第80話 早見アリス-8
「せっかくですので、天音さんも、走ることに挑戦なさってください」
俺の脚の痛みが治まったことを確認して、早見がそう言った。
「えっ……? 私、ですか……?」
「はい」
「ですが、私はアリス様のようには……」
「大丈夫です。少々拙い方が、黒崎さんの参考になるかもしれませんので。それに、その方が可愛らしいので、男性には好まれますのよ?」
「……そうなのですか?」
北上が、俺の方を見ながら言った。
こいつ……俺がこの質問を肯定したら、わざと転んだりしないだろうな?
ふと、そんなことを考えてしまった。
「……多少のレベルであれば、男にそういうところがあることは否定できないな」
「そう……ですか……」
早見に促されて、北上がスタート位置に移動する。
相変わらず恥ずかしそうにしていたが、やがて早見と同じように走り出した。
拙い、なんてとんでもない。
北上も、早見と同じように、スロー再生のような走りをした。
どこが違うのか、俺には分からないほどである。
「……いかがでしたか?」
走り終えて、北上が尋ねてきた。
「綺麗に走れていらっしゃいましたわ。そうでしょう、黒崎さん」
「ああ」
「……良かったです」
北上は、安心した様子で笑った。
その顔が、やたらと可愛く見える。
嬉しい時に自然な笑顔を見せられるところが、こいつと宝積寺の一番の違いだと思った。
「……あの?」
「悪い、何でもないんだ」
北上は不思議そうな顔をした。
早見は、何故か楽しそうな顔をしていた。
俺は、もう一度、スロー再生の走りに挑戦した。
しかし、やはり上手くいかない。
腹筋とか足の筋力とか、そういったものが全く足りていないことは明らかだった。
早見や北上だって、箸より重い物を持ったことがないような身体をしているが、筋肉の質か何かが違うのだろう。
また脚が吊りそうになって、俺は走るのをやめた。
この調子では、できるようになるまでに、何ヶ月かかるか分からない。
「どうやら、生身では上手くいかないようですわね」
「残念だが、そうみたいだな……」
「では、そろそろ魔法を使っていただきます。身体能力を補いながら、ゆっくりと走ってください」
「……ちょっと待て。抑えようとしながら魔法を使うと、むしろ上手くいかないんだが……」
「それは、黒崎さんが、闇雲に出力を抑えようとしているからです。何度も試した動きを繰り返すだけですから、きっと上手くいきますわ」
「そうなのか……?」
俺は、魔法を使いながら、もう一度走った。
すると、驚いたことに、脚が思ったように動く。
魔法の出力が不安定になることは、ほとんどなかった。
「……どうだ?」
走り終えて尋ねると、早見は柔らかく微笑んだ。
「良かったと思います。必要十分な量の魔法で、身体を支えることに成功していたと思いますわ」
「そ、そうか……?」
早見に褒められると、何だか嬉しい。
そう思っている俺に、早見が笑顔で言った。
「では、次の訓練として、黒崎さんには私と戦っていただきます」
「ちょっと待って! いきなりハードにしすぎだろ!?」
「ご安心ください。私は転んだら負け、黒崎さんは体力か魔力が尽きたら負け。そのような訓練ですわ」
「……相手が骨折しても構わない、なんて言わないだろうな?」
「そのような心配をされるのは、大変心外ですわね……。私は、麻理恵さんのような無茶はしませんわよ? この訓練では、相手を故意に負傷させることは厳禁ですわ」
「……そうか」
普段の言動は、平沢よりも早見の方が、圧倒的に酷いのだが……訓練では、早見の方が遥かに良識があるようだ。
少し安心したが、その後で、新たな不安が湧いてくる。
「なあ、早見。俺がお前を転ばせる方法だが……お前がそういう格好だと、手をかける場所がだな……」
俺は、早見の顔を窺いながら言った。
平沢に、体当たりしてしまった時のことを思い出す。
あの時は、はっきりとした性的接触はなかったが、同じようなことが起こるリスクは低くない。
何かがあった時に、故意にやったと疑われたら大変なことになる。
「怪我をさせないように、ということだけ気にしていただければ、他のことは気にしないでください。どこに触れても構いませんし、もしも水着が破れてしまっても、後で文句を言ったりしませんわ」
「……本当にいいんだな?」
「はい」
早見は、平然とした様子でそう言った。
つまり……怪我さえさえなければ、早見の胸を触ったり、ビキニを脱がしたりしても問題ない、というわけだ!
ならば……いっそのこと、積極的に狙うか?
そんなことを考えてしまって、1回深呼吸をする。
駄目だ。相手は早見なのである。
余計なことを考えながら勝てる相手ではない。
というより、俺が早見の胸を触ろうとして、簡単に触ることができるなら、この女がこういう条件を出すことはないだろう。
俺と早見が、先ほどまでスタートとゴールに使っていたラインの上に立つ。
「では、天音さん。合図をお願いします」
「は、はい! 始めてください!」
北上の声を聞いてから、俺は早見に向かって突進した。
相手は、この町の誰もが実力を認めている人物である。
幸いにも、俺の方は、動ける間は負けにならないルールだ。
ならば、まずは小細工抜きで挑戦すべきだろう。
早見が目前に迫って。
その姿が一瞬で視界から消え、俺の背中が軽く押された。
俺は、頭から砂に突っ込んだ。
「……今のは、光の魔法か?」
上体を起こして、顔の砂を払い落としてから尋ねると、早見は首を振った。
「黒崎さんを相手に、そのような魔法は使いません。少し加速しただけですわ」
「……」
早見と俺には、それほどの差があるのか……。
「少し」と言っているのは、もっと加速することができるからだろう。
改めて、早見の手強さを感じた。




