第177話 大河原桜子-13
「それで……先生は、春華さんの忠告に従ったんですか?」
俺が尋ねると、先生は首を振った。
「怒りが収まらなくて、美樹さんにだけは愚痴を言ったの。『春華さんは善人のフリをしているけれど、正体はとんでもない女だ』って」
「……」
「そうしたら、美樹さんにも、とっても悲しそうな顔をされたわ。今にして思えば……あの時の美樹さんの顔は、まるで、『恐れていた惨劇が発生してしまった』とでも思っているみたいだったわね」
「美樹さんって……その時点で、宝積寺の本性を知ってたんですか?」
「そうだったみたい。きっと、春華さんが全てを話していたのよ。春華さんが悩みを相談できる相手なんて、美樹さん以外にはいなかったはずだもの」
「……」
神のような存在だった春華さんであっても、自分の妹のことについては、誰かに相談しないではいられなかったのだろう。
その相手が、親友のあかりさんでも、一応は上司である神無月先輩でもなく、他の家の人間である館腰美樹さんであったことは、春華さんの苦悩の深さを表している気がした。
「美樹さんに言われたわ。『善悪は簡単に判断できるものではありません。善良だからこそ苦しむ方は大勢います。春華さんの悩みは、いつかきっと貴方にも理解できます。その日まで、決して春華さんを非難するようなことを口にしてはいけません』」
「……それで、先生は納得したんですか?」
「まさか。でも、美樹さんにそう言われたら、従うしかなかったわよ。私にとって、美樹さんは絶対的な存在だもの」
「……宝積寺にとっての、春華さんみたいに……?」
「そうね。ほとんど同じようなものだと思うわ」
そのおかげで、先生は宝積寺に殺されずに済んだのか……。
先生が館腰さんの忠告を素直に聞いたから良かったようなものの、そうでなければ惨劇は避けられなかっただろう。
それにしても……館腰美樹さんという人は、何者なんだろうか?
今まで聞いた話によると、まるで、春華さんを上回るような存在として扱われているように思えるのだが……?
「その後、私は春華さんを避けるようになったけど……対立はしないように気を付けたわ。美樹さんに言われたことも理由の1つだけど……とっても嫌な予感がしたの。滅多に会わなかったけど、玲奈ちゃんって、まるで親の仇でも見るような目でこっちを見るんだもの。あの子の本性を知らなくても、迂闊なことをしたら、何をされるか分からないと思ったわ」
「……」
普段の宝積寺は、好戦的にも凶暴にも見えない。
だが、あいつは本気で先生の抹殺を検討していたのだから、狙われていた本人が身の危険を感じるのは当然なのかもしれない。
「それから時間が流れて、イレギュラーの時に、私は自分から望んで参加したわ。美樹さんを助けたかったのも理由の1つだけど……知りたかったのよ。春華さんが、善人なのか、悪人なのか」
「一緒に戦ってみて、どうでしたか?」
「……」
先生は、大きなため息を吐いてから言った。
「こんなこと、玲奈ちゃんの前では絶対に言えないけど……はっきりと思ったわ。春華さんは、間違いなく極悪人よ」
「……!」
衝撃的な言葉だった。
春華さんのことを、ここまで悪く評価した人に会ったのは初めてである。
「それは……確かに、宝積寺の前では言えませんね……」
「春華さんの主義主張って、深く考えなければ、もっともらしく聞こえるんだけど……よく考えると、『殴られても犯されても、相手を許せば争いにならない』って言ってるのよ」
「まさか! 春華さんは、さすがに、そこまで非常識じゃないでしょう!?」
「間違いないわ。美樹さんや由佳さんやアリスは、そのことに気付いている様子だったもの。そんな理不尽なことを平気で言うのは、極悪人だけよ」
「……」
そういえば、早見は、春華さんが北上を理想としていることに疑問を抱いていた。
北上は気が弱く、何かを強く要求されると断れない性格なのだが、春華さんにとってはそういう性格が理想だったのである。
皆が北上のような性格だったら、これほど悪人にとって都合の良い環境はないだろう。
そう考えると、先生の言うことは間違っていないように思える。
「しかも、春華さんがそういう考えに至ったのは、玲奈ちゃんとは関係ないみたいなの。もちろん、他の人が春華さんと同じことを言ったら、批判されたはずだと思うけど……皆が、春華さんのことを素晴らしい人だと思い込んでいるから、誰からも問題だと指摘されなかったんでしょうね」
「でも……皆が何をされても許すような性格だったとしても、悪事を働く人間がいなければ問題ありませんよね?」
「そんな世界、あるはずないでしょう?」
「相手に落ち度がなくても、攻撃する人間は必ずいるってことですか? 昔の先生みたいに?」
「……」
先生は、少しの間、俺から目を逸らした。
春華さんが理想としていた世界には、先生のような人がいてはいけないということを認識しているらしい。
「私……小さい頃から、周囲に拒絶されていたの」
「……そうだったんですか?」
「そうよ。だって、私が当たり前だと思って口に出したことを、周りの子達が揃って否定するんだもの」
「まさか、先生って……小さい頃から、『魔力の乏しい人間に価値はない』とか言ってたんですか?」
「それだけじゃないわ。私の意見って、他の人と違いすぎるから、誰とも合わなかったのよ」
「そりゃあ……先生みたいなことを言う人間は、非常識すぎて距離を置かれるに決まってますよ」
「今なら分かるけど、少し前の私は、周りの人間の頭が悪いから話が通じないんだと思っていたわ」
「先生って……本当に性格が悪かったんですね……」
「やめて」
「……」
「黒崎君にまで、そんなことを言われたら、私はどうやって生きていけばいいの?」
「……大抵の人は、同じ感想になると思うんですけど……」
「私は、嫌がらせのために言ったわけじゃなくて、自然にそう思ったのよ。それを非難されても困るわ」
「……あの、先生……。魔力の乏しい人間を差別する言動って、親から植え付けられたわけじゃないんですか?」
「違うわ。自然と思ったのよ。この連中は要らない人間だって」
「……そういうことを口に出して、親から注意されなかったんですか?」
「されないわよ。母は、私のことを笑顔で見守ってくれたわ」
「……」
救いようがない……。
そういう環境で育てられた人物に、宝積寺姉妹のことを悪く言う資格はないと思った。




