第31話 須賀川鈴-5
何の反応もできなかった。
浴室の中に潜んでいた、黒いフードを目深に被った何者か。
その人物は、一瞬で俺の背後に回り込み、黒い革の手袋をした左手で、俺の口を塞いだ。
「声を出すな。暴れたら殺す」
その人物は、抑揚のない声で言った。
そして、右手のナイフを、俺の喉元に突き付けてくる。
この状況では、反撃は不可能だ。
一か八かで魔光を生み出したとしても、どのような効果があるのかが分からない。
相手を道連れにできるかすら分からないのだ。
俺は、大人しくするしかなかった。
後ろに立っている人物の様子を探る。
どうやら、この人物は女のようだ。
背は低くないが、体格にせよ声にせよ、女性のものであることは間違いない。
フードの人物は、抑揚のない声で続ける。
「黒崎和己。お前は許されない存在だ。このままでは、御倉沢と神無月が手を結ぶ事態に発展するおそれがある。だが、それは、あってはならないことだ」
「……」
「そのような事態に陥れば、この世界の人類は滅亡するだろう。決して容認できることではない」
「……」
「だが、ここでお前が死ねば、御倉沢と神無月の対立は決定的なものとなる。宝積寺玲奈は、須賀川鈴か、他の御倉沢の者の仕業だと思うだろう。それは望ましい事態だ」
「……!」
「しかし、当分の間は、お前を生かしておいてやる。覚えておけ。これが最後の警告だ」
そう言って、フードの人物は、左手を俺の口から離す。
声を出す間もなく、その手が俺の頭の後ろに押し付けられると、俺は意識を失った。
女の声が聞こえて目を覚ますと、俺はリビングのソファに寝かされており、傍には須賀川と平沢がいた。
「黒崎、気が付いたのね……! まったく、いきなり倒れたりしないでよ! 心配したんだから!」
須賀川が、泣きそうな顔で言った。
「無事で何よりだわ。でも……短期間に2回も倒れるなんて、何かの病気かもしれないわね」
平沢にそう言われて、俺は気を失う前の出来事を思い出す。
「あいつは……!? あの、フードを被った女はどうした!?」
飛び起きてそう言うと、須賀川は困惑した顔をした。
「……フードを被った女? 私は、誰も見てないわよ。あんた、夢でも見たんじゃないの?」
「違う! あいつは、俺にナイフを突きつけて言ったんだ! 俺が原因で、御倉沢と神無月が手を組む結果になったら、この世界が滅ぶとか何とか……!」
「……それ、どう考えても夢じゃない。あんたと宝積寺が付き合ってて、それなのに、あんたは私達と結婚して……こんな状況で、どうしたら御倉沢と神無月が仲良くなるのよ? あんたが原因で、対立が激しくなることなら考えられるけど……」
「……」
「そういえば、矢板が、御倉沢と神無月のことを貶したらしいわね? それで、花乃舞があんたを殺したがってるとでも思ったの? だから意味不明な夢を見たんじゃない?」
「鈴さん、黒崎君は混乱しているのよ。何か、温かい飲み物でも用意してあげて」
「そうね」
須賀川は、俺の傍を離れて、キッチンへと向かった。
「ねえ、黒崎君……貴方、本当に誰かに襲われたの?」
平沢が、声を落として尋ねてくる。
「ああ。あれは絶対に夢じゃない」
「そう……。でも、当分の間は、夢だったことにして」
「……何でだよ?」
「花乃舞を、むやみに疑うことはできないわ。最悪の場合、御三家が互いに争うきっかけになるかもしれないから。ひょっとしたら、貴方を襲った人物は、それが目的だったのかもしれないわね……」
「……そういえば、お前達はどうして派閥争いなんてしてるんだ? 異世界から襲ってくる侵略者から、この世界を守ってるんだろ?」
「……それぞれに、譲れない主義主張があるのよ。詳しいことは、本家からの許可がないと話せないわ」
「お前は、そればっかりだな……」
「1つだけ忠告してあげる。貴方は、早く玲奈さんと別れるべきよ。あの子を、なるべく傷付けないように、ね」
「それが難しいから困ってるんだろ?」
「でも、何とかしてもらわないと……。貴方は、御三家を全て敵に回しているような状態なんだから」
「そんなことを言うなら、俺に結婚を強制した生徒会長に、責任を取ってもらいたいんだが」
「……無理よ。男女の色恋沙汰なんて、御三家の当主が解決すべき問題じゃないわよ」
「じゃあ、お前が何とかしてくれよ」
「私に、玲奈さんを説得することなんて……できるはずがないわ」
「おいおい……」
「あんた……自分で、女と別れることもできないの?」
3人分の飲み物を運んできた須賀川が、呆れた様子で言った。
「俺は、自分から複数の女と付き合ったり、結婚したりしたわけじゃない」
「いい加減にしなさいよ。あんたは御倉沢の人間なのよ? あんたみたいなのがいるから、御倉沢は神無月に舐められるのよ」
「……舐められる?」
「神無月は、身体の欲求を満たすために、相手を選ばないから。他所の家の人間でも既婚者でも、ヤりたくなった相手とヤッちゃうのが、あの連中の……」
「鈴さん! 私の前で、そういう話をするのはやめて!」
「……ごめんなさい」
気まずい雰囲気になり、平沢は俺に、体調に注意するようにと言って、帰って行った。
「あんた、もう身体は大丈夫なの?」
「ああ」
「そう……。でも、無理はしない方がいいわ。今日はもう寝ましょう」
「……ちなみに、俺に服を着せたのはお前か?」
俺は、先ほどから、ずっと気にしていたことを尋ねた。
全裸になってから気を失った俺は、須賀川から渡された浴衣を着ている。
誰が着せてくれたにしろ、何も身に着けていない姿を見られたことは間違いない。
「当然じゃない。あんたが倒れてるのを見付けて、すぐに麻理恵を呼んだんだけど……あの子に、あんたの裸を見せるわけにはいかないでしょ?」
「……助かった」
「まったく……お願いだから、全部脱いでから気を失うなんて、やめてよね? パンツまで脱いでから倒れるなんて、どうかしてるわ。……あんなもの、初めて見たわよ」
「気絶したくて、したわけじゃない」
「心配する方の身にもなってよ! このまま死ぬかもしれないって、本気で思ったんだから!」
「……悪かった」
「とにかく、無事で良かったわ。寝室まで、歩ける?」
「ああ。……寝室?」
「私の寝室よ」
「ちょっと待て! いきなりそれは……!」
「そんなに焦らないで。構わないでしょ? 夫婦なんだから」
「……子供は作らないんだろ?」
「そうよ。魔素は胎児に悪影響を与えるから、今は駄目。そもそも、妊娠して戦線離脱なんて、あってはならないことだわ。妊娠するのは、『闇の巣』が閉じて、戦う必要がなくなってからじゃないと」
「だったら、同じ部屋で寝るべきじゃないだろ……」
「いいから、遠慮しないで」
「……」
結局、俺は須賀川の寝室に連れて行かれた。
そして、2人用だと思われるベッドに寝かせられる。
「私は、お風呂に入ってくるから。……覗かないでよ?」
「……分かってる」
「それと……変なことをして、枕やシーツを汚したら許さないから」
「……ああ」
言いたいことを言って、須賀川は出て行った。
それからすぐに、俺は眠りについた。




