第50話 一ノ関水守-10
「黒崎君、大丈夫? まだ、具合が悪そうだけど……」
食事の後で、一ノ関が心配そうに尋ねてくる。
一体、誰のせいだと思っているのか?
「……身体の疲労感は、大分楽になってきた。もう、心配してもらわなくても大丈夫だ」
「そう、良かった。お風呂には、1人で入れそう?」
「ああ」
「……無理はしなくていいのよ? 倒れたりしたら、大変だから……手伝ってほしいなら、遠慮なく言って」
一ノ関は、何故か緊張した面持ちで言ってきた。
大切なイベントの前であるかのような様子だ。
「なあ……お前、まさか……俺の裸が見たい、なんて思ってないよな?」
「変なことを言わないで。でも……自分だけ裸になるのが嫌だ、というのは、分かるわ」
「そりゃあ、な……」
「……だから、私も裸になるわ」
「おいおい……」
「それなら、問題ないでしょ?」
どうやら、一ノ関は、この話の展開を考えながら、言葉を発していたらしい。
こいつが気を利かせるのは、不必要な場面であることが多い気がする。
「問題はあるだろ……」
「……そうかしら?」
「とにかく、風呂には1人で入れるから、心配しなくていい」
「そう……」
一ノ関は、残念そうな顔をした。
俺は、1人で風呂に入る。
そして、先ほどの食事を思い出した。
本当に、酷い料理だった……。
あんな物を毎日食わせられたら、たまったものではない。
一ノ関と夫婦としての生活を送るなら、食事は俺が用意するべきだろう。
だが……俺が作った料理を、一ノ関は食べてくれるだろうか?
もしも、せっかく作った料理にジャムをかけてから食べられたら……かなり腹が立つかもしれない。
とはいえ、強要するのは良くないことだ。
俺にだって、どうしても食えない物はある。
一ノ関が、ジャムをかけなければ何も食べられない体質なのであれば、こちらとしては、我慢すべきなのかもしれない。
俺は、風呂を出て、須賀川や蓮田の家にあったのと同じ服を着た。
リビングに戻ると、一ノ関はこちらをじっと見てから言ってくる。
「じゃあ……私は、お風呂に入ってくるわ」
「ああ。覗いたりしないから、安心しろ」
「……」
「須賀川と蓮田にも心配されたんだよ。今も『闇の巣』が閉じた後も、そういうことはしないつもりだ」
「覗かない代わりに、私が脱いだ服を漁るつもりなのね?」
「……お前は、俺を何だと思ってるんだ?」
「だって、貴方は、女の子の下着を見るのが好きなんでしょ?」
「いい加減にしてくれ」
「冗談よ」
真顔のままで言って、一ノ関は風呂に向かった。
……本当に、冗談なのだろうか?
リビングで1人になり、今日の訓練について考える。
俺が全速力で体当たりをしても、相手に大怪我をさせずに済んだのは、平沢の魔力が多いので、身体を充分に強化できていたからだろう。
もしも、相手が一ノ関だったら、俺にぶつかられても、無事で済んだだろうか……?
そのことを考えると、今後の訓練には、平沢に付き合ってもらった方がいいのかもしれない。
だが、平沢は色々と忙しそうにしている。
俺の訓練に付き合ってもらう時間があるだろうか?
そんなことを考えていると、一ノ関が風呂から出てくる。
一ノ関は薄いパジャマを着ているので、普段よりもさらに胸が目立って見えた。
俺は、慌てて目を逸らす。
「……寝室に、案内するわ」
そう言った一ノ関は、緊張した様子だった。
「あ、ああ……」
自分の声が上擦っているのを感じる。
とうとう、この時が来てしまった……。
一ノ関も同じことを思っているに違いない。
そろそろ見慣れてきた、他の家と全く同じ階段を上がり、2階の部屋に入る。
部屋の中にあったのは、やはり、2人が並んで寝られるベッドだ。
俺は、部屋の入り口で立ち止まっている一ノ関を見た。
こいつと初めて話した日には、この部屋に本当に来るとは思わなかった。
「……ねえ、黒崎君」
「まだ、子供は作らないんだろ? 言われなくても覚えてるから、安心しろ」
「……作りたいのね?」
一ノ関は、緊張した様子でそう言った。
これは……冗談ではないことが明らかだ。
「……それは、今は考えられない」
「私に対して、遠慮はしなくていいわ。経験はないけど……他の方法で楽しみたいなら、協力するから」
「……本気か?」
「本気よ。もう、夫婦だもの」
「……」
一ノ関に誘惑されて、俺は迷った。
ここは、何らかの方法で楽しませてもらうべきか……?
とりあえず胸を触らせてもらって、それから……。
そんなことを考えてしまってから、1回頭を振った。
「ありがたい話だが……今夜は遠慮させてくれ」
「貴方が、鈴や香奈とも、何もしなかったことは聞いたわ。……宝積寺玲奈のことを気にしているのね?」
「……ああ。あいつとのことが片付くまでは、女と楽しむつもりはない」
「それって……何らかの方法で私達と別れてから、あの子に対して言い訳をするためなの?」
「……俺には、自分から離婚する権利がないんだろ?」
「そうだけど……」
一ノ関は、不安そうな様子だ。
俺とこいつが結婚した経緯を考えれば、俺が本当に好きなのは宝積寺であり、自分はいつか捨てられるのではないか、と考えるのは当然なのかもしれない。
「俺は、宝積寺と、恋人同然の関係だったからな……。せめて、きちんと終わらせることが礼儀だろ?」
「……そうね」
一ノ関は、一応納得してくれた。
だが、俺はその夜、蓮田の時以上に長く、眠れない時間を過ごした。




