第106話 栗橋梢-1
かなりの時間が経ち、ようやく動けるようになってから、重い足を引きずり、俺はシャワー室に向かった。
シャワー室の前のベンチには、既にシャワーを済ませて着替えた早見が座っていた。
薄いピンク色のワンピースに身を包んだ早見は、こちらを、満面の笑みを浮かべながら見た。
「では、『大河原先生の最大の魅力はおっぱい』ということで」
「さっき話したことは秘密にしてくれ!」
「お断りしますわ」
「鬼かお前は!?」
「あら。以前の桜子さんならばともかく、今の大河原先生なら、笑って許してくださると思いますわよ? この町でも、特に珍しい性癖というわけでもありませんから」
「いや、だが……そうだとしても、そんなことを言ったら、先生だってショックを受けるんじゃないか?」
「受けないとは断言できませんわね」
「だったら秘密にしてくれ……」
「隠したいのであれば、とうの昔に手遅れだと思いますが?」
「そうだとしても、俺の口から出た言葉としては、伝わってほしくないのは当然だろ……」
「分かりました。私から桜子さんには伝えませんから、ご安心ください」
「……まさか、先生には話さない代わりに、他の誰かには話す、なんて言わないだろうな?」
「あら、その手がありましたか」
「……やめてくれ」
「本当に話す気はありませんわよ。ですが、黒崎さんと親しい方々にアドバイスをします。女は従順で、何も言わなくても男に尽くすことが当然であり、どれほど理不尽な扱いを受けたとしても、文句を言わずに受け入れるべきであると……」
「頼むから許してくれ!」
「冗談ですわ」
そう言いながら楽しそうに笑う早見は、無垢な少女のようだったが、今は、そのことが恐ろしく思えた。
俺は、シャワーを浴びて着替えた。
そして、笑顔を崩さない早見への不安が拭えないまま、俺の家まで送ってもらうことになった。
「あら?」
俺の家に近付いてきたタイミングで、早見が声を上げた。
早見の視線の先には、1人の女がいる。
その女は、こちらに気付くと、頭を下げて挨拶した。
「こんにちは、アリスさん」
「梢さん、こんにちは。本日は、どのようなご用でこちらに?」
「神無月家へのご報告に参りました。萌さんが、遭遇した異世界人に逃げられてしまいましたので」
「あら、またですか?」
「……そのように仰らないでください。あの方は、自分の身を守るので精一杯だったのですから」
「理解しておりますわ。私だって、1人で異世界人に挑んだりはしませんもの。ですが、必ず神無月の居住地の方向に逃げられるのは、どうにかしていただきたいのですが……」
「そのことについては、大変申し訳なく思っております」
会話をしている2人を眺めながら、俺は不思議な感覚を覚えていた。
早見と会話をしている女を見て、既視感を覚えたのだ。
その女は、黒髪を三つ編みにしており、丸眼鏡をかけている。
この町で、眼鏡をかけている人物を見るのは初めてだ。
その姿は、まるで……。
「漫画のキャラクターそのものだな……」
つい、そう呟いてしまった。
すると、その三つ編み眼鏡の女は、こちらを白い目で見た。
「貴方は、私と会う度に、同じことを仰るつもりですか?」
「……は?」
こいつは……何を言っているのだろうか?
俺がこいつと会うのは、これが初めてのはずだ。
こんなに特徴的な人物と会えば、忘れることはないだろう。
以前に会ったことがあるとしても、この女が眼鏡をかけておらず、髪を三つ編みにしていなかったら、同一人物とは認識できないかもしれない。
だが、俺が同じことを言ったのだとすれば、それは、この女が今と同じ姿をしていたからであるはずだ。
俺の思考を読み取ったのか、三つ編み眼鏡の女は、絵に描いたようなジト目でこちらを見た。
「まさか……あのようなことを言った相手を、忘れたのですか?」
「全く覚えてないんだが……いつの話だ?」
「……信じられない人ですね、貴方は。ここまで無神経だから、女性を乗り換えて、さらに、その親友とデートするような、非常識なことができるのですね?」
「……デートじゃねえよ。訓練に行っただけだ」
俺がそう言うと、早見は不満そうな顔をした。
「あら、デートではなかったのですか?」
「だから、お前は、いちいち事態をややこしくするんじゃねぇ!」
「先ほど、私が一番良い女だ、と仰ったばかりでしょう?」
「いや、それは……単に容姿の話をしただけで……!」
「……あんまりですわ。私は、容姿以外は価値のない女だと仰るのですわね……?」
「そんなことは言ってねえよ!」
「……本当に、信じられない人ですよ、貴方は」
そう言って、三つ編み眼鏡の女はため息を吐いた。
「いや、早見は面白がってるだけだからな?」
「貴方がいくら否定しても無駄です。アリスさんと貴方が仲良くしたら、玲奈さんは、お二人の関係を疑うに決まっているではないですか。自分も同じことをしたのですから」
「……はぁ?」
「そういう意味では、部外者は、玲奈さんに自業自得だと言うかもしれません。ですが、玲奈さんは、色々なことがあって、天音さんのことを思い遣る余裕がなかったのです。それに、乗り換えたのは貴方自身なのですから、辛い思いをした天音さんのためにも、最低限の配慮を……」
勢い付いて話す女と俺の間に、早見は割り込むように動いた。
「梢さん。申し訳ありませんが、我々は少々急いでおります。お話は、また今度にしていただけませんか?」
「……分かりました。余計なことを言ってしまい、申し訳ありません」
三つ編み眼鏡の女は、気まずそうに頭を下げてから立ち去った。
「……何だったんだ、あいつは?」
立ち去る女の背中で、三つ編みが揺れるのを見ながら俺は言った。
「どうやら、黒崎さんと玲奈さんがお付き合いを始めた経緯を、誤解なさっているようですわね。後日、私から正確な事情を話しておきますわ」
「なあ……あいつは、宝積寺とどういう関係なんだ?」
「そうですわね。玲奈さんの……保護者、といったところでしょうか」
「保護者?」
「あの方は、常に、玲奈さんが痩せてしまわないかを気にしていらっしゃるのですわ」
「……?」
「梢さんは、痩せている女性のことを放っておけない性格なのです。この町には、食が細い女性が多いので、気になってしまうのでしょう」
その話を聞いて、俺は須賀川の話を思い出した。
そして、渡波の話と、早見がさっきの女の名前を呼んでいたことを思い出す。
「ひょっとして……あいつが栗橋か?」
「あら、ご存知でしたか?」
「……ああ」
栗橋梢といえば、須賀川のクラスの委員長であり、小学生の時に、宝積寺を止めた人物だと聞いている。
花乃舞の中では、良識派ということになっていると聞いていたが……案の定、クセのありそうな女だ。
それにしても、栗橋には、俺達の事情が、どのように伝わっているのだろうか?
俺の知らないところで、酷い誤解が広まっているように思えて、不安になってしまった。




