゲン子爵につけていただいた護衛の方が負傷されたので、そのお詫びに行かれました。坊っちゃんのことは大層心配されていましたよ。」
昨日の話と矛盾がない。やはりレイスとかいう魔物に襲われたのは事実なのかもしれない。
少し思い出してきた。シーゲンの街は、コンストラクタ村から馬で4時間ほどの所にある山間の街だ。何でも父上よりも偉い貴族が治める街で、毎年家族で挨拶に行っている。最近、家庭教師の先生の礼儀作法の授業が厳しくなっていて、そろそろかなとも思ったことは覚えているが、話の流れを見るに、もう終わっているのだろう。
シーゲンの街でのことはまったく覚えていない。行きのことも、滞在中のことも、帰りのことも。
「リナは?」
アンは、今度は怪訝そうな顔をしながら、答えてくれる。
「昨日坊っちゃんが目を覚ますまでは、随分と泣かれていたようですね。今はジェクティ様とご一緒に寝ておられるのではないでしょうか。」
ジェクティ様というのは、父上の後妻で、ストリナの母親だ。何でも、僕の実の母上の双子の妹でもあるらしい。
「そっか。あんまり覚えてないんだけど、一昨日、何があったの?」
布団の中を探すと、教科書はまだあった。いつこれを手に入れたのか、まるで覚えていない。前世で最後に読んでいた教科書。
「そうですねぇ。私も旦那様からお聞きしただけですが、シーゲン様へのご挨拶の帰りに、皆様が乗る馬車が魔物に襲われたそうです。相手はゾンビとスケルトンだったそうで、旦那様と護衛が戦っている間に、坊っちゃんたちを逃がそうとしたのですが――」
ということは、やっぱりシーゲン様へのあいさつは終わっていて、その帰りに襲われたということだ。
魔物云々はちょっと理解できないけど、あいさつに行っていたことすら思い出せないのはおかしい気がする。
「お嬢様が転んでしまい、坊っちゃんがそれを助けに行かれて、急に現れたレイスに撫でられたそうです。それで坊ちゃんは意識を失い、村に運ばれて、たまたま村の宿屋に滞在されていた神術師様に治療されたのが昨日になります。」
アンの話を聞きながら考えこむ僕を、アンは訝しげにのぞき込んでくる。
「坊ちゃん?どうされたのですか?なんだか随分と落ち着かれましたね。」
言われて気がつく。8歳の僕のままであれば、魔物が出てくる話、まして自分が襲われた話を冷静に聞くことなどできなかっただろう。だが、俺は17歳の高校生としての記憶も持っている。魔物を目の前にすれば取り乱すかもしれないが、助かった後なら取り乱すことはない。
「何でだろうね?覚えてないけど、修羅場を潜り抜けたからかな?それより、レイスに撫でられたら、どうなるの?」
アンは少し嬉しそうな顔をする。これはあれだろうか?僕の成長を喜んでいるというやつだろうか?
「私もそれほど詳しくはないのですが、運が悪ければ魂を取られる。と、聞いたことがありますね。坊ちゃんは目を覚まされたので、きっと運が良かったんでしょう。」
魂を取られる、か。8歳の領主の長男である僕と、17歳の高校生である俺と、何だか逆に魂が増えているような気もするけれど。
「そうだね。ありがとうアン。」
お礼を言うと、なぜだかアンに涙ぐまれた。
「とんでもございません。さ、そろそろ朝食の時間でございますよ。体調がよろしければ、食堂へ参りましょう。」
アンに促されて、ベッドから立ち上がる。これまでの話からすると、起きるのは2日ぶりだったが、ふらつくこともなく立ち上がることができた。アンは僕がふらついたらすぐに支えられる位置にいたが、しっかり立ち上がった姿に安心したらしい。
「大丈夫そうですね。着替えはそこに置いてあります。先に食堂で準備して参りますので、何かあればお呼びください。」
アンは扉を開けて部屋を出ていった。アンが用意してくれた着替を手にとろうとして、ふと思い立って布団の中から教科書を取り出した。
昨日と変わらず、表紙には日本語で「政治・経済」と書いてある。
自分の手足を見ると、身体は8歳のものであるのは間違いないし、シーゲンの街に行った時のことは忘れているものの、イントとしての記憶も確かにある。
しかし、同時に日本で暮らしていたという記憶もあるのだ。その記憶の中にある教科書が、今イントの手元にある。
「わからん。これが噂の異世界転生ってやつか?受験勉強をしなくて良くなったのは運が良いのかもしれんけど。」
独り言を呟きながら、手に持った教科書を使われていない引出に放り込む。
僕はまだ8歳なので、この世界を詳しく把握していない。ここが日本ではないのは確実だと思うけど、まずはここが本当に異世界かどうかを確認するところから始める必要があるだろう。
記憶の混乱については、脇へ置いておくとして、この状況は把握しておくべきだろう。
考え事をしながら、服を着替え、ドアノブのついていない扉を思いきり押した。
お読みいただきありがとうございました。