モラトリアムの贖罪
特に目的があったわけではない。免許を取ったばかりの身の上で、親の車を借りて夜のドライブを楽しんでいただけだった。
深夜一時の箱根山頂、長尾峠。
箱根と御殿場を結ぶ本線ともいうべき138号線から外れて更に山あいを駆け上がっていく、街灯すらない細い峠道。
そこから見える夜景を眺めてみようと出てきたはいいが、月明かりが綺麗ではあるものの、基本的に夜の箱根など灯りに乏しく期待はずれな成果を得て、缶コーヒーと一本のパーラメントを味わいながら物思いに耽っていた時の事だ。
不意に、自分の背後に、何かの気配を感じた。
右へカーブしている舗装された峠道、右手側が山の岩肌になっているため、カーブの向こう側がブラインドになっているその場所に、岩肌に半分隠れるように、象牙色の大きな何かが、ジッと息を潜めるように浮かんでいる。
視認した瞬間こそ、最初はそれが何か解らなかった。しかし直後に背筋が凍りつく。
恐らくは自分のいるこの場所から僅か二〇メートルほどの距離だろう、岩肌に半分隠れている分も考えれば全幅は恐らく十二メートル程にもなるだろうか、都市バスの全長程もある岩石のようなものが、地上三メートルほどの虚空に、音もなく浮いているのだ。
十二メートルサイズのどら焼きと言えばその形状は分かりやすいだろうか、いっそ宙に浮かぶフリスビー型の巨大な岩石と言ってもいい異様な光景、しかしその表面に突起物の類いはなく、全体的に不気味なほどのっぺりとしたその質感が、それが岩石のような自然物では有り得ない事を物語っている。
夜の箱根の山道で、宙に浮かぶ都市バスサイズの岩石のようなものを、いきなり目撃してしまったインパクト。
未知のものを見てしまった本能的な恐怖、背中に冷水を掛けられたような気持ちで、静かに愛車に乗り込もうとする間も目線はそれから離せない。それは道端で、日本ではあまり見掛けないほどの大型犬に遭遇してしまった時に、相手を触発させないように静かに後ずさりするような心境に近いものだったのかもしれない。
あの大きさのものが、地上から三メートルという、高くもなく低くもない等身大のリアリティを伴う奇妙な高度で虚空に留まり、無音で浮いているという異様から僅か二〇メートルの、この位置。
それは未知のものに対する恐怖を最大限に駆り立てられる、絶妙にして最悪の距離だ。 これが仮に、背後を振り返ったら接触するほどの至近距離にそれがいたならば、いっそ半狂乱に陥る事も出来ただろう。半狂乱に陥るとは一種の防衛本能だ、それは大怪我をした時に泣き叫ぶ事で肉体的な痛みを僅かにでも和らげるように。
しかし二〇メートルという絶妙に中途半端なこの距離は、出会してしまった不気味な存在についてパニックに陥り思考停止する事なく、観察する事が出来てしまう。
そして観察するほど、自分が遭遇してしまったそれが掛け値なしに未知の異様である事を、こめかみを伝う冷たい汗と共にジワジワと思い知ってしまうのだ。
そして同時に彼我の間に横たわるこの距離は、自分がその異様から決して身の安全を確保できる安全圏にいるわけではない事をも、本能的に解ってしまう。
生きた心地がしないまま乗り込んだ車のエンジンを掛けて走らせる、しかし見遣ったルームミラーに映し出されてしまっている不気味な異常、その大きさが変わらない。
ミラーの中で後方へと流れていく周りの景色とは裏腹に、映し出されているその異様な何かのサイズが、ミラーの中で変わらない。
追いかけてきているのだ。
山道を下るこの車との距離を付かず離れず、まるでボルトで固定されているかのように。まるでこの車を、自分を、観察しているかのように。
自分が今まで見た何とも違うもの、未知のもの。
〝解らないものがそこに在る〟というだけで本能的に感じる恐怖。忌避感。
祈るような気持ちで車を走らせ続ける。ビギナーである自分のドライビングの腕に覚えがある筈もなく、ゆえに慎重にアクセルを踏みながらも、次にミラーを覗き込む時にはそれは映っていませんようにと、何かの見間違いでありますようにと、祈るように、それでも怖いもの見たさの為せる業なのか、時折覗き込んでしまうミラーの中に、果たしてそれはブラックユーモアのようにそこに在り続けている。
円盤状のそれは、月明かりを受けてアイボリー色に鈍く照らし出される上部と、影となる下部のコントラストが、沈黙しながらも雄弁にその物体が宙に浮かんでそこに在ると主張している。
視界の端に映るルームミラーの中、その大きな円盤状の何かが月明かりによって路面に落とす影は、舗装された峠道の幅をオーバーして収まりきっていない。
なんだ、アレは。
得体の知れない何かと、遭遇してしまった。
夜の箱根の峠道で、生物なのか鉱物なのかすら解らない得体の知れない何かと、遭遇してしまった。
心拍数が荒れ狂っているのが分かる、乾いた口の中で無理にでも唾を飲み込む。
その正体が解らないものが、あの質量のものが宙に浮いている、そしてそのアンノウンの意思が、意識が、間違いなく自分に向けられている。
背中に冷たい何かが這い回るような恐ろしさ、車のルーフがアレが浮かんでいる外界から自分の居る車内空間を隔離してくれているからこそ辛うじて正気を保っていられるものの、しかしそれとて、こんな小さな車の居住スペースは遭遇してしまった異常な何かから身を守る安全圏と呼ぶにはあまりにも心許ない。それは宛ら遮るものが何もない平原で遭遇してしまった九〇〇ヘクトパスカル級の暴風雨の中、ポツンと設置されている小さな電話ボックスの中で縮こまる様に。
生きた心地がしないままに峠道を下り終え、箱根と御殿場を結ぶ138号線に出たところでルームミラーは、リアガラスは、何事もなかったかのように夜の箱根の自然の景色を映していた。
停車した車のドアガラスから恐る恐る背後を、真上を、そして夜空に視線を滑らせるも、そこにあるのは夜の闇に瞬く星々。聞こえてくるのは鈴虫の音。
嘘のように〝それ〟は、居なくなっていた。
鳴りっぱなしだったカーステの音楽がようやく耳に入る頃、心臓の鼓動が尋常でない事に改めて気付く。
タイムラグを置いて背中から首筋から、震えるような寒気が襲う。
あれは一体、何だったのか。
自分は一体、何と遭遇したのか。
背筋からゾワゾワと込み上げてくる畏怖の記憶を反芻しながらも、実は既に気付いている。
ほんの数分前、悪夢の真っ只中で感じた〝自分が今まで見た何とも違うもの〟という感想には、恐怖を伴うその感想には、実は語弊がある事を。
何故ならば、ついさっきまでこの車を追走してきたアレには、無言で宙に浮かびそこに在り続けたアレには、飽くまで知識としてならば、見覚えがなかったか。
あの形はちょうど、テレビ番組の衝撃映像などで時折特集される、アダムスキー型だとか葉巻型だとか呼ばれる、アレの類いではなかったか。
〝円盤状のそれ〟とは、奇しくもそのまんまの意味ではなかったか。
実は最近この近辺では、同様の目撃情報が既に幾つも存在する事を、彼は知らない。
仮に彼が今夜の身も凍るような出来事を、メディアだろうと交番のお巡りさんだろうと血相を変えて飛び込んで話したところで、そのレポートが陽の目を見る事はない。
それは決して、彼の豊富とは言えないボキャブラリーと拙い表現能力では、いくら事実をありのままに話そうと事が事だけに荒唐無稽なコミカルになってしまい、臨場感を伝えきれず信憑性を獲得できないからという意味ではない。
事前に敷かれている箝口令によって、その訴えは公表される事なく封殺されてしまう為である事など、名もなき彼が知る由もない。
モラトリアムの贖罪
1
「キバヤシくん、キバヤシ隊長」
台風一過、穏やかな晴天に恵まれた四月のとある下校途中に呼び止められて振り向けば、そこには腰まではあろうか、栗色に艶めく髪にスラッとしたスレンダーな女子生徒。
スタイル良いよなこの人、おっぱいの形といい、美乳というのはこういうのを言うのだろうか。そうそう、おっぱいと言えば先輩みたいに一六四センチ(推定)くらいの女子には非常ベルの隣に付いてる赤ランプくらいの大きさ、つまり先輩くらいのサイズがベスト・オブ・ベストの黄金比というのが僕の持論だ。巨乳でもなく無いチチでもない普通が実は最適解。そして何よりスラリと伸びた長い脚、その名前が記憶にポップアップするより早く、その形状の描写とそれに伴う感想が先に来るとかどんなだよ、と思っても顔には出さない(0・2秒)。
「ちょっと、そんなライトノベルの初回人物描写みたいなこと声に出して言わないで」
顔には出さなかったけれど声には出ていたらしい。ダダ漏れだった。どんだけだよ僕。 手の甲を口元に当てて眩しそうに目を細めて微笑むこの仕草、これは先輩のような美少女がやると破壊力抜群だ。光の当たり具合によっては薄いエメラルドグリーン掛かって見えるその瞳も、まるで凡庸なこの世界から浮いた存在である事を示す記号の様で、エキセントリックな神秘性を感じさせる。
「え? どこから聞いて?」
「脚がどうとかこうとか」
「ふう、とりま、先輩のおっぱいは非常ベルの件は辛うじてセーフだったようで重畳」
ドン引きされていた。アウトだった。雉も鳴かずば撃たれまい。うわ、って感じのその顔も可愛くてツボだったけどね。
「ていうか誰ですかキバヤシて。人をノストラダムスの予言の謎を華麗な論理の飛躍で解き明かして(こじつけて)いくチームのリーダーみたいに言わないでください真希那先輩」
「ふふっ、それで振り向く方もどうかと思うわ要くん。おっぱいフェチの神代要くん」
論点はズラせなかった。
「誤解があるようですが、僕はおっぱいではなく脚フェチで」
「それでね、これがこの前言ってた例の写真なんだけど」
弁解も軽やかにスルー。
というか弁解も何も、失敗を別の失敗で上塗りするようなもので弁解になってもいなければミスディレクションにもなっていない。木を隠すなら森の中、その誤用の好例だ。
彼女、僕より一学年上の鳳高校三年生、言伝真希那先輩がそう言って取り出したのは、スマホに保存されていた一枚の画像だった。
この街の有権者である鳳の屋敷を上空から撮影した航空写真、恐らくグーグルによるものだろう、そこには南向きにコの字型に建てられた大きな屋敷と、その周辺の広大な敷地が収められており、その敷地の中には池(というよりはちょっとした湖レベルだが)が、その水面の微かな波さえ鮮明に写し出されていた。
「ね? ここ。ちょっと拡大してみるね」
彼女の指が、まるでピアニストのように器用にスマホを操作し画像をピンチアウトさせる。なんだかセクシーだなこの指の動き、なんて思考を逸らしてみたけれど、しかし画像を拡大させる前からその〝異物〟は、否が応でも目に留まってしまうほどの強烈な存在感を持って、不気味な違和感を持って、既に異彩を放っている。
「ね? 蛇でしょう? これ」
「うん……蛇」
蛇。
鳳の敷地内といっても邸宅からはかなりの距離があるそのミニチュア湖、いや池の水面を、文字通り蛇行するように泳ぐ、一本の長くて白い、異様なシルエット。
台風一過の鮮烈な日差しを受けて、三角形の頭らしき部位さえその輪郭が鮮明に写し出されたそれは、シミュラクラ現象だとかパレイドリア現象だとかの小賢しい錯覚の入り込む余地もない、紛うことなき蛇だった。
ただし。
画像内に写り込んでいる鳳の屋敷の高級車と比較してもゆうに車五台分、このスケールのものを〝蛇〟と表現していいならば、の話だが。
しかも蛇というには太すぎるその体躯、下手したらその頭の大きさは軽自動車ほどもあるだろう。この、いっそ暴力的とさえ言える大きさの生物が、存在感を持つものが、日常の風景と一緒に、その一部として何食わぬ顔で、済まし顔でそこに収まっている。居てしまっている。
スマホに表示されたシュールな画像、それは遠近法が狂ってるのかってくらい強烈な違和感を感じるものだった。周りの風景との縮尺がまるでデタラメだ、もはや小型の竜の類いだろこれ。いや、でも南米だかどこだかにはとんでもないスケールのアナコンダだかが発見されたとか聞いた事もあるし、居ても不思議ではないのか? いやでも日本だろここ。
「ね!? 見てみたいと思わないこの肉」
「いやいや真希那さん、高校三年生にもなってヘビ探索もないでしょう……え? 肉!?既に命名してる事はさておき、よりにもよって肉!? 肉と名付けていい生き物はせめてタヌキまでにしてくださいよ」
「ふふっ、でもこういうのって何故か心惹かれるものがあると思わない? 私たちが常識だと思ってるこちら側ではない、〝向こう側〟を覗くような感じで」
それは、解らなくもない。
オカルトマニアというわけじゃあないけれど、僕たちの常識を打ち破る存在が一つそこに在るだけで、確認出来たならばそれだけで、少なくも僕の中の常識は、世界は、今までとは違ったものとして認識される事になるのだろうから。
ニル・アドミラリでもない僕がそこに興味がないと言えば嘘になるし、その異常が発見された「現場」が、帰宅のために正門を出ようとしていた僕を彼女が呼び止めたこの場所から、さほど離れていない鳳の屋敷であるなら尚更だ。
ついでに言えば、高校三年生にもなって、とは言ってみたものの、この人に限ってはそんなテンプレートな警鐘はまるで意味を為さないんだろうな。首都圏でも有数の進学校であるこの学校で、主席としてその名を馳せている彼女に限っては。
僕が転校してくる前の話だから風聞になるけれど、この学校ではかつて学園祭でウェーバーのオペラ「魔弾の射手」を上演した事があって、その際に彼女が演じたヒロインのアガーテ役はとても高校の文化祭のレベルとは思えないほどのカリスマ性と華があり、在校生徒のみならず一般客をも巻き込んでスタンディングオペレーションを発生させたのは有名な話だ。
更に言えば上演にあたってドイツ語の歌詞を訳したのも彼女であり、しかもその歌詞はドイツ語では脚韻を踏んでいるので日本語に変換する際には頭韻を踏み、なおかつスムーズに歌えるように構成にアレンジすら仕掛けていたというのだから驚きだ。
コンビニで売ってる毎日骨太っていう牛乳みたいなやつを、「毎日ほねた」っていうチャーミングな商品名だと勘違いしてた僕とは訳が違う。
あっはっは、我ながら自分の進路が心配だ。先日の台風ですら進路が決まっているというのに。
それはさておき、この先輩とこうして楽しげに話せる接点を持つのは僕としてもやぶさかではない、というより嬉しい限りなので、一方的なデート気分を秘かに味わいながら了承したのは言うまでもない。実際、正門を出ていく生徒たちも、先輩の差し出すスマホを覗き見ながら昵懇に話す僕たちを物羨みとまではいかずとも、その耳目を集めていると感じるのは気のせいではないだろう。
ハハ、違うんですよ皆さん、話してる内容はヘビですよ? 週末のデートに向かうお店のデザートの画像を見て話が弾んでるんじゃなくて。事と次第によってはこっちがデザートにされてしまいかねないというのは考えすぎだろうか。
それはそうと改めて綺麗な人だな、人付き合いが嫌いで人の顔と名前を憶えない僕でも彼女の存在はすぐに覚えたくらいだ。至近距離で差し出してくるスマホより差し出す彼女そのものに意識が向いていたのは言うまでもない。なんかこのまま遊びに誘っても自然な流れなんじゃないかとさえ錯覚してしまいそうだけれどそこは僕、分不相応な期待は裏切られることを心得ているので言葉には出さない。
僕から見れば彼女は未知の存在だけど、同じ未知でも画像の蛇とは違いこの手の未知には飛び込まないのだ。なぜなら蛇には嫌われてもなんらダメージはないが彼女はその限りではない。ちなみに人間嫌いでもかわいい女の子は別腹というのも僕の持論だ。
フフ、ラノベと違い現実は杓子定規のそれではない、自家撞着のそれなのだ。
しかし、蛇。
それも車五台分の、蛇。
僕もその後ネットで検索してみたけれど、地元のニュースにも記載されておらず全く検索に引っ掛からない。グーグルの画像もそのあと直ぐ様訂正されていたらしく、僕が検索した時には、そこには何の変鉄もない池が写し出されていただけだった。
代わりと言ってはなんだけど、アマゾンの河を写したグーグルマップの画像に、同じように河を蛇行して泳ぐ大蛇が写し出されたものが見つかり、一種のUMAだと騒がれていた。
UMA。
このUMAというネーミングも日本人の造語であり、本来これはクリプティッドという呼称が正しいらしいけれど、その存在が未だ確認されていない生物を定義して指すらしい。もちろん無条件で信じているわけでもないけれど、考えてみればこの「存在が未だ確認されていない」というのも、飽くまで人間という観測者の主観から見てその存在が未だ確認されていないというだけで、この星が誕生してから四十六億年、現象世界に既に産み落とされていた生命の中で、人間が観測に成功した種なんて、実はたかが知れているのかもしれない。悪魔の証明理論では「居ると主張する側」に証明責任があるとしているけれど、それとて「居ない事を証明するのは居る事を証明するよりハードルが高い」事が前提としてあるからこそだったはずだ。
とは言えそれでも尚、UMAの中にはその存在がフェイクである事が結論付けられてしまったケースもあるそうだ。
例えば有名どころではスカイフィッシュ。
長い棒状の身体を持ち、空中を時速二八〇キロ以上という高速で移動するというスケルトンボディを持つこのUMAは、近年の検証によりその正体はハエなどの昆虫であると看破されたのは有名な話だ。
カメラの眼前に飛んでいるハエなどの昆虫が映り込んだ場合、カメラを通すとそれはまるで残像のように映ってしまう現象が稀に起きるという。これがあたかも高速で飛び回る棒状の生物が映ったかのように誤認されてしまうというのだ。
これは一種のモーションブラー現象と呼ばれるもので、このUMAがビデオカメラや写真には写るものの、肉眼で発見する者や実物の捕獲例が皆無なのはこのためであると言われている。
余談ではあるけれど、僕はこのUMAの正体が科学的に解明されてしまったときには心底ガッカリしたものだ。真相を科学で解き明かすのもいいけれど、謎の一つくらい残してくれた方がロマンがあるのになあ。幽霊の正体見たり枯れ尾。
またその正体はスカイフィッシュのケースのような「事実誤認」ではなく、確信犯によって意図的に作り出された「紛い物」がその正体であるケースも存在する。
というのも、こういった架空の生物(UMA)があたかも実在するかのように思わせる見世物として猿や鯉、エイなどの動物の死体を継ぎ合わせたミイラが、江戸時代の日本で作られたこともあるというのだ。
それどころか猿やカワウソの前脚が「河童の手のミイラ」として語り継がれるなど、既知の動物の死骸が未確認動物のものとして保管されてしまっている例もあるけれど、しかしその一方で、その中には既知のどの動物にも当てはまらないモノが実際に存在するという。
人類史上、観測されたどの生物種にも該当しない〝ナニか〟の痕跡が、紛れ込んでいるという。
事実誤認や意図的に作られた偽物(UMA)たちで溢れかえるフェイクの中に、実は「本物」が紛れ込んでいたのだろうか。
「神代くん」
人間の都合とは関係なく、この地球という同じ惑星の摂理によって生み出された異形の者たちが、僕たちのすぐ隣で、僕たちの隣人として、既に潜んでいるのだろうか。
僕たちがその隣人の存在に、気付かないだけで。
「神代くん?」
おっと、意識が不思議の国の旅から我に返ってみれば向かいにはUMA、じゃない優奈、クラスメイトの星宮優奈の怪訝な表情がそこにあった。
真希那さんからの突然のコンタクトから一夜明けた翌日の放課後、図書館の一室にて、僕に勉強を教えてくれる有り難い神様だ。決して向かいの椅子に座る隣人の存在を忘れていた訳ではないけれど、見慣れたこの街の見慣れた場所に、あんな生態系から逸脱した謎生物の画像を、グーグルという公式の記録を経由して見せつけられた事に、自分で思う以上には動揺しているのだろうか。
「なにか考え事? いつも通りの上の空で平常運転だけど」
「いや、平常運転なら疑問に思わないでくれ星宮。てか僕をそんな夢見るお花畑の住人みたく言わないでくれ」
「あはは、神代くんは空想世界の自主警備員だものね」
「なんだそれは、ニートとどっちが上か甲乙つけがたい職業じゃないか、空想世界の警備員て。実質的に何を守ってるんだそれは」
「今回はまた長ーい旅だったわよ? 神代くんの意識は私たちより上位の世界にチャネリングしてるのかもね」
クスクス笑いながら僕をからかうのが本当に楽しそうだな。まあ、この秀才が僕に勉強を教えてくれるのだから、お楽しみいただけて何よりだ。勉強会と銘打ってはいるものの、実際には僕が一方的に教えてもらってるようなものだからな。何事も貰ってばかりじゃ申し訳ない。あの成績トップ独走の言伝真希那先輩に唯一肉薄する実力者が、こうしてテータテートで付き合ってくれるのだから、僕が空想ランデヴーに勤しむ姿で一時の楽しみを彼女に提供出来るなら願ってもない。御同慶の至りだよ。
「上位の世界か。実は昨日、真希那先輩から奇妙な写真を見せられたんだよ。鳳の屋敷の敷地内に池があるだろ? そこに二〇メートル近い蛇が泳いでる写真なんだけど」
「鳳の屋敷ってあれよね、ホーエンツォレルン城の事よね。う~ん、流石に二〇メートルサイズとなると日本ではあり得ないんじゃないかな。それが本当に蛇、というか生物なら、それを受け止めるだけの生態環境がなければ成り立たないと思うし」
「ホーエ……なんだっけ? その城はともかく、確かにそうなんだよな、生物は環境と連携して成り立ってるから、受け皿である環境を度外視して生物だけ肥大化するって事は考えにくいんだけどな」
星宮は鳳の屋敷をドイツの城名で呼んでいる。そう、鳳の「屋敷」とはいうものの、その外観は星宮曰くホーエンツォレルン城によく似た造りになっているそうだ。女の子はやっぱり好きなのかな、ドイツの古城とか。シンデレラ城もドイツの城がモデルになってると言うし。
「シンデレラ城のモデルは一般的にはノイシュバンシュタイン城と思われているけど、実際にはフランスのユッセ城やヴェルサイユ宮殿など複数のヨーロッパのお城の混成よ。ノイシュバンシュタイン城をモデルにしているのはシンデレラ城ではなくて眠れる森の美女のお城の方ね。同じドイツの古城でもノイシュバンシュタイン城とホーエンツォレルン城とでは全然外観が違うでしょ? 鳳の場合はその事業がドイツに関連しているからあの形なんだったかな、でもドイツのアーキテクチャーをそのまま日本で履行したのではなく、飽くまで日本の風土に合わせて、日本の材質を使ってドイツの城に似せて建造されたらしいんだけどね」
「でもアレだな、生物が環境と密接に関係しているという話に引っ掛けるわけじゃないけれど、日本でドイツの城を建造するっていうのも、ある意味日本の中の異物って言えなくもないよな」
「でも不思議と違和感がないでしょう? 街全体が城下町を意識して作られてるのも、その一因だと思うんだけどね」
そう、箱根の麓にあるこの街は、海に面した港町であると同時に、鳳の〝城〟を中心に据えた城下町だ。景観条例が全国で初めて施工された背景もあり、鳳の城を違和感なく溶け込ませるように、街全体の景観がチューニングされている。道路が一部、まるで外国を思わせる石畳であったりするのもそのためだ。
「で、真希那先輩と一緒にその蛇を見に行く、と」
「うん? まあ、怖いもの見たさっていうか、そんな流れになったんだよ。明後日。どうせなら土曜、学校帰りにしようと。あの人も受験生なのに余裕だよな、廉直というか、勉強なんてしてる素振りがないのにあのポテンシャルだろ? 僕から見れば真希那先輩といいお前といい、生まれ持ったスペックがそもそも違うとしか思えないんだよな」
「あの人は私から見ても鶏群の一鶴よ。何ていうか無理がないのよね。別に他意があって言うわけじゃないけれど、単純な知識量だけでいうなら私の方がもしかしたら上かも知れない。事実、暗記モノに限っていうなら私の方が高得点をマークしてる教科もあるし。でもあの人が本来の力を発揮するフィールドは、知らなかった情報を組み合わせる事で誰より先に解に辿り着いてしまう、一種の超能力めいたもの。情報リテラシーっていう言葉があるけれど、そのレギュレーションが規格外っていうのかな、多くの人がスタートという点からゴールの点へと一つ一つ梯子を掛けて線で結んで辿り着くのに対して、あの人のそれは点から点へと一足飛びにゴールに至ってしまう、結果の方が先に解ってしまう。先に辿り着いてしまう。それを証明するための理論展開が、自分が辿り着いたゴールという点を証明するために一つ一つ梯子を掛けて点を線で結ぶ理論証明が、後から遅れてやってくるというイメージ。俯瞰能力が優れているんじゃないかな」
天才肌ってヤツかな。その俯瞰能力で何を見ているのか、何が見えているのか。
僕なんか俯瞰能力どころか空想世界をお散歩するお花畑の住人呼ばわりされるのが関の山で、見えているものも解ではなくUMAだったり非常ベルのおっぱいだったり星宮の不信そうな顔だったり。
「ふ~ん。蛇デートね」
なんだ蛇デートって。どんなデートだそれは。
「いや、そんな桃色成分のあるものじゃないぞ? 先輩が僕を誘ったのだって僕が暇そうだったからだろ」
「というより、先日の一件があったから神代くんには話しやすかったのかもしれないね」
先日の一件。
お花畑の住人、もとい凡庸なワンオブゼムに過ぎないこの僕が、言伝真希那先輩と第三種接近遭遇を果たした経緯。
中学の時からクラス委員長だったという星宮はともかくとして、僕も同じくクラス委員長に抜擢されたのは、何も僕が成績優秀者だとか責任感が人一倍強いだとかクラスの人気者だとかいうわけでなく、単に欠席した翌日登校してみると事後承諾でクラス委員長になっていたというだけの話だけれど、委員の仕事で同伴する機会が増えた星宮と正門で別れてからの下校途中、僕は初めて本物と出会ったのだ。本物というのはこの場合、試験のたびに貼り出される成績上位者の一番上に、まるでテンプレートとして固定されているかのように毎度記載されているその名前の持ち主、という意味での事になるのだけれど。
成績トップ、まるでそこが自分の玉座であるかのように常に君臨している、その名前。
言伝真希那。
名前は至るところて聞いた事はあるけれど、その姿は見た事がない。これもある意味UMAのようではあるけれど、それは単に僕の友好範囲が極めて狭い事に起因するだけなんだろうな。
兎も角、下校途中に、それは起こった。
「そこ、危ないから逃げて?」
なんの危機意識もない、柔らかい声だった。
鼻にかかった甘い声、と言っても差し支えないくらいの、柔らかい声。
〝ごめん、今日部活があるから先に帰ってて〟と同じくらいのトーンで発せられた言葉だった。
背後から掛けられたその声に振り向けば、そこには莞爾とした笑顔で歩く、同じ学校の制服を着た女子。それが後に知る言伝真希那その人だったわけだけれど、目が合った事からその鼻にかかった甘い声は、彼女の前を歩いていた僕に掛けられた言葉だった事が推測されるけれど、その言葉の意味内容が解らない。
しかし優しい声とは裏腹に、いや、その手でそっと僕の背中を押し出すその仕草も優しいものではあったものの、そこには有無を言わさぬ意思を感じた。
彼女に背中を押されるままに僕は歩く。テクテクと、二〇メートルほど。
「よいしょ、よいしょ」
背中を押し出す彼女と、それに合わせて歩く僕。
なんだこれ? 電車ごっこみたいだ、なんてほのぼのとした気持ちを抱いた、その直後だった。
ドォォォォォォォォォン!!
大地が揺れた。鼓膜と言わず頭の中が全て真っ白に吹っ飛ぶ程の、凄まじい轟音と共に。
何かが爆発したのだ。ほんの数十秒前、僕たちが居たであろう、その場所で。
周囲で悲鳴が上がったのは爆音の直後、一瞬の静寂を挟んでからだ。それとも爆音の、あまりに壮絶な音響に耳鳴りを起こした僕の耳が、悲鳴を聞き取るのに一拍のタイムラグを必要としたために体感的にそう感じただけだったのか。
何が!? 何が起こった!?
道行く車も停車してドライバーが出てくる程だったけれど、それは決して単なる好奇心からだけではないだろう。それもそのはず、車道のど真ん中に、直径一メートルほどのクレーターが発生していたのだ。
現場は一時、騒然となった。
メテオ・ストライク。
いや、これも漫画の読みすぎだろう、正確にはそれを表現する英訳は厳密に言うと違うらしいけれど、文字通り頭をハンマーで殴られたようなインパクトを持つその現象を体感して、有り様を見て、真っ先に頭に浮かんだ語句が、それだった。
隕石。――隕石落下。
爆心地となったミニチュア・クレーターから立ち上る白煙、バラバラとまばらに降り注ぐ砂塵のようなもの、遠巻きにざわめく人だかりが増えてゆく。見れば、クレーターの直近に立てられたカーブミラーが縦に亀裂の入った鏡のように、亀裂の右と左であらぬ方向を映し出している。微かに鼻につく硫黄のような臭いは何に由来するものか。野次馬の中から何人か、アスファルトに穿たれた穴をスマホで撮影する者が現れた頃、ようやく落ち着きを取り戻した僕が隣の女子に目をやると、
「わーお。ビックリしたね!!」
ビックリしたのはこっちだ、二重の意味で。聞きたい事が多すぎて、そして驚きポイントが多すぎて定まらない。どうやら僕はまだ落ち着きを取り戻してもいないらしい。
「……なぜ、解ったんですか?」
本来お礼を言うのが先なんだろうけど、辛うじて口を出たその言葉に対して、果たして彼女は。
「ん? 解ったって、どっちの事かな? 何かが空から落ちてくる事か、それともそこにいたら危ないって事か、どっちの事かしら」
それは、違いがあるのだろうか?
「後者が解ったからこそよ。前者、つまり何かが空から落ちてくるなんて未来の現象の正体を知るわけもないでしょう?」
いや知るわけもないでしょうって……。
前者だろうと後者だろうと解るはずもないと思うのだけれど。
例えば赤信号で横断しようとしてる歩行者に車が向かってくるとか、そういった危険予知が出来るだけの事前情報となるインフォメーションはなかったはずなのに、そもそもそこにいたら危ないと、何をもって知り得たんだろう。
何の予兆もなかったはずだ。何の前触れもなかったはずだ。
なのに、あの誘導の仕方といい、そして結果だけ見れば正確に安全圏まで移動を果たしている事といい、明らかに彼女は着弾のタイミングを、そしてその破壊がもたらす規模を、把握している。知っている。
でもなぜ把握していたのか、なぜ知っていたのか、その部分が解らない。
なんとなくそこにいたら危ない。それは、体感的なものなのだろうか?
遅まきながらお礼を言えたのは、あれは消防車だろうか、そのサイレンが聞こえ始めた頃だった。
ともあれ、これが言伝真希那先輩との邂逅を果たした一件となったわけだけれど、僕としては出逢った事によってむしろ解らない謎が増えたというのが、彼女とのファーストコンタクトだった。
「お帰りなさい神代くん」
「あれ? てっきり章が変わってる流れだと思ったんだけど、まだ図書館なんだな」
「そういうメタ発言はやめなさい。今回も長いトリップだったわね、スラムダンク並みの回想シーンに突入したらどうしようかと思ったわ」
「まあ、そんなわけでそのあと一緒に下校の帰路についたんだけれど、話してみると気さくな人だったし、その写真の蛇についてもその時に教えてもらったんだよ。PCに保存してあるから、後日スマホに入れて見せてくれるって」
もう妄想世界の住人扱いはスルーでいいや。
「んー、蛇の件も充分フォークロアなんだけど、何気なくサラッと聞かされたその前日譚も、それはそれで耳目を驚かす話よね。話を額面通りに聞く限り、予知能力以外の何物でもないじゃない?」
予知能力、と呼べてしまうのだろうか。
あの一件はその後ニュース番組でも紹介され、見慣れた街がテレビに映し出されるその模様を不思議な気持ちで、そしてその現場に居合わせた当事者として少なからずとも興奮を禁じ得ず見ていたわけだけれど、扱いとしては些細なものだった。
その中で天文学の専門家らしきコメンテーターが言うには、その後回収された隕石は直径僅か数センチだか十数センチだったか忘れたけれど、サイズ的には微々たるものだったらしい。
それであの破壊力。
実際にリアルタイムで、絶賛ライヴ生中継で体感した身としては、その驚異的なベクトルエネルギーに、思い出せば背中にうすら寒いものをいまだに感じる。
見えない空気の壁のようなものが全身を打ち付けるドンッ! という衝撃が、いまだに感触として残っている。
ニュースではその後も隕石の材質や隕石の元の大きさ、入射角、速度などにより算出されるその破壊の規模なんかが語られていたけれど、特に僕の注意を引いたのは、たとえ百メートル級の隕石でさえ天体望遠鏡では事前にその予兆を察知することはできない、着弾して初めて解るという専門家の見解だった。言うまでもなく今回のケースはそれより遥かに小規模なもので、事前にそれと解るインフォメーションは、やはり無かった筈なのだ。
隕石落下の予知、事前予知。予知能力。
その予知能力の存在だって充分フォークロアみたいなものだけれど、何ていうかあれは、そういった解りやすいスペックとはまた違う気がする。
似て非なるもの。真希那先輩との邂逅の際に僕が図らずとも体験した現象は、遭遇した何かは、もっと何かが根本的に違う現象だった、気がする。
「それはそうと、お城へはアポを取ってから行くつもりなの?」
「うん? いやそれはどうだろう、真希那さんとはただ物見遊山的に立ち寄って見に行くみたいなニュアンスで話していただけだったけど、そもそもあの池、鳳の屋敷から離れた場所にあるから立ち入ること自体は自由に出来てしまうだろ?」
「不法侵入じゃないそれ。しょうがないわね、うってつけの人材を紹介してあげるわ。場所を変えましょうか」
2
「友達がいな、いえ失礼、孤高の一匹狼の神代さんに、星宮さんのような優秀なお友だちがいるとは驚きです」
「初対面の挨拶がそれかよ!」
「気に病むことはありませんよ神代さん、友達がいないというのは昨今のラノベでは主人公としてのテンプレートです。ナチュラルボーン主人公。〝友達がいないという設定でありながらも、ちゃっかり可愛い女の子たちは周りに何だかんだいって配置されている〟という、全体論的に見ればおいしいポジショニングも、もはやそろそろ使い古された感のあるステレオタイプ設定と言えるでしょう」
「友達がいないを連呼するな、ここまでの流れで、言われさえしなければ誰も気付かなかったかもしれない黒プロフィールなのに!」
「誰に対しての〝気付かれなかった〟ですか。神代さんの〝俺に構うな放っといてくれATフィールド〟は友達どころか物質の進行および波の伝達すら拒絶する、攻守に亘ってパーペキな絶対鎖国防壁という事実は、この学校に於いて雷鳴の如く轟き渡ってますからね。鳳高校のゼルエルとは神代さんの事です」
「最強の拒絶タイプかよ僕は! 僕がゼルエルならお前は差し詰め暴走状態のエヴァ初号機だよ!」
僕をして鎖国というのなら今まさに黒船の襲来を受けてるよ。てかここで章が変わるのかよ。ジャイアント・インパクト、じゃない、メテオ・ストライクの一件を差し置いてこの娘の登場シーンで章が切り替わるとか、どんだけのインパクトなんだよこいつ。
カフェ・リーフ。
図書室を後にした僕と星宮が立ち寄ったカフェであり、あの鳳の屋敷からも比較的近いこの店を星宮は待ち合わせ場所として選んだ。
待ち合わせ、そう、星宮の友人でもあり、何より件の鳳の屋敷の長女でもあるこの子、鳳高校一年生・鳳真綾との、待ち合わせである。星宮や僕とは一学年下の後輩となる。
ところでこの長女という言葉は、字面からしても背が高くてしっかりしたお姉さんという印象をともすれば勝手に抱いてしまうけれど、そんな僕の先入観を気持ち良いほど木っ端微塵に粉砕してくれたこのエヴァ初号機は、中学生でも罷り通ってしまいかねないほど小柄なポニーテールの汎用人型決戦兵器だった。
「なんでもウチの湖を見たいとの事ですが、高校生にもなって。ゲンゴロウでも探すんですか、高校生にもなって」
「僕とお前の間には前世からの戦うべき宿命でも用意されているのか!?」
「あはは、これだけ打ち解け合えるならもう紹介の必要はないみたいね」
「いやいや星宮、撃ち合えるの間違いだろ。しかも厳密に言えば撃ち合っているのではなく、僕が一方的に撃ち抜かれているだけなんだが。オーバーキルにも程があるだろ、どんなトリガーハッピーだよ」
だいたい、この一連のラリーのどこをどう見れば打ち解け合っていると解釈できるというのか。
「まーちゃん、湖を見に行くというのは神代くんと言伝真希那さんなのよ」
「なんと! あの真希那先輩までその毒牙に掛けていたとは……! これはいよいよ神代ハーレム完成へ向けてチェックメイトですね」
「そんなメルヘンランド建設に向けて着工した覚えはねえよ。てかなんだ毒牙って。僕が今掛かっているのはお前の猖獗を極める毒舌の散弾銃だよ」
「しかし、そうですか。湖畔に佇む真希那先輩、さぞかし絵になる構図ですね」
「ゲンゴロウをオプションとして語る僕の時とリアクションが全く違うのはこの際置いておくとして、そういった事で明後日の土曜日、ちょっと立ち寄らせて欲しいんだよ」
「ウチは全然構いませんが、これは聞くまでもない事だとは思いますけど、まさかまさか、デートじゃありませんよね?」
「そんな良いものじゃな……」
「ですよねー。これで私も後顧の憂いなく余生を過ごせるというものです」
「僕が真希那先輩と仮にデートしたからといって、それがなんでお前の余生にそこまでの影響を与える事になるんだ。どんなバタフライ効果だよ」
「言伝真希那先輩とはいわゆるアンタッチャブルな存在なのです。高嶺の花にして絶対不可侵領域。ゼルエルな神代さんとはまた違う意味での、絶対のATフィールドに守られた存在。私の夢を呉々も壊さないでください」
こいつも真希那さんシンパなのか。しかしなんでこんなリズミカルにアイロニー連発出来るんだろうこのポニテは、コンスタントにダメージが蓄積されていくよ? 初対面の、それも一応年長なのに僕。とはいえそれが許されてしまうキャラクターというのはいるもので、毒づき合っていても心のどこかで楽しいと感じてしまっている自分がいる。 いやマゾ的な趣味はないのだけれど、この子の場合はコミュニケーション能力の高さというより得な性格、というヤツなんだろうな。それに何だかんだいってこの子は僕に絡んでくるのが楽しそうだ。それが何となく伝わるからこそ、僕も言うほど腹が立たない。
「そもそもなんでウチの湖に?」
「ん。これは本人を前にして言いづらい事ではあるんだが、お前の屋敷の池に有り得ないサイズの蛇が写っていたんだよ。グーグルの航空写真にな。それを真希那先輩が見つけて、是非確認してみようと。まあ野次馬だな」
「ははあ、UMAの神代さんがUMAを見に行くという、アイロニーを含んだオチなんですね? なかなか含蓄がありますねえ。UMAを探しに出掛けてみたら実は自分がそのUMAだったと。幻の花を探しに出掛けて世界を廻ってみるも見つからず、家に戻ってみれば実は家の裏庭に咲いていたみたいな。あなたはドコの子ルンルンですか」
「なんでそんな往年の名作を知ってるんだよ! てか使徒になったりUMAになったり忙しいな僕!」
あ、やっぱダメだわ腹も立たないとか無理だコレ。この初号機はいつになったら沈黙するんだろう。何とかケーブル引っこ抜いてやろうか。
「俗世間には自分探しの旅なんてものがあるらしいですが、まさかのオチですよね、自分を探し当ててみたらよりにもよってUMAだったとか。世の中、知らない方が良かった事もあるという好例ですね」
「あってたまるかそんな好例!」
「私も今日こうして神代さんと実際会うまではその存在を信じられませんでした。噂は聞けども姿が見えない。その姿を見てしまうと数日中に死んでしまうとさえ囁かれる都市伝説」
「僕はドッペルゲンガーかよ!」
「眉唾物のオカルト雑誌の中だけの存在だと思っていたツチノコに、玄関の扉を開けたらいきなり遭遇したかのような衝撃を受けています」
「僕は漫画やラノベでよく見掛ける毒舌ツンデレは二次元だけの存在だと安心して読んでいたら、捲ったページから飛び出してきたような衝撃を受けているよ。間違いなくアドリヴで噂を捏造してるのは解るけど、そもそも自分家の池にそんなギガントスケールの大蛇がいた事に今まで気付かなかったのか?」
「ギガントスケールでない大蛇というのもなかなか居ないとは思いますが、そもそもまだ居ると決まったわけではありませんしね。第一そんな話は聞いた事も見たこともありませんし、その痕跡さえ私の知る限りなかったはずです」
まあ……それが現実的なのか? しかしあの画像はあまりに鮮明すぎてショッキングですらあったんだけれど。
「ちなみに今更ですが、ウチのあれは池ではなく、れっきとした湖ですよ?」
「そうなのか?」
「まーちゃんちのは水深十メートル以上あるから、カテゴリーとしては湖の定義を満たしているのよ。原始の地球に於いて隕石が盛んに降り注いだ後期重爆撃期の名残だなんて説もあるわね。尤も、この後期重爆撃期の痕跡は月がたくさんのクレーターで覆われている事がその証左と言われているけれど、地球の場合はテクトニクス過程と浸食のためクレーターはすぐに消失したとされているから、これが本当に立証されたら大発見だけどね」
いや、そんな考古学的ななんちゃらより〝個人の邸宅の敷地内に湖がある〟という事実の方が僕にとっては異次元だ。リアル面堂邸かよ。
「まーちゃんちの湖の件は兎も角として、グーグルマップの登場によって似たような未確認生物の目撃情報は世界中のあちこちで挙がってるみたいね。南極の『ニンゲン』なんてものも最近騒がれてるみたい」
ニンゲン。
あったなそんなの。星宮の言う「ニンゲン」とは南極の海で目撃されたUMAで、数十メートルサイズという、手足を持った巨大なヒトの形をしているとかいうヤツだ。
確かエヴァンゲリオンで、ロンギヌスの槍に貫かれたアダムによく似たフォルムだったような。
南極周辺海域での調査捕鯨の記録の中には、公に出来ない「ある物体」が数年前から目撃されていて、それが「ニンゲン」という都市伝説の元型なんだとか。
写真に撮ろうにも氷山のようにしか写らず、なかなかズバリといった写真や目撃証拠がないのが現状で、出回っている画像も証言をもとに作られたコラージュなどが多いとされてきた。
そんな中、グーグルマップに偶然写り込んだ物体がある。
アフリカのナミビアの沿岸を撮影した画像の中に、「それ」は映り込んでいた。
偶発的に撮影された水中の白い影、それが巷でまことしやかに囁かれる「ニンゲン」と、その外見的な特徴があまりにも近似していたところから、その都市伝説の信憑性はにわかに熱を帯び始めたのだ。
「なるほど、エヴァネタを引っ張っていたのはここに着地するためだったんですね?」
「いやそんな伏線のつもりで使っていたわけでは……って、エヴァネタを切り出したのはお前だろ」
「しかし、そうですか、事の発端が真希那先輩とあれば尚更無下には出来ません。私も神代さんのご友人との邂逅に、ひと肌脱ごうではありませんか」
広げた右手を胸に当て、アルカイックスマイルで目を伏せる。〝お任せください〟と言わんばかりの慇懃無礼なその仕草。ああもういいよUMAな僕がUMAなお友だちに会いに行くというトキメキ設定で。真希那さんとのなんちゃってデートがこうして実現するなら、お前の誹謗中傷なんて税金みたいなもんさハハ。
「でも神代さんも酔狂ですね、わざわざウチの湖にまでお越し願わなくても、お友だち(UMA)に会いたいなら、神代さんにとってそもそも〝お友だち〟という概念そのものがUMAみたいなものじゃないですか」
「僕に友達が出来るのはツチノコやネッシーの発見と同じくらいハードルが高いレア確率だとでも言いたいのか!」
「UMAに囲まれて生活してるようなものです。世界の不思議は意外に身近にあるものですね」
「ラノベの中だけの存在だと思っていたアクセル全開フルスロットルな毒舌ラジカリストのヒロインも、意外と身近にいるものだと今まさに痛感しているよ」
「それで、当日はどこで何時に落ち合えば良いんですか?」
「え? お前も来るの?」
「その前提で私を呼んだのではないのですかバカなの氏ぬの? 何かの手違いでヒトの形に生まれてしまったげっ歯類なのですか?」
チッ! 来るのかよ。税金の過払い金返せよ。そんなに僕と真希那さんとのツーショットが許せないのか。
そんな紛争地帯にコーヒーのポットを持ったウェイトレスさんがやって来る。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
ウェイトレスさんニコッ。
「あ、じゃあこちらのポニテのお嬢さんに大盛りで」ニコッ。
「こちらのお兄さんにミルクと砂糖も一緒に。コーヒー抜きで」ニコッ。
スゴいよこの子、ホーミングミサイルみたいにピッタリついてくるよ! 一周回って楽しくなってきたぞ? 見ればウェイトレスさんも破顔してるよ。
「まーちゃん、 具体的な時間は決まってないみたいだから、学校帰りにそのまま向かうと思うの」
「了解です。じゃあ私は迎えに行かなくても大丈夫ですね。ところで星宮さんは来ないんですか?」
「え? ええ~……私は……」チラッ。
なぜ僕を見るか。
「星宮も暇だったら息抜きがてら来ればいいんじゃないか? 僕たちと鳳とのパイプ役として」
……そしてこの暴走初号機からの防護壁(ATフィールド)として。このポニテ決戦兵器と呉越同舟なら今さら何人増えようと同じ事だろ。それに真希那さんフリークみたいだしなコレ、当日は真希那先輩ベッタリになってくれれば僕は無風地帯、後はじっと息を潜めて気配を消してればモーマンタイ。
ここからは、ステルス要の独壇場っすよ♪
……本末転倒ですね僕のお相手はやっぱり大蛇なUMAと。
3
しばらく星宮とエヴァが女の子同士話し込んでいるその様子を「こうして女の子に囲まれてると、若草物語のヒロインになった気分だなぁ」などと感慨深く眺めていると、不意に二人が席を立ち始める気配がした。どうやらエヴァが帰るらしい。活動限界なのかな。
「いえ、それには及びません。明日華が迎えに来てくれてますから」
星宮が送ろうとする申し出を辞退したエヴァは、僕に一瞥すると店の外へと出ていき、星宮と僕がそれに続く。そうかシンジ君はアスカに連れ戻されてネルフへと帰るのか、ミサトさんではなく。そのまま凍結されればいいのに、などとオリジナルストーリーをぼんやり考えていると、店の前の通り、少し離れた位置の道路脇にアイドリング状態で停車している、一台の純白のポルシェ。
911GT3の隣で、両の掌を体の前で重ねて粛然と佇む、一人のメイド。
メイドだよメイド服。この往来で。ポルシェとメイドの組み合わせというのも一種ニューロティックな絵面ではあるけれど、何故かそれがしっくりと馴染んで上品に見えてしまうのも、そのメイド服がメイド喫茶にいるであろうフリル満載のそれではなく、濃紺のロングスカートの上に白いエプロンドレスというシンプルな出で立ちだったからか。
どう見ても二十代前半くらいだろうか、そのメイドさんが纏うフワッと柔らかに広がるスカートを引き締める、足元の黒いブーツがアクセントになっている。
気品がある、というのはこういうのを言うのだろうか、洗練された者が纏う独特の空気。エヴァ、もとい鳳がその女性の元へ駆け寄っていき、開けられた助手席のドアへ身を滑り込ませる。しかも今気付いたけれどあのポルシェRSだ、役付きってヤツだ。日本では十七台しか存在しないんじゃなかったっけ? もう色々と非日常すぎて圧倒されているところへ、終始微笑みを崩さないそのメイドさんが僕たちに一礼、端正なその顔をあげた刹那に、視線が合う。
ん。何だろう、この既視感。……どこかで。
鳳の屋敷へと走り去っていくポルシェを見送ってから、二人して歩き出す。
星宮と僕の家は逆方向だけれど、このカフェからは途中までは一緒だ。
ドイツ南西部の山頂、雲海に浮かぶ天空の城・ホーエンツォレルン城(出典:星宮)にそこまで似せた訳ではないだろうけれど、実際の鳳の屋敷も小高い岡の上に鎮座しており、その外周は堀で囲まれている。お堀端通りと呼ばれるこの通りは、その名の通り城の外周である堀に平行して走っており、地元の駅と御幸の浜の海岸を結ぶ桜並木通りだ。
ライトアップされた夜桜を見ながら受ける春の夜風が心地良い。
夜に映える桜というのは、こちら側の世界である此岸とあちら側の彼岸を別つ境界線のシンボリックようで神秘的だ。
「いやもおホントびっくりしたわ何あの戦闘民族? ライフゲージか残り一ドットだよ?」
でも僕らの会話にロマンティックという概念はない。ブッ、と、今まで堪えていた笑いが決壊するように、前のめりに崩れかかる星宮。ドンマイと言わんばかりに僕の背中をポンポンと叩く。顔を上げ、セミロングの繊細な髪から覗かせた表情は、紅潮するほど破顔していた。僕に遠慮して笑いをそれでも必死に堪えているのだろうけれど、コオロギのように肩をプルプル震わせているあたり、余震は暫く続きそうだ。
「あはは、ゼルエルとか言われてたね」
「僕のATフィールドは他者のコミュニケーションアプローチの一切を遮断し無効化するはずなのに、あんなバリアフリーに入って来られると為す術ないんだけど!?」
「あ、ATフィールドは認めちゃうんだ」
涙目になった目元を軽く指で拭う星宮。
「しかも何だよUMAって。僕もボッチだとかスタンドアローンPCだとか言われてきたけどUMAは初めてだよ、この数十分で随分打たれ強くなったよ、スーパーなサイヤ人になるのも時間の問題だよ」
再びコオロギ状態の星宮。
「あは、あはは……神代くんの事は以前からまーちゃんに話していたんだけど、興味を持っていたみたいだから会えて嬉しかったんじゃないかな」
嬉しさの感情表現があれでは被爆者は堪ったものじゃないだろ。昨今、ツンデレの概念も崩壊しつつある気がしてならない。だいたいよく考えてみれば訪問先に許可を取るなら電話一本で済む話である。鳳と星宮が友達なら尚更だ。あれ? 星宮さん? 僕叩かれ損じゃないですかね。
しかし流石はお嬢様、鳳の屋敷を下り街に出てすぐあのカフェはあるわけだけれど、あの距離をわざわざ車で送迎とか。
それはそうと明日華さんといったかあのメイド、どうもどこかで見た気がしてならない。デジャヴュというやつだろうか。
「明日華さんは私もまーちゃんちに遊びに行った時に会う程度でそんなに面識があるわけじゃないけど、まーちゃんとは実の姉妹みたいに仲が良いよ。お城の外で見掛ける事は殆どないけど、目立つ人だからどこかで見掛けた記憶が片隅に残っていたのかもね」
「僕から見れば星宮と鳳も姉妹みたいに映ったけどな、真逆な性格なのに。ところでデジャヴュと言えば、僕は逆に見慣れているはずのものを、まるで初めて体験するかのように感じる事もあるんだが」
「ジャメヴュね。未視感。因みにデジャヴュ、つまり既視感は〝確かに見た覚えがあるけれど、いつ、どこで見たのか思い出せない〟というように強い違和感を伴う場合が多いの。そうした体験は夢が原因だと考えられていて、特にフロイトなんかでは過去に見た夢が甦ったのだけれど、無意識のうちに見たものだから意識的には思い出すことができないものとされているのよ。超心理学的な見方を好む人たちにも予知夢と関連づけて考察されることがあるんだけれど、でも多くの場合、実際にはそうした夢すら見ていない場合が多くて、それどころか過去に実際に体験したという確かな感覚すらあって、一概に夢や単なる錯覚だけでは片付けられないとする考え方もあるのよね。でも既視感は健全な人も経験するもので誰しもが持っている、ごく一般的な感覚よ」
なにぺディア? でもそうか、デジャヴュと言えば少しだけオサレだが、時折感じる既視感に痴呆の可能性を疑い、ジャメヴュではゲシュタルト崩壊を疑ってしまったけれど、一般的な感覚と聞いてひと安心。フツーが一番。UMAで痴呆でゲシュタルト崩壊なんて一気にハットトリック達成じゃないか。なに僕ファンタジスタ?
「う~ん、ジャメヴュとゲシュタルト崩壊は語弊を恐れず暴力的に言っちゃえば、ゲシュタルト崩壊が認識の混乱とするなら、ジャメヴュは認識の消失がそれに近いんじゃないかな。だから似て非なるものだと思う」
「ついでに言えば、ふとした時に誰かの気配を感じる時もある」
「気配過敏症状や被注察感かもしれないね」
あれ? なんだか一気に病名っぽくなっちゃったぞ。フツーに医師の診断コースじゃないかそれ。誰かの気配、僕はてっきりサードマン現象かスタンド能力にでも目覚めたかと思ったのに。
「気のせいか、真希那さんと遭遇した隕石落下以降あたりから特に強く感じるようになったんだけどな。その何とか症状だったらまだ思春期独特の自意識過剰症の方がマシじゃないか」
「……物思へば 沢の螢も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見ゆ」
「なんだ? 松尾芭蕉か?」
「和泉式部よ」
クスクスと笑う星空。
「物思いをしていると、沢を飛ぶ蛍もわが身から抜け出した魂のように錯覚してしまうっていう意味ね。沢の螢じゃないけれど、神代くんの場合は友達を欲しがる願望が見せた幻だったりして」
手の甲を口許に宛がい、悪戯っ子のような笑みを浮かべて笑うコケティッシュなその表情に、ドキッとさせられてしまう。しかしまたぼっちネタか。鳳の悪影響が星宮にまでパンデミックしているな。あの病原体、許すまじ。
しかしなるほど、望む心が生み出す幻か。いや友達を望んだ覚えはないのだけれど、いわゆるエア友と言うやつかそれは? どうせなら格好いいエア友を設定したいものだ。例えばそうだな、ビハインドを持ちながらもそれすら武器に変えて戦うダークなヒーロー。誰の理解も求めない斜に構えたピカレスクロマン。あとキャンセル能力なんかもあったらいいな。何それカッケー! 僕がそっちになりたい、入れ替わってくんないかな。この僕はそのエア友が見る夢で、実はそっちのエア友の方がリアル。
「それは胡蝶の夢。その昔、荘周という人が夢の中で蝶になったんだけど、でも荘周の見る夢の中で蝶になったのか、蝶の見る夢の中で荘周になったのか分からなくなったっていうお話ね」
「しかしいくら何でも蝶が人間になった夢を見るというのは無理筋もいいところだけどな」
「あはは、この場合の夢っていうのは是と非、生と死、大と小、美と醜、貴と賎とかの、現実に存在している相対差別的なものを指しているのよ。それらの差異は人間、というか観測者の知が生み出した結果に過ぎないから、荘子はそれを〝ただの見せかけに過ぎない〟と言っているの。有り体に言っちゃえば、自分は蝶なのか人間なのか、どちらが真実かなんて考えても意味はない。蝶の時は蝶として、荘周の時は荘周として、いずれも真実として受け入れて満足して生きる事を説いているの。これは無為自然や一切斉同という概念にも通じる、目的意識に縛られない自由な境地のことで、その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができる、とされてるわね」
遊歩道わきのライトに照らされ、夜の帳に浮かび上がる桜たちは美しく、じっと息を潜めている。
ゆっくり歩くのは何も星宮のペースに合わせているからというだけじゃない。
ソプラノ・レッジェーロというのだろうか。軽やかで可憐な、星宮の、その声。
その声で紡がれる言葉の中に、どこか身に覚えがあると感じるのも、いつかどこかで体験した事柄であるように感じるのも、そして記憶の残滓の中で蜃気楼のように見え隠れしている〝何か〟が想起されるように感じるのもまた、デジャヴュなのだろうか。
自由な境地に達した者が成しうる、自然と融和した自由な生き方と聞いて、何故か真希那さんの姿が浮かぶ。
「〝吾が生や涯てありて、知や涯てなし〟 人の一生に限りがあるのに、知にはその限りがない。限りのあるものの中で限りないものを追いかけてもただ疲れるだけ、その程度の小知ならば捨ててしまえという思想ね」
「鳳に言わせれば、僕だろうと大蛇なUMAだろうとそこに差異はない、どちらも真実として受け入れれば自由な人になれるとか言われそうだな」
「自由な人と言ってしまうとニュアンスが変わっちゃうんだけど」
星宮コオロギがコロコロと笑う。
「神代くんは話してみるとホントに面白いのにね、どうして学校では一人でいるのかが不思議。なんで?」
「人間嫌いなんだよ僕は。辞世の句は〝次こそ魔族に生まれますように〟と決めてある程だ」
「またそういう事を。そもそもなんで嫌いなの?」
「正しい事を正しいままにできないだろ人間のルールって。例えばおかしなもので、僕は一年の三学期という中途半端な時期に転校してきたわけだけれど、当然クラスの人間も僕という新参者に興味を持ってるのは解るんだ。でも自分から話しかけてくる事はない。飽くまで僕の方から話しかけてくるのを待つ姿勢なわけだ。でも僕は特に話したいと思うわけでもないから動かない、すると向こうはいつまでも動かない僕に対して苛立ちから嫌悪に、その認識が変わっていく。話したいと思うなら話しかければ良いだけなのに。何も僕が話しかけられてシカトしたわけでもない、話さないのはお互い様なのに、なぜか僕の方が先に動くべきという不文律がそこにはある。で、僕がその期待に沿った動きをしないと苛立ちを覚えるんだろう、僕という存在Xの情報がいつまでも得られない状況に不安定感を感じ、排斥する事を存在Xに対する対症療法として代入する。思うに人は解らないものを解らないままで、アンノウンの存在をアンノウンのままで保留しておく事が出来ない性なんじゃないかと思うんだ」
「小っさ」
あれ? おかしいな、呆れられちゃったぞ? ヒトは未知のものを未知のままで保留しておく事が不得手な生物である事を、無理矢理にでもどこかしら既知のカテコリーにカテゴライズする事で安心を得る習性の動物である事を、哲学的なその命題を卑近な例を挙げて解説したつもりだったのに、たった三文字でバッサリ斬られちゃったぞ。色々考えて語ったつもりなのに。
実際、人の織り成すコミュニティは正・誤の解りやすいオン・オフだけでは回っていない。実はもっとフィーリング的で流動的な、空気や雰囲気でジャッジが下される。好感・嫌悪感が振り分けられる。要は多数決で決められているようなものだ。
ゆえに正しいと裁定が下されたものが必ずしも正しいとは限らないし、そのまた逆も然り。多数決で決まるものなんて学級会か選挙くらいだけれど、どちらも得てしてロクな結果にはならない。
そしてなんの事はない、多数決は学級会だけでなく社会に出ても恐らく絶賛継続中で、これからもそこに人の輪がある限り継続されていくシステムなのだろう。
僕はそれが生理的に受け付けられない。
正しい判断をした奴を、いや、間違っていない奴を、例え周囲がそいつに対して嫌悪感を抱いたとしても、それが正しいなら正しいとして扱うべきだと思う。自身の内から沸き起こる嫌悪感をさえ飲み込んで押し殺して、感情論より理を取るべきだと思う。寧ろそれが本来的に人には出来ないからこそ、人は法律だなんだのガイドラインを設けなければならないのではないか。
僕みたいな事を言うヤツは清濁併せ飲む事が出来ない子供と評されてしまいそうだけれど、そもそも清濁併せ飲むって本当に正しい事なのだろうか。人の社会で生きる上では有効な武器だとは思うけれど、もっと巨きな視点でみれば、それは不完全な人間が織り成す世界で生きる事に照準を合わせてチューニングされた、謂わばデチューンなんじゃないかな。これもすわ理屈っぽいと言われそうだけれど、理屈を前提で話すスタンスこそが本来の在るべき姿で、理屈に対してアンチテーゼを投げ掛けるならその論法は必然的に屁理屈だ。……なんていう僕の主張こそが屁理屈なのか。なんというパラドクス。
実際のところ僕は言わなくてもいいことを言ってしまうから嫌われるだけなんだろう。
例えば慰めを必要としている人間がいて、たとえそいつが間違っていても普通の人は空気を読んで慰めの言葉を掛けるところを、ところが僕は是非をハッキリ言ってしまうから嫌われる。正しい事、正しくない事、竹を割ったようなシンプルな模範解答よりも、空気を読むという超能力紛いの能力の方がこの世界では重宝され、正解もTPOに応じて変わっていく。
何それ空気を読むとか僕以外はみんなエスパーなの? いつの間に身に付けてるのそんなサイコメトリー。
「神代くんのそれは空気を読めないんじゃなくて、空気を読んだその上でそれに従ってないって事でしょ? 聞こえは格好いいけど損はするスタンスよね。ちょっとニュアンス違っちゃうけど、同じKYでも空気読めないじゃなくて空気読まないの違い。……でも私には普通に接してるけど、これも単に私の方から話かけたからなのかな」
既に笑いも治まった星宮のその声は、優しく静謐だ。
「ん。星宮はなんか話しやすいからな」
俯く彼女の表情がセミロングの髪に隠れる。
星宮優奈。
切っ掛けはなんだったか、気が付いたらクラスで話すようになっていたクラスメイト。 実際人との出会いなんて記憶に残らない些細な切っ掛けで始まるのかもしれない。真希那さんとの邂逅のような、それこそ漫画のネタにすらなりそうな特異なケースの方が寧ろイレギュラーなんだろう。
それでも最初は接してくる星宮に対しても距離を置いていた。警戒していたと言ってもいい。それは一人でいる事が多い僕から見て、学年トップクラスの成績を誇り、クラス内のカースト制度ヒエラルキーのトップグループに属する星宮は一種畏怖にも似た対象であり、今でこそ星宮はそのポジションに縛られず誰に対してもフラットに接する事ができる人間である事が解っているけれど、当初はその優しさが、優位に立つ者が下へ向ける自己陶酔的なポージングのように映ったからだ。
こうして勉強会まで開くようになって、ようやく僕も星宮という人物像が見えてきて、それがお情けではなく対等に接してくるそれであると解って心を開いた次第だ。
なにこれ小せえ、僕ホントに小せえ。警戒心バリバリのキツネリスかよ。
如何せん、僕のように絶望的な対人スキルを持つ不器用な人間から見ると、星宮のように人と人との間を器用に泳げる存在は一種の超能力者のように見えてしまうのだ。
そもそもトップカーストに与しながら僕のような人間にフラットに接する事自体、星宮にとっては本来リスキーてある筈なのに、事もなげにその立ち居振る舞いを成立させてしまっている事に、両立させてしまっている事に、その非凡な対人スキルが伺える。
「なら神代くんは基本的に来る者は拒まず、去る者は追わずってスタンスなのであって、決して人間嫌いってわけじゃないんじゃないの?」
「いや基本的に嫌いな方向で。コミュニティに属すると人付き合いの方に自分のリソースを割かなきゃいけないあの感じに煩わしさを禁じ得ない。それに僕がどうこうするそれ以前の問題として、素の自分であるほど相手に嫌われる絶対の自信が僕にはある」
「これもある意味自信家と呼んでいいのかな」
「よくラノベなんかでもさ、帯コメントに○○先生推薦! なんてあるけれど、例えば仮に僕がラノベ作家になって、他の作家さんの帯コメントに〝神代先生大絶賛!〟とか書こうものなら、寧ろ逆に売上ドーンと落ちる可能性まである」
「別にラノベじゃなくてもいいと思うけど……」
クスクスと笑う星宮。詮ずるところ僕は、仲良くなってもお互い気心知れてくれば、僕の本質が相手もわかってくれば、相手も僕に嫌悪感を感じるだろうことに自信がある。両者の関係に不協和音をきたす事に絶対の自信がある。ソースは僕だ。吉兆は糾える縄のごとし、初めから失う事が予見できてしまう事に手を伸ばす事が出来ない。
それでもこうして星宮とは自然体で接する事が出来てしまうのは、ひとえに彼女のポテンシャルの為せる業なのかもしれないし、僕はその居心地の良さに甘えているだけなのかもしれない。
人との絆を築いてもいずれ破綻してしまう、これは一種強迫観念のように気が付いたら僕の中に蟠っていたものだけれど、これを単なる被害妄想的な錯覚ととするには、あまりにも確かなリアリティを伴って僕の中に存在している。
それこそデジャヴュのように。
僕はなにか、大事な前提を忘れているかのように、この穏やかな日々は一時の仮初めであるかのように、思えてならない。
いずれこのツケを払う時が必ずやって来る。
この穏やかな日々は、贖罪までのモラトリアムに過ぎない。そう思えてならない。
歩道の両脇に設置されたライトに照らし上げられる桜を眺めながら、僕たちは歩く。
春の夜、というのは、それだけで独特の空気を持っている。
たおやかで綺麗で儚くて、愛おしくて優しくて、そして残酷。
真綿で首を絞めるような、狂おしいほどの愛しさに似た狂気を秘めている。
静謐で穏やかで、それでいて焦燥にも似た感情を、記憶の底から呼び覚まされる。
何か良くない事がゆっくりと、しかし確実に進行しているのに、迫ってきているのに、それが何か解らない。
気付いた時にはその残酷なシーンが、ブラックユーモアのように、タチの悪いジョークのように、目の前にそっと開示されるように。
4
「ただいまー」
マンションの七階の角部屋、玄関のドアを開けるとキッチンから何やらいい匂いが。恐らく妹の美鈴が晩メシを作ってくれてるのだろう。
家族ぐるみでこのマンションへの引っ越しが決まり、それに伴って僕と美鈴の転校がなされた直後、急遽両親だけ仕事の都合上、元の伊豆に戻ったわけだけれど、僕たちは二人ともこの土地の学校にこのマンションから通う事を選んだ。
結果的に高校から比較的近いこのマンションを両親から与えられた形になるわけだけれど、親元を離れて羽を伸ばして暮らしたいというのは、僕たちの歳では誰もが思うハシカのようなものなのかな
「おかえりー。今日は遅かったね」
白いエプロンにウサギの顔のついたスリッパを引っ掛けた美鈴が、キッチンからひょこっと顔を覗かせる。
「ん。ちょこっと友達と話し込んじゃってね」
と、見ればのその美鈴の表情が固まっている。
「え? お兄ちゃんにお友達が!?」
またかよ。もういいよそのターンは。軽く妹をあしらいリビングのテーブルに向かう。 椅子の上へ鞄を放り投げ、その隣の椅子に腰を落ち着ける。背もたれに体を預けて伸びを一つ。ふぃー、今日はなんか色々あったなぁ、ぼっちゆえに単調でルーチンワークな日々を繰り返す僕の日常としては。おもむろにコーヒーカップを取り出してインスタントのコーヒーブレイク。そういえばポップコーンがまだあったっけな。お茶請けに貰うか、メシ前だけど。。
そして僕の思考は自ずと、明日華と呼ばれるあのメイドさんに行き当たる。どこかで見た気がするのにどうしても思い出せない、座りの悪さ。星宮と交わした言葉を反芻する。デジャヴュという現象の原因は必ずしも夢とは限らず、深層意識にまで刻まれた、過去の実体験がその礎となっているケースも少なくない、か。
「たまにはウチに連れてくればいいのに、そのお友だちさんも」
リビングの窓から見える夜景を眺めながらポップコーンをかじり、そんな益体もない事を考えていたところへ美鈴の声。
「んー。そこまでの仲でもないからな星宮は」
「そんな事言ってお兄ちゃん、高校時代のお友達は後々の人生で大きく響くよ?」
お前は僕の母ちゃんか。中学三年生のお前が人生を語るな。
「まあ機会があったらな。星宮には勉強を教えてもらったりお世話になってるしな」
「頭いい人なんだねその星宮さんて。お兄ちゃんにそんなしっかりしたお友だちが出来たなんて、美鈴は感無量だよう」
オタマ持ったまま腕組みしてウンウン頷く美鈴に少し破顔する。
「まあな。ま、女の子だからおいそれと家に呼ぶわけにもいかないけどな。向こうだって困るだろ」
「ほあっ!?」
そんなすっ頓狂な声と共に、ウンウン頷いていた美鈴の顔が鳩が豆鉄砲喰らったものへと早変わり。面白いなぁこの生き物。
「ほ、星宮さんって女の人だったの!? お兄ちゃんに女の人のお友だちが!? そこんとこ詳しく、KっWっSっKっ! 因みにあなたには黙秘権があります! なお、供述は法廷であなたに不利な証拠として用いられる事があります! そしてあなたは弁護士の立会いを求める権利があります! さらにさらに、もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ公選弁護人を付けてもらう権利がありますっ!」
「落ち着け、なんで僕は自宅で、しかも身内からミランダ警告を受けなきゃならないんだ!」
「だだだだってお兄ちゃんにおおお女の人のお友だちが! スタンドも月までぶっ飛ぶこの衝撃だよ!」
「だから落ち着け、取り敢えず鍋の火を止めるか兄への価格破壊な過小評価を止めるかどっちかにしろ」
驚愕の表情は絶賛継続中で速やかに鍋の火を止める美鈴。妹よ……お前は自分の兄を何だと思っているんだ……
「おに、おにおにお兄ちゃん、その星宮さんって人はどんな人!? 綺麗な人!?」
「んん? まあそうだろうな、クラスでも一番目立つグループにいるからな」
「そそそんな人がお兄ちゃんの彼女さんに!? 暦的にもお兄ちゃん的にも春が来たよ!」
あっはっは。コイツう。彼女じゃないけどな。
「最初で最後のモテ期が来たよ! お兄ちゃんガッツイちゃダメ! 狩りは狩る瞬間こそが要注意、焦らず慎重に、心ウキウキでもさり気なくだよお兄ちゃん!」
あっはっは。コイツう(怒)。モテ期って確か何度かあるんじゃないのかよ。なんで僕の場合はワン&オンリーなんだよ。
「お兄ちゃんは決してモテないタイプじゃないんだから! お兄ちゃんの場合は自分から壁を作ってるだけなの。自分から踏み込んでいくスキル皆無なお兄ちゃんに向こうから、それもそんな綺麗な人が来てくれたなんてハレー彗星並みの大フィーバーだよ!」
僕にとって恋人フラグが立つのは七十六年周期なのかよ。なんかこう引っ掛かるものが言葉の端々に見え隠れするけれど、僕を慮って言ってくれてるのだろう事は解る。
でもなぁ、アニメや漫画と違って実際に妹のいる身としては、妹に兄の恋愛事情に踏み込んで来られるとやおら話しづらいのが実情だ。妹相手に恋愛トークなんてリアリティ無さすぎて有り得ないだろ。巷は妹に夢見過ぎだ。
「別に勉強を教えてもらってるだけだよ。学校帰りに図書館でな」
「だからその時点でイレギュラーでしょ! 普通どうでもいい相手にわざわざ学校帰りに図書館で勉強なんて教えないよ! ん? でも図書館ってこんな時間まで開いてたっけ?」
「ああ、そのあとにさらに人と会ってたんだよ。星宮と一緒にな。鳳の屋敷の人なんだけど」
美鈴が一瞬、虚を突かれたような顔を見せる。
「……お兄ちゃんと鳳に接点なんてあったっけ?」
「ん~、今までは無かったんだけどちょっとな、事情があって明後日遊びに行くことになったんだよ、鳳の屋敷に」
この土地に越して間もない、それも中学に通う美鈴が真希那先輩の事を知ってるとは思えないけれど、そこまで言うこともないだろう。真希那先輩の事まで持ち出せば何を言われることやら。
美鈴は何やらまだ何か言いたげに、或いは何かを探るようにじっと僕の顔を覗き込んでいたけれど、わざわざ僕の方からキラーパスを出してやるほどお人好しでもないのだ。星宮のみならず真希那さんという綺麗ドコロまでご同伴なんて事がバレれば、それこそハレー彗星どころかビッグバン以来の快挙とまで言われかねない。
5
「ふううん、お兄ちゃんと鳳の屋敷って言うのも珍しい組み合わせだね。あそこには確か娘さんがいて、鳳高校に通ってるっていうのは聞いた事があるけど」
「ああ、そいつと星宮が友達なんだよ。図書館帰りに会ったっていうのもそいつの事だ」
章を跨いでまで、美鈴にとってはそんなに興味を引く話題だったのかな。ふと見れば、いつの間にかポップコーンも無くなってた。仕方なくコーヒーカップを口元に運ぶ。
「でも話の流れからすると星宮さんも一緒に行くんだよね? ならこれはもうデートなんじゃないのかなー」
キッチンに戻りながらそんな事を言う美鈴だけれど、鳳の話題が間にサンドイッチされたためか、さっきまでのハイテンションは落ち着いたようだ。
コーヒーカップを傾けながら窓の外の夜景に目を向ける。
美鈴にこうまで言われたからではないだろうけれど、星宮か。自然と話すようになっていたけれど、確かに才色兼備なヤツだよな。僕なんかと一緒にいる機会が多いのが不思議ですらある。図書館での勉強会も切っ掛けは誘い合わせてというものじゃなくて、たまたま立ち寄った図書館で隣の席にいたクラスメイトの彼女と挨拶程度の言葉を交わしたのが切っ掛けだった。
自然、話す機会も増えたわけだけれど、あれほどの美貌を持つ彼女を異性として意識していないなんて事はない。実際、桜並木を二人して歩いたさっきだって、ふとした折りに受けるスキンシップや、況してやフワッと漂う女の子独特の甘い香りなんかしてしまうと内心ドキマギしてしまう。
それでもなんでだろう、星宮とああして過ごす一瞬が、星宮と一緒にいる自分が、仮初めのようなものに思えてならないこの気持ちは。美鈴の言葉ではないけれど、他人に対して壁を作っている、踏み込めない自分がいる。まるでもう一人の自分が冷静に僕を見ていて、分不相応な相手に対して自分で自分にダメ出ししているように。
自分を冷静に客観視している、もう一人の自分の気配を感じる。
これも僕たちくらいの年齢ではありがちな、思春期独特の単なる自意識過剰に過ぎないのか、それとも星宮の言うような、気配過敏症のようなものなのだろうか。
そうだと言い切ってしまうには、あまりにも確固としたリアリティを持って、存在感を持って、自分の中に自分以外の気配を感じている。
6
「要くん」
翌日、金曜日の昼休み。
購買へメシを買いに行こうとした僕を呼び止めた真希那さんが、タタッと小走りに駆け寄ってくる。
「ゴメンね、明日の事なんだけど、もう一人追加で増えちゃいそうなの」
見れば、真希那さんの向こうにうぉっ、ま、眩し! ハゲが、ハゲがいる!
「同じクラスの龍宮くん。ウチのクラスの男子委員長なんだけど、話の流れで一緒に行くって言い出して」
少し困り顔の真希那さんの向こうから歩み寄ってくる背の高いハゲ。スキンヘッドってやつか。しかもハゲのみならずグラサンだよこの人グラサン。学校生活の中でグラサン。バンドでドラムでもやってそうだ。ソースはTOーYとNANA。
「君が神代くんだね。話を聞く限り、女子一人で行かせるには危なそうだと判断して私も同行しようと思うんだが、いいかな?」キラッ☆
うおう、話すたびに頭がキラメくぞこの人。しかも女子一人て。僕も行くことは前提なんだけど、そこら辺はフィルターが掛かってるのだろうか。
「いやそれは構いませんけど」
「何でも話を聞く限り、巨大なナマズがいるって話じゃないか」キラッ☆
「いや蛇ですけどね」
全然話聞いてないじゃないですか。それと逆光のポジションに立つのやめてほしい。
「うむ、危険である事には変わりはない、是非私も真希那くんと同行しよう」キラッ☆
「ゴメンね、ちょっと彼、生真面目なところがあって」
コソッと耳打ちしてくる真希那さん。いや多分これ生真面目っていうより僕の直感ですけど、ヘビ探索にかこつけて真希那さんとの放課後疑似デートを楽しみたいってだけだと思いますよ? 知的探求心に下心を持ち込むなんてけしからん。僕が言うんだから間違いない。
しかしあれだな、真希那さんクラスにもなると男子も気後れするのか、遠巻きに眺めるだけが関の山な所を、こうしてアグレッシヴに踏み込んでこれるとかスゴいものがあるなこのハゲの人。もしくは身の程知らずか。その風貌に反して律儀な性格であるのは分かるけど。制服の着こなしも決して崩しているわけではない、むしろ真面目な感じだからだろうか、グラサンにハゲという強烈なオプションを装備していても全く威圧的なものを感じないのは。紳士的ですらある。
「わかりました。あ、それとついでと言っては何ですけど、僕の方でも一人増えそうなんです」
そうだった、星宮の件を忘れるところだった。だけど星宮の事は真希那さんは既知だったらしく快諾してくれた。思えば星宮は一年の頃から委員長を務めていたわけだから、学校全体のイベントなんかでは真希那さんとは既に面識があったのだろう。真希那さんのクラスの委員長が真希那さんとこのハゲの人、というわけだ。……名前なんだっけ?
「神代くん」
真希那さんと別れてから購買で昼飯のパン購入、教室へ向かう途中で、今度は星宮に呼び止められた。
「ゴメンね、明日の事なんだけど、もう一人追加で増えちゃいそうなの」
またかよ。軽いデジャヴだ。見れば星宮の隣には同じクラスの氷室初音……だっけか。クラス内トップカーストの一人だけあって、美女が二人並び立つと壮観なものがあるな。二仏並座とはこの事か。
「やっほう神代くん、クラスでは滅多に話さないけど、優奈からたまに話は聞いてるよ?」
「そ、それでね、彼も行きたいって言ってるんだけど」
まるで氷室が余計な事を言い出すのを牽制するかのように割り込む星宮。ん? 彼? 見れば二人の後ろに背の低いメガネが。
「同じクラスなのに会話するのは初めてですな神代殿。星宮さんが行くというので拙者も是非。そして星宮さんの私服姿をカメラに収めるのであります」
……スゴいなこいつストレート過ぎる。カースト制度とかそういうの意にも介さないのか、ここまでいくと身の程知らずというよりむしろ大物感すらある。見た目で言うなら名作「勝手に改蔵」のチタン君なのに。
「あはは、何て言うか、ホントゴメン」
星宮と氷室の表情は困り顔というよりひきつっていた。かなりのビハインドだぞチタン君。
「ああ、僕は構わないけどな。真希那さんの方でも一人増えるらしいんだ。ハゲの人」
「龍宮さんの事かなそれって」
そうだ、それだハゲの人。で、このチタン君は何て名前だったっけ? 同じクラスって言ってたけど対人スキル皆無な僕の記憶にない。今さら名前聞くなんて出来ないしな、いいかチタン君で。それでも氷室の名前は辛うじて覚えてるんだから僕の記憶力も現金なものだ。人目を引く外見という記号も、こうしてみると強烈な武器なんだなあ。
「全長二〇メートルの巨大ミミズ、往年の川口浩の探検隊シリーズを彷彿とさせますなあ」
「いやだから蛇だって」
何度デジャヴを体験させる気だチタン君といいハゲ宮さんといい、メインの蛇を蔑ろにして同行する女の子にうつつを抜かすとは何事か。僕に言われたらおしまいだぞ?
斯くして、ヘッポコパーティによるヘビ探索ツアーは決行される運びとなった。
チタン君やハゲの人以前に、初号機が介入する段階で真希那さんとのなんちゃってデートな雰囲気は望むべくもなく、もうほとんど成り行き任せな感があるけどねハハ。
特筆すべき点と言えば、教室に戻り残りの授業を終えた帰り際、教室後ろのロッカーでチタン君の名前を確認したところ池端と書いてあった点だろうか。
すげえ、読み方によってはチタン君じゃないか、当たらずとも遠からず。ブラボー! あっはっは。
7
翌日の土曜まで特に何事もなく過ぎ去り、ついに当日を迎えた。
僕と星宮は鳳の屋敷からそう遠くない場所に家があるけど他の三人は電車通学だ。一旦帰宅してというのも面倒なので学校帰りにそのまま向かおうという案もあったけれど、そこは流石の真面目な委員長・ハゲ宮さんの提案により帰宅後、私服に着替えてからと相成り、鳳の屋敷の麓にあるカフェリーフで待ち合わせとなった。
先日、星宮と二人で真綾との待ち合わせ場所として立ち寄ったカフェだ。
店内に入るとなぜか屋内なのに太陽が、じゃない、既にハゲ……龍宮さんがいた。
ガラス張りの通りに面したカウンター席に座っていたけれど、そこだと太陽からの反射がハンパないな。
「やあ神代君」キラッ☆
「どうも。早かったですね」
「いや私も池端君も今来たところだよ」キラッ☆
ん? ああ、見れば龍宮さんの向こうにチタン君の姿が。恒星のあまりの輝きに衛星が霞んでしまって気付かなかったよ。
「池端ももう着いてたのか」
「御意。神代殿は星宮さんと出掛けることはよくあるのでありますか?」
「いやないない。今回のだって真希那さんと話してた事が広がった成り行きみたいなものだよ」
御意て。
「真希那君とは出掛けることはよくあるのかい?」キラッ☆
「いやないですよ、そっちも話の成り行きです」
君たちはホントにストレートで羨ましい限りだよ。あれだけの綺麗ドコロたちに対して気後れするとかそういうの無いんだろうか。取り敢えず池端の隣の椅子に座る。パンツとジャケットを黒でバシッと、でも然り気なくナチュラルに決めている龍宮さんと、意外にもストリート系のファッションが何故かサマになっている池端。こうして二人並ぶと異色の組み合わせだ、龍宮さんなんてもうNANAでドラム叩いてる人にしか見えない。それにしてもよく光るなこの人の頭、池端を遮光板としたこの座席取り(ポジシヨニング)は正解。
「巨大ヘビ探索、童心に返るものがありますなあ」
おお池端、意外にも本来の主旨を忘れていないじゃないか。
「まあ、まず空振りに終わるだろうけどな」
「いや神代殿、あの湖には以前にも二メートルの芋虫が目撃されたとか、何かと曰くがある場所なのですぞ」
キモッ。何だよ二メートルの芋虫って。芋虫ってだけでもアレなのに、グロいにも程があるだろ。
「鳳の屋敷の上空や箱根エリアでは、一部でUFOらしきものの目撃情報も噂されてるらしいね」キラッ☆
「それは拙者も聞いた事がありますぞ! 神代殿、これはいよいよMMR立ち上げの時ですな!」
「あっはっは、嫌だよそんな謎チーム、企画倒れが関の山だって。川口浩の探検隊シリーズだって〝洞窟に潜む巨大ムカデを追う!〟って趣旨だったのに、クライマックスで辿り着いてみれば洞窟の天井にゲジゲジが這ってるだけだったのを、壮大なエンディングテーマで無理やり締め括っていたじゃないか」
「夢がないでござるぞ神代殿、〝巨大化したヘビは、人類終末のシナリオのエピローグだったんだよ!!〟とかやってみたいでござる」
ふははは出たよMMR。じゃあ僕はその後ろで〝な、なんだってー!!〟とか驚きリアクションに全力投球してる配役をキボンヌ。それとエピローグじゃなくてプロローグな。物語終わっちゃってるじゃねーか。
「お待たせ!」
真希那さんの声に振り向くと、星宮と真希那さんのツーショットに思わず見惚れる。二仏並座はこっちだな。袖の一部を透け感のある生地で切り替えた純白のワンピース姿の真希那さんは、動くたびにふわりと揺れるフレアスカートが膝上あたりまであるにも拘わらず、脚が長いから脚の露出度が高く見えるという離れ業を実現。
そもそもウエストでキュッと結んだ果実のような印象を与えているリボンを見るに、ウエストの位置がその高さですか。日本人離れしたスタイルですな。
対する星宮は薄いさくら色のレースのタイトなミニスカートに黒のテーラードジャケットを羽織ったシャープな印象。OLの制服とかホントに似合いそう。真希那さんに勝るとも劣らないプロポーションにそのコーディネートを組み合わせると、なんか大人びて見える分だけセクシーだ。
「初めまして、言伝真希那です。よろしくね!」
この中では初対面であろう、真希那さんが池端に笑顔を向けるが池端、首まで真っ赤になってるぞ。何とか挨拶を返せてはいるがその気持ちは分かる、萎縮してしまうよな、才色兼備として鳳高校で名を馳せている真希那さんを実際に目の当たりにしてしまうと。
あの星宮に対してあれほどアグレッシヴなオフェンスを見せるお前でもその有り様か。
「二人一緒に来たのか?」
「真希那さんとお店の前で一緒になったのよ。それで昨日の夜まーちゃんから連絡があったんだけど、このお店の前まで迎えに来てくれるって言うの」
「え? 鳳のお屋敷は今日私たちが行くことは知ってるの?」
と真希那さん。
「ああ、この前僕が星宮に話した時、鳳の真綾……さん? とも会って話したんですよ」
「ふーん……そっか」
何か思うところがあるのだろうか、少し考える素振りを見せる真希那さん。ともあれ、これで全員が揃ったわけだ。それぞれアイスコーヒーだとかアイスミルクティーだとか飲みながら過ごしていたわけだけれど、こうしてみると何だかなあ、真希那さんの思い付きで始まった事が何やら大事になってる気がしないでもない。と、そこへ星宮のスマホが着信を知らせるバイブレーター。
「あ、来たみたいね」
ガラス張りの外へ目を向けるとブハッ! 思わずコーヒー吹き出しそうになったのは一台のリムジン、それもダックスフントのように胴の長いアレだ、確かストレッチ・リムジンってヤツだろうか。ヤバイだろ、ホントに大事になってるだろコレ。あんなモンで迎えに来られてやる事と言えばヘビ探索だぞ?
店の外へ出てみると、例の明日華さんに開けてもらったドアから降りてきた鳳真綾が駆け寄ってきた。
「星宮さんお待たせしました。明日華に話したらお迎えに上がる事になりまして」
「わざわざゴメンねまーちゃん、ありがとう」
旧知の間柄、笑顔と共にハイファイブっぽいスキンシップを交わす二人。
「ま、真希那さんお初にお目にかかります、鳳真綾です。お会いできて光栄です! 魔弾の射手のアガーテ役、素敵でした!」
「初めまして真綾ちゃん、言伝真希那です。よろしくね」
あの真綾が緊張してるよ、ちょっと赤面してるぞ。チタン君に続きお前もかエヴァ初号機。と、その初号機は笑顔をこちらに向けて
「こんにちは甚大さん!」
……何かが違う。放たれる言葉のスペルは間違っていないのに、イントネーションに一抹の違和感を感じる。クッソ! この世界が小説だったならば、この初号機の悪意が看破できたのに!
「今日はお世話になります」キラッ☆
真綾への挨拶に続き年長の明日華さんに一礼する龍宮さん。このケースでは主が真綾なのだから本来その必要はないのだろうけど、そこは常識人の性なのだろう。
「いえ、お構い無く。くつろいでいって下さいね」
あの龍宮さんの太陽拳を正面から受け止めても柔らかい笑顔は微動だにしない。訓練された者の所作を感じる。
コクピットからはパーテーションで区切られた車内に乗り込むとテレビモニターはあるわカクテルキャビネットはあるわ、もはやちょっとした動く部屋だなこれ。
「ふむふむ、これ元はキャデラックなんですな」
チタン君の問いに明日華さんが答える。つかそのしゃべり方って何キャラだよ今更だけど。
「ええ、それでもかなり独自にカスタムを加えてますけれど。日本人がイメージするリムジンはハワイ辺りでよく見かけるリンカーンタウンカーのリムジンじゃないでしょうか。元になるリンカーンタウンカーの真中を切断して、別に造った胴体をはめ込んだものがそれですね。中にはトランクスペースを改造してジャクジーバスにするなどの変り種もあるくらいですよ」
「私もまーちゃんちに遊びに行く事はたまにあるけど、これは初めてですね。高級車って感じ」
「そうでもないですよ。例えば前述のリンカーンベースのリムジンの場合でも、元のリンカーンがおよそ$5万~$6万くらいで、出来上がったリムジンがおよそ$7万~$8万くらいです。日本円換算で1000万円もしないですよ。そもそもリムジンはオーダーメイドによる車体の形状の事ですから、ベース車両によっていくらでも変わります。だいたいの改造費の相場は200万前後からといったところでしょうか」
いや充分高級車ですよ少なくとも僕にとっては。しかし乗って初めて気付いたけれど、驚くほど振動がなくて静かだなこれ。この辺はホイールベースの異常な長さがもたらす恩恵もあるのだろうけれど、明日華さんのドライビングテクニックによるところも大きいのだろう、鳳の城へ向かうワインディングを慣れたもので器用に振り回していく。
それにしても端から見る城の規模に反して、城へと続く石畳の道は意外に狭い。クルマ二台がようやくすれ違える程度ってくらいかな。
「日本では一言で城と表現するものでも、向こうではBurgとSchlossって表現が分かれていて、鳳の城のモデルになってるホーエンツォレルン城はブルグに該当するのね。シュロスは王侯貴族の煌びやかな宮殿を指すけれど、ブルグは騎士たちの武骨な城塞を指すのよ。同じドイツの三大名城でもノイシュバンシュタイン城は見るからにキラキラの貴族が住まう雰囲気の宮殿で、ホーエンツォレルン城とハイデルベルグ城は戦う拠点という趣を感じさせる砦。見た目の煌びやかさより実用性を追求しているのね」
ありがとうユナペディア。しかしそうか戦う城塞。男の城って感じだな。モデルになったホーエンツォレルン城そのものが当然ながら攻め込まれにくい構造で造られている事に由縁があるのかな。
「ええ、そうは言ってもドイツにある本物のそれとは違い、かなりアレンジしてダウサイジングした造りになってますけれどね。本家の方は鳳の屋敷のようにコの字型にはなってませんし」
と明日華さん。
「……所々壁が崩れていますね」
それまで真綾の質問責めにあってた真希那さんが、観察するように呟く。実を言えば僕もそれは気にはなっていた。
「お見苦しい所を。先日の台風で修理がまだ追い付いてないんです」
明日華さんの回答は微妙に回答にはなっていないけれど、まさか中世の戦いの歴史を忠実に再現した、リアリティ追求や演出のためでもあるまい。それでなくとも充分日本とは思えない雰囲気を醸し出す道を駆け上がり、僕たちを乗せたリムジンは鳳の城へと向かっていく。
8
城、もとい屋敷の正面に横付けにしたリムジンから降りてみれば、デカイ。
やはり麓から遠目に見るより、こうして間近にしてみれば圧倒的ですらあるその建築物のサイズに、言葉を失う。人間、圧倒的なものに出会うと原始的な形容詞しか口をついて出ないという好例か。
城の反対側、振り返るようにその周囲を見渡せば、縁まで行って見下ろせば話はまた別なのだろうけれど、この位置からでは視界のフレーム内に入る人工物が一つもない。それはつまり標高の高さを意味している。流石は別名「天空の城」。
明日華さんに連れられ屋敷へ進む僕らの後ろで、恐らくはガレージか何かに納めるためだろう、黒服の男に預けられたリムジンが音もなく静かに動き出す。
玄関と言うのも憚られるような大きさの入り口のドアを、二人のメイドさんが会釈と共に両サイドから開けてくれて僕たちは中へと進む。なんというかもう異次元だなこれ。正面には左右の階段が緩やかなカーブを描いて二階へと続き、僕たちのいるロビー(?)の左右には長い回廊が続く。チタン君が周囲をキョロキョロして何かを探しているようだけどアレだぞ、下駄箱とかないぞ?
「どうぞこちらへ」
明日華さんに促されて正面の階段へ向かう途中に気付いたけれど、地下へと続く階段もあるのか。
「そちらは宝物室になってます。二階の遊戯室でいいのね真綾?」
「うん、あとお菓子も」
二階へ向かう階段の手前で、右手側にかなり奥まで続く回廊の先に、あれはステンドグラスだろうか、外光を受けて多彩な色彩を見せる空間が見える。
「あちらは礼拝堂になってます。本家のホーエンツォレルン城ではカトリックとプロテステントの二種類の礼拝堂がありますが、ここでは一つのみですね」
礼拝堂て。〝そちらがリビングになってます〟的なノリでその名前が出てきたけれど、礼拝堂ってあの礼拝堂だよな? 普通に人が暮らす敷地内に礼拝堂があるって何それ?
目的の部屋につくと真綾が部屋のドアを開け、続いて中に入ってみればそこでまた度肝を抜かされた。
「じ、神代殿、あの壁一面のスクリーンは何インチですぞ!?」
いや日本語色々おかしいから今更だけど。それとアレはもはやインチという単位で表現する域をゆうに超えている。あと落ち着け。
「部屋の中にダーツはともかく、ビリヤード台もあるのはスゴいな」
いえ龍宮さん、ビリヤード台どころかテニスコートが何面入るかなってレベルですけどねこの部屋。あとここでは龍宮さんの太陽拳も霞んでしまう不思議発見。
「わおっ、見て見てウィンチェスター!」
ちょっ、真希那さん鉄砲向けないでください壁に掛けてあるライフルこっちに向けないで! この家にある時点でそれ多分イミテーションじゃないですから!
「まーちゃん、この部屋少し狭くリフォームしたのね」
「はい、いろいろ持て余し気味だったもので」
はあっ!? これでか!?
突っ込みドコロ満載☆積載オーバーのこの部屋で、しかし僕が真っ先に気になったのはさっきの巨大スクリーン、その前にちょこんと鎮座しているゲーム機。
まさかあの巨大スクリーンでやってる事がゲームなのか? リムジンに乗ってヘビ探索に来た僕たちが言うのもホントなんだけど、世の中お金持たせちゃいけない人種ってのはいるなあ。しかしこの巨大スクリーンでゲームなんぞやろうものなら3Dとかの小細工機能いらないだろ、ホーテッドマンションとかエースコンバットで充分失神できるレベルだぞこの大迫力は。
「失礼します」
ドアを開けて入ってきたメイドさんが、台車に載せていたお菓子だとかジュースだとかを部屋の比較的窓に近い位置にあるテーブルに並べていく。え? なんだろうこれ。これも一種、〝友達の家に遊びに行ってお菓子やジュースをいただきながらゲームやって遊びました〟みたいなカテゴリーに入るのだろうか? 字面だけみれば確かに間違いはないんだろうけど何かが違う。メイドさんが押してきたあの台車なんて、ホテルでルームサービス運んでくるアレだぞ? やってる事の一つ一つは同じでも、その一つ一つのスケールがいちいち規格外すぎてアメリカのホームコメディのようだ。シットカムって言ったっけ?
取り敢えずソファに座り、テーブルに並べられたお菓子でも取ろうとした、その瞬間。
ドカァァァァァン!!
うおっ! 何が起きたかと辺りを見回せば、あの大画面にマリオカートの見慣れたコースが。真希那さんと星宮、そして池端が、さっきから真綾とゲーム機の前で何やら楽しげに話してたかと思えば、僕が色々とカルチャーショックを受けて圧倒されている間にプレイしていたらしい。
「ちょ、ドッスン先輩邪魔!」
星宮さんは運転すると豹変するタイプかもしれない。
「池端くんドコ!? 今すぐ逢いたい!」
真希那さん情熱的なセリフですけど、スター音がテレッテレッテレッテレッ聞こえてくるのは気のせいですか?
「ふぬう、拙者のヒール&トウと高速シフトダウンによる溝落としを、今こそ見せる時なのです!」
いやねーし。それ以前にチミ、走ってる時間より弾き跳ばされてる滞空時間の方がトータル長くね?
それにしても大音響がハンパない。
しかもこれサラウンドなのか、シーンによっては追突音が後ろから聞こえてくる。実際プレイしてる三人も時折振り返ってるじゃないか。ホラまた。
「ハハハ、ウチのお嬢様たちはお転婆だなあ」
僕に続きソファについた龍宮さん。
「神代さんはやらないんですか?」
ソファ越しに、プレイしている三人に混じってキャッキャウフフやってた鳳が振り返り、僕に振ってきた。
「フフ、僕は秘密兵器だからな。何しろ中学時代サッカー部で顧問の先生から〝お前はウチの秘密兵器だ〟と言われて三年間、本当に秘密にされ続けた実績を持つステルス兵器だ」
「とんだ光学迷彩兵器ですね」
「だろ? だいたい僕がハマるゲームなんて古いだけじゃなくマイナーすぎて誰も知らないんだよ。ウィング・ウォーなんて神業レベルだぞ? ハリアー一機でアパッチからYAKから撃墜してトーナメント優勝、その後のボーナスステージで登場する反則級パラメーターのラスボスUFOですら七十パーセントの確率で撃墜するぞ?」
「ありますよ」
「あるのかよ!?」
マジか。戦闘機や戦闘ヘリの操作挙動から残弾数まで、やたらリアルなわりに画像が殆ど岩石ポリゴンなアレ、あるのかよ……。
「あ、じゃあこれやってみてください神代さん」
テーブル上のノートPCを何やらカタカタ始めたかと思うと、ツイっとそのPCを僕へ向けてくる。ははあ、教科別のクイズ問題のアレね。すかさずカタカタ打ち込む僕の後ろに回り込んだ鳳が覗き込む。
★現代文問題
Q1「あたかも」を使って短文を作りなさい。
A 「えっ!? 鷲とトンビって生物学上は同じ仲間なの!? あ、鷹もそうなの!?」
Q2「ないがしろ」を使って短文を作りなさい。
A 「連邦軍に赤い彗星はいないが白い悪魔は存在する」
Q3「うってかわって」を使って短文を作りなさい。
A 「彼の人生は接待ゴルフでホールイン・ワンを打って変わってしまった」
吹き出す鳳。
「わざとですよね!? わざとですよねこれ!? ……もう、とっさにこういうの出てくるって逆に凄いですよ、今PC受け取ってからノータイムでしたよ?」
「神代くんは頭の回転が速いんだろうな」
鳳と龍宮さんから何やらお褒めの言葉を頂いてるけれど、かつて実際のテスト問題で〝短距離走で用いるスタート方法は何か〟という問いにロケットスタートと書いて提出した黒歴史があるのは黙っていよう。
それはそうと、真に頭の回転の早いツートップ女神さまはと目を向けると……うわっ! あれヤバイだろ、レインボーロードに突入してオーラスを迎えたようだけど、あれをこの映画館並みの巨大スクリーンで再現って、もうなんかサブリミナル映像使った洗脳ビデオのように大変な事になってるぞ!? どうも静かだと思ったら三人とも無言になってるし! 星宮なんて上体がユラユラと八の字無限軌道を描いていらっしゃる。デンプシーロールでも繰り出すのか、頭の回転が早いってそういう意味じゃないですよ? チタン君に至っては何やらブツブツ呟いている。
「だ、大丈夫かチタ……池端」
「銀色のカマドウマが、銀色のカマドウマが攻めてくるでござる……!!」
うん、お前ちょっと休め。
「真希那さん大丈夫ですか?」
「ふふ、真希那の希は樹木希林の希」
どのキですか。でもちょっと可愛い。
三人ともソファで少し休めとこう。そう言えばその昔、第二次世界大戦の時は、超能力研究に手を出したアドルフヒトラーによってAHSに集められたエリート達が特殊な訓練を受けていたとは聞くけれど、それはちょうどこんな感じだったのかなあ、なんて益体もない事を思いました。
僕たち何しに来たんだっけ?
9
トイレへ立ち寄るついでに城の中をブラブラ散策してみたけれど、なるほどホーエンツォレルン城はノイシュバンシュタイン城とは違い、防御力の高い武骨な城と聞くように、この城もその外観は戦闘用の拠点という赴きを呈しているけれど、中はやはり城と揶揄されるだけあってきらびやかな印象を受ける。 尤も僕が比較対象のノイシュバンシュタイン城を知らないからその差が解らないというのもあるけれと。
所々に掲げてある鷲だか鷹だかのエンブレム、これが以前、星宮から聞いていたプロイセンの家紋なのだろうか。
そのエンブレムの下に掲げられた、三股の槍のような、矛のような紋章。更にそこに刻まれたHalberdの文字。何だろうこれ。ハルベルド? ハルバード?
城のちょうど北側に面した窓から、城の西側を眺めてみる。
この位置では建物自体が障害物となってよく見えないけれど、その方向に拡がる森の奥に、確か件の湖があったはずだ。例の〝現場〟が。
あの、異様なボディサイズを誇る、蛇。
我が目のの遠近感を疑う程に巨大な、狂った縮尺の生物。
真希那さんに見せられた、見間違いを疑う余地のない、あの鮮明な画像。
考えてみれば、最初に真希那さんがその画像を発見してから逆算すれば十日ほど経過しているわけだから、今なおこの地に〝それ〟が留まっているとは考えにくいけれど、地元でそんなデタラメサイズの蛇が発見されたなんてニュースも聞かない。
ならばやはりあの画像は見間違いとして結論付けるのが本来常識的なのだろうけれど、あの鮮明すぎる画像がそれを許さない。ならば今こうして僕らが過ごすこの城の敷地内に、今なお存在しているのだろうか。アレが。
今更だけど、そこに考えが行き着いて、背筋を悪寒が走る。それでも辛うじて落ち着いていられるのは、威圧的とも言うべきこの城塞の中に身を置いているからこそなのか。
「おや、神代殿も城内探索ですかな?」
徒然とそんな事を考えていたところに池端が。なんだ、再起動したのか。
「他の二人は大丈夫か?」
「真希那先輩は龍宮殿と鳳殿の三人で雑談してるのであります。……星宮さんはリムジン運転してたメイドの人とチェスやってるのであります」
大丈夫そうだな。しかしこいつの言葉もキャラがブレまくってるどころか、〝殿〟と〝先輩〟と〝さん〟付けのボーダーラインが全く解らない。どういう定義なんだろうこいつの中では。そしてなるほど、星宮が給仕かなんかでやって来た明日華さんとチェスに興じちゃってるもんだからこうしてブラブラ出てきたと。
「神代殿もやはり宝物室が気になったのですな?」
「いやないから。アレか? ここ来る途中にあった地下へ通じる階段か? やめとけお前、そんな人んちの宝物室に」
いや人んちの宝物室ってのも何だかな、普通ありませんから民家に宝物室。
「ドイツの古城の地下深くに眠る宝物、インディ・ジョーンズの血が騒ぐのであります! では後程!」
まあ怒られるの僕じゃないし別にいいんだけどここ日本だから。それとお前、川口浩やMMRじゃなかったのか、設定もブレてるのかよ。
遊戯室へ戻ってみると池端の言う通り、ビリヤード台の脇のスツールに腰掛けた星宮と明日華さんが、ハイテーブルを挟んでチェスを打っていた。漫画やアニメの描写ではなく、実際の駒を使ったオンボードでプレイするチェスを見るのは僕は初めてかもしれない。
「星宮様はオープニングではd4を上げてからのレティ・システムが必勝パターンのようですね」
「ボビー・フィッシャー曰く〝Best by test :1.e4〟(初手e4は最善手であると実戦で証明された)とは言いますけれど、その通り私はd4から起動させる方がしっくり来ます。でも毎回明日華さんのクィーンズ・ギャンビットによるカウンターに苦しめられてますね」
「チェス棋士シュピールマン曰く〝Play the opening like a book, the middle game(序盤は本のように、中盤は)
like a magician,(奇術師のように、) and the endgame like a machine.(終盤は機械のように指しなさい)〟"……至言です。何事も自分の定石を持つことは大事な事ですよ。星宮様は苦戦しているとは言いますけれど、星宮様は毎回、その都度、前回の敗因を修正・アップデートされて来るその速度が驚異的です。今だってしっかりとクィーンズ・ギャンビットの二つのポーンによる中盤支配を、ファランクスで迎撃する形を既にモノにしています」
うん。何を言ってるのかサッパリ解らない。
でも一つだけ会話から推測できるのは、二人はこれまで何度かこうして対戦していて、そして驚くべきはあの星宮でさえ、明日華さんには一勝も挙げられていないって事なのか? あの星宮が? 底が知れないなこの明日華さんて人。
超人二人が頭脳戦を繰り広げるビリヤード台をやり過ごして、三人がいるソファへ向かう。こちらはデザートタイムのようだ。色取り取りのカラフルなスイーツが並ぶテーブルに真希那さんと鳳、そして龍宮さんが談笑している。
「大丈夫ですか真希那さん」
「ふふ、ありがとう。大丈夫よ、ちょっとピンクのワニが見えただけだから」
……大丈夫ですか真希那さん?
「ワニといえば、例のヘビの事なんですけれど、見に行かないんですか?」
「それな。う~ん……蛇ね」
あれ? 気のせいかこの前までのモチベーションが下がってる気がしないでもない。
「神代さんがお友だちに会えないのは残念ですけど、私はこのままお遊びタイムでもいいと思いますよ! 神代さんもお一つどうぞ!」
とエヴァ。スイーツのお皿を一つ僕に勧めながら。まあ、真希那さんフリークのお前にとっては蛇はグリコのオマケみたいなものだからな。全く、あんな生物学上の大発見かもしれないUMAをオマケ扱いとか、チャールズ・ダーウィンに謝れ。
尤も鳳の場合、そもそもヘビの存在自体に懐疑的だからというのもあるのだろうけど。
「少し暗くなり始めたし、実際にそんな大蛇がいるとしたら危険だ。私も今日探索するのはやめた方がいいと思うな」
と、頭に自前の光源を持つ龍宮さん。でも言う通りここで遊んでいてそれなりに時間が経過しているのは事実だ。まあ僕はオフタイムにこうして真希那さんと出掛けている事自体が僕にとってはファインプレイみたいなもので、蛇はグリコのオマケみたいなものだからどっちでもいいんだけど。その真希那さんも楽しそうに過ごしてるからいいや。 ……ん!? なにこれおいしい!! なんかもうヒルトンホテルとかで出てきそうなスイーツをフォークで一切れ食べてみたら、リンゴの甘みとカスタードクリームとバニラアイスのハーモニーで口の中に宇宙がビッグバン!!
「アプフェルシュトゥルーデルですよ。明日華の作るデザートがあれば、私はあと十年は戦えます」
何とだよ真・クベ。しかしこれは、確かにいいものだ。
「アプフェルシュトゥルーデル日本でも売られてるけど、その殆どはウィーン風。でもこれは本場ドイツのバイエルン風なのね、ふちが高いパンの中でミルクや生クリームを掛けながら焼いてるものね」
その名前を舌を噛まずに言える真希那さんはすごいと思います。
「こっちのカイジーシュマーレンも素晴らしい、レストランで出せるレベルだね」
龍宮さんが手にしているお皿に載せられているのは、ひときわカラフルな一品。キャラメルを掛けたパンケーキ、その周りにイチゴの入った赤いソースや白いクリームが入った小皿が添えられていて、なんかマジカル! 龍宮さんの頭の金色のキラメキが健在だったら、もうミラクル!
「明日華さんて何でも出来るのね、パティシエになれそう」
「シュタイアーマルク州のグレープフルーツジュースが合いますよ真希那さん」
鳳がグラスを一つとって真希那さんに勧める。そのなんとか州のグレープフルーツジュースは巷のそれと何か違いがあるのだろうか。でも確かに明日華さんのスキルには脱帽だ、明らかに他のメイドさんと比べて鶏群の一鶴だよ。城に来て気付いたけれど、明日華さんのメイド服だけ他と違って右肩にエンブレムみたいなものがついてるもんな。アルファベットのCを二つ横に並べた、その左側のCだけを逆向きにしたような、赤い紋章。シャネルのロゴに見えなくもないけど、やっぱり赤は隊長機なのかな。もうヘビ探索という当初の目的を忘れそうなスイーツパーティーになりつつある。
規格外なサイズの蛇。
気にならないといえば嘘になるけれど、隣に座る真希那さんの、柔らかいスカートから伸びた長い脚の描く脚線美の方が、よっぽどドキドキするのであります。
「……やられた。明日華さんのそのルークでチェック・メイトですね」
「正確にはバックランク・メイト、ですけどね」
決着がついたらしい明日華さんと星宮のそんなやり取りが聞こえたと同時に、ドアから入ってきたのは池端とバーテンダーのような服装の……執事?
歳は明日華さんより上、二十代後半くらいだろうか、ルームサービスの台車で新しいドリンクをテーブルに並べてくれている。
「あっ西園寺、私のメロンソーダにさくらんぼ入ってない!」
鳳、さくらんぼて。ジンジャーやペリエの中に一つだけメロンソーダがあるのはお前のお気に入りだったからか。言われてその西園寺さんという執事は、アルカイックスマイルを浮かべてメロンソーダのグラスを取り、目線の高さに掲げて見せる。
「ご覧くださいお嬢様」
と、二本の指をグラスの底にあてがったと思えば、パッと離したその途端にグラスの底に出現する、真っ赤なさくらんぼ。
「「「「おお~~!!」」」」
予期せず繰り出されたテーブルマジックに、一同から思わず歓声が。
「え? 今のどうやったんですかね?」
すると真希那さんがコソッと耳打ちしてくれた。
「あれは光の屈折を利用した錯覚の一つよ。本来十円玉でやるのがオーソドックスだけど、その応用だと思うわ。見事なのはグラスを傾ける角度と、グラスを反転させた事に気付かせない手際の良さね」
ほえ~。あらかじめ用意したシナリオだったのか、それともたまたま鳳の位置からは光の屈折でさくらんぼが見えなかったからこそ、とっさに繰り出したアドリヴだったのか、何にしても今のは見事だった。
どうも西園寺さんのこの手のマジックは鳳のお気に入りのようで、普段から鳳に披露してあげてるみたいだな。その後の鳳と西園寺さんのやり取りを聞いていると。
「真希那さん、替わりますか?」
ビリヤード台の隣のテーブルでのチェス戦から、星宮が真希那さんへバトンタッチ。
「強いですよ、明日華さんは」
「ふふ、楽しみだわ。宜しくお願いします明日華さん」
「こちらこそ宜しくお願いしますね真希那様。真綾からあなた様のお噂は聞いています」
おお。頂上決戦第二ラウンドか。なんかこの二人は牌から愛されてそうなキャラクターなので、ルールをあまりよく分かってない僕でも勝負の行方は気になるな。
何だよ牌って。
テーブルでは西園寺さんが鳳にせがまれて、引き続きいくつかマジックを披露させられていた。星宮や龍宮さん、そして池端にもウケがいいようだ。
「スゴいですね、それだけネタを持ってると、こういう場では便利ですね。僕も覚えようかな」
「じ、神代さん、マジックというのは披露する相手がいて初めて成立するものです。神という存在も観測者である人間がいなければ神は神として認知されないように、マジックもまた披露する友達がいなければそれはただのモノローグです」
あっはっは、コイツぅ。真綾めなんて的確なことを。デコピンしちゃうぞ目を食いしばれ。
「全てにネタを持っているわけではないのですよ。披露した中には手元にある物を使って行うマジックに紛れ込ませて、マジックとはまた別のものを織り混ぜているのです」
「マジックとはまた別のもの、ですか?」
西園寺さんの回答に龍宮さんが問う。
「ええ。いわゆる暗示、ですね」
暗示? 暗示って、あの催眠とかあの手の類いの? じゃあ今まで僕たちはその暗示に掛かってたケースもあったわけなのか? マジックだと思ってたものに紛れ込まされた形で?
「暗示っていうのはそんな簡単に実行できるものなんですか?」
星宮もここは気になるようだ。
「強弱にもよりますが、簡単なものならその辺のアイテムで充分可能です。元より人間の脳はフラットにものを観測することの方が難しい構造になってますから。バーナム効果にしろシミュラクラ現象にしろ、また補色残像現象にしろ正常性バイアスにしろ、これらの誤認による錯覚現象が引き起こされるメカニズムが示す通り、脳のメカニズム自体が自分から進んで騙される、或いは自分に都合よく自分を騙すように出来ています。ある程度強力な暗示でさえ、その気になれば水とビーカーと僅かな光さえあれば可能ですよ」
おお、なんか怖いなそれは。そう聞いてしまうと西園寺さんの言動の一つ一つが何かしら別の意図を持つような、何かしらの伏線のように勘繰ってしまう。
口許に指を当てて思索顔の星宮。多分今まで披露されたものの中で、何がマジックで何が暗示だったのか、そして暗示ならばそれは果たしていつから、どのタイミングで仕掛けられていたのか、高速でプロファイリングしているのだろう。
「……驚きました。いつから仕掛けられていたのか、気付きませんでした」
まるでシンクロニシティのような明日華さんの言葉に振り向けば、チェスはちょうどミドルゲームに差し掛かっているようだった。
「これはリーガルズ・トラップですね。ビショップで真希那様のナイトをピンしたあと、そのナイトを飛ばしてくるものだから、ついそのままクイーンを取ってしまいましたが、思えばその時点で真希那様の戦略ロジックに嵌まってしまっていたのですね」
「ふふ、サヴィエリ・タルタコワ曰く〝The winner of the game is the player(勝者とは、最後から2番目に)
who makes the next-to-last mistake.(ミスをした側だ)〟これくらいの罠でないと仕留められないと思いました」
「テーブルマジックのように見事な手際でした。意外とかなりアグレッシヴな打ち筋をなさるのですね」
「マルセル・デュシャンはこうも言ってますよね。〝チェスはスポーツ。それも暴力的なスポーツだ〟と」
「え!? 明日華が負けたの!?」
「……これはエニグマティックですね、今度は私が驚かされる番です」
二人の会話を聞いて、鳳に続き西園寺さんも驚嘆の色を隠せない。
それはつまり明日華さんのチェスの戦略技術の高さを裏付けているのだけれど、フフ、我らが真希那さんはその上を行くのだよ。……なぜ僕が誇らしげか。
「盤面的にはミドルゲームですが、真希那様のもう一つのナイトで詰み(チェツクメイト)、ですね」
「はい。次やっても同じような結果になるとは思えませんけれど。ただそろそろ時間も時間ですし、残念ですが再戦はまたの機会になりそうですね」
10
夕食に誘われたものの家で待つ美鈴のこともあり、今回はこれでお開き、帰る流れに。
蛇探索という当初の予定からは大きく逸れたものの、学校以外で人と会う事自体レア体験な僕にとっては、アームストロング船長の踏み出した一歩と同じくらい貴重なイベントだったな。それと結局やり損なっちゃったけど、次に来た時には是非ともウイング・ウォー(例のゲーム)をやらせてもらおう。あの大画面でアパッチのローターの、あのモーターのような独特の駆動音はさぞかしアゲアゲな気分にさせてくれそうだしな。
このバカみたいな大画面では是非ともハリアーよりアパッチで試したい。
「因みに鳳、スカイ・ターゲットなんかはあるのかお前んち?」
「あのひたすらバンバン撃つやつですよね? 弾数無制限の。ありますよ?」
ホントかよ!? ウイング・ウォーみたいにマイナーなレトロゲームがあるので、もしやと思って聞いてみたら普通に返された。
「戦闘機のシューティングものという括りで、エースコンバットをスルーしてスカイ・ターゲットへいく辺りが流石は神代さんと言わざるを得ませんが、ウイング・ウォーもスカイ・ターゲットもウチが独自にソフトをチューンナップしてますから、かなりリアルな画像に書き換えられてますよ」
「お前んちって一体何やってんの!? なんかゲーム開発会社と提携して新作ゲームでも作ってそうだよ」
「あ、そういうのもありますよ? 別にゲーム会社と提携してるわけじゃなくてウチの単独ですけど、それは本業の副産物みたいなものです。本来のフィールドは脳科学ですが、その技術を遊びでゲームにフィードバックしてもらってるんですよ。例えば脳のニューロンにリンクして、イメージしたものがゲーム内に反映されるようなものも実験的に作ってますから。RPG形式だと皆で出来ますから今度みんなでやりましょう」
マジか。つか脳科学て。ホント何やったらこんなデカイ城が建つんだろう?
「その時の神代さんのプレイヤー名は〝せもぽぬめ〟で良いですよね?」
「良いわけないだろ、散々な憂き目にしか遭わない名前だろそれ! 不吉な予感しかしないよ!」
「じゃあ本名もじって〝UMA〟ですか? 捻りがないですよお」
「どこをどうもじったら神代要がUMAになるんだ、ヒエログリフ並みに難解だな」
「ハハハ、神代君と鳳君は兄妹みたいに仲がいいんだね」
なんて恐ろしいことを言うのかこのハゲの人、もとい龍宮さんは。こんなネガキャンスポークスマンな妹がいたらストレスで死ねるわ。もしくはあなたと同じヘアスタイルになってしまう。
「まーちゃんは私と話す時より神代くんと話してる時の方が生き生きしてるものね。羨ましいわ神代くん☆」
「ふふ、お友達(UMA)に会いに来たら妹に会えたってオチなのね今回のイベントは。おめでとう要くん☆」
先日のカフェでのやり取りを思い出しているのだろう、笑いを堪えながら茶化す星宮と、そしてイタズラっぽくコケティッシュな笑みを浮かべて便乗する真希那さん。
おのれエヴァめ、お友達(UMA)の件、真希那さんにチクったな!? クッソ! 城内探索している時か!
「神代殿はモテモテでありますなあ☆」
いやお前が☆とかつけても可愛くないからやめてくれ。
雑談しながらもみんな帰り支度を済ませて部屋を後にする。
明日華さんが車で送ってくれるという申し出に甘える事になった。しかし明日華さんが実際に運転するのではなく、帰りの運転手は矍鑠とした老人の使用人。おお、なんかセバスチャンとかの名前が似合いそうだぞこの人。執事長とかのポジションなのかな。出発前に時間を確認するためなのだろう、白手袋を嵌めた手で懐から金色の懐中時計を取り出す仕草一つとっても、なんか板についてる。
リムジンでの送迎は、まるで何かから護衛されるように鳳の城から城下の街へ、異世界から日常へと向かっているかのように走り出していく。
微かに感じるエンジンの振動が心地いい。セバスチャン(仮名)の運転技術は明日華さんに勝るとも劣らない。
「真希那さん、今日はお会いできて嬉しかったです。また来てくださいね」
「ありがとう。また必ず来るね真綾ちゃん」
「楽しい時間はすぐに終わっちゃいますね。もっと時間あったはずなのに、体感的には少なく感じます。時間が盗まれたみたいです」
「天使の分け前ってやつだね」キラッ☆
鳳の言葉に答える龍宮さんの頭がきらめく。あ、城の威光に圧倒されて沈黙してた頭のキラメキ、復活したんですね。
「エンジェルズ・シェア?」
聞き返す鳳の言葉に、真希那さんが答える。
「うん。ウイスキーは長年樽で熟成している間に少しずつ蒸発しちゃうんだけど、昔の人たちは〝天使に分け前を飲ませているからこそ、私たちは美味しいウイスキーを手に入れる事ができるんだ〟と考えていて、樽から減った分のウイスキーのことを天使の分け前(angel's share)と呼んできたのよ。体感時間にも該当するかは微妙だけれどね」
なるほどそうか、僕が〝今日は三時間勉強するぞ〟と意気込んでも、実質一時間しか勉強できていないのは天使が持っていっちゃうからか。違うね。
「あっ、なんかそれ聞いた事あります。確かスコットランドの人たちが言い出した事でしたっけ?」
「そうね、樽熟成のメカニズムはまだ解明されていない部分もあって〝時の技〟と神秘的に語られてるんだけど、そういう呼び方で表現するところに欧州の人たちのロマネスクを感じるわね」
僕も先日、家でポップコーン食べてたらいつの間にか無くなってた経験があるけれど、天使にポップコーンの分け前を与えて僕にはどんな美味しい見返りがあっただろう?
てか僕に友達がいないのも天使がゴッソリ持ってってるのか? 持ってきすぎだろどんな天使だ。天使というかむしろ僕の天敵じゃないか。違うか。
「そういや池端、宝物室には何かあったのか?」
樽熟成と聞いて地下室を連想したからだろうか、隣の池端に小声で聞いてみた。流石に明日華さんや鳳のいる手前、大きな声では聞きづらいし。
しかし何気なく放ったその問いに、返されてきた言葉は予想だにしないものだった。
「? 宝物室? 神代殿、それは一体何の話ですかな?」
「え? いや何の話もなにもお前、城内探索してて地下への階段降りてったじゃないか」
「ふむう? 城内探索はしましたが地下への階段は降りてませんぞ? あの城には宝物室まであるのでありますか?」
いや、あるのでありますかってお前、地下へタッタカ階段降りてっただろうに……。
それ以前に、宝物室の存在自体が記憶から無くなってるっておかしいだろ。エンジェルズ・シェアの天使ってのは記憶まで何割か持ってっちゃうのか? それじゃあ物忘れの激しいおじいさんなんか天使と昵懇の仲じゃないか。ああ、だから最後には魂まで天に召されるって事なのか。違うね。
「あのお城のお宝は、拙者のポッケには大きすぎらあであります☆」
なにルパンを気取ってるんだチタン、〝天使は貴方から大事なものを盗んでいきました。それは、あなたの記憶です!〟な状況なんだぞ解ってんのか? それとバシッと決めた横ピースやめろ。あと☆
……いや待て、しばし、待て。これ笑ってる場合じゃないんじゃないか?
池端の表情からはからかって担いでいるような雰囲気は感じられない。そもそもここで嘘をつく理由がない。
記憶、時間が盗まれた、そして体感時間。これまでの会話の断片で使われたキーワードがトリガーとなって思い出されるのは、西園寺さんの言葉。
主観の誤認。記憶の改竄。暗示の、技術。
あれえ? 西園寺さん、あなた池端に使ってません? 暗示の技術っていうの、使ってません?
……いやいや待て待て、だからギャグ調に流していい質の話じゃないだろこれは、ヒト一人の記憶が改竄された可能性があるって事なんじゃないのかコレ?
池端が嘘をついているようには見えない、ならばやはり記憶が書き換えられた可能性がある、だとするならばそれはなぜ? 見られて困るものがそこにあったから?
それは、ほんの些細な違和感。
そもそも本当に西園寺さんが池端の記憶を改竄したという根拠があるわけでもない。
でも思えばあの時、池端は西園寺さんと一緒に部屋へと戻って来たのではなかったか。
池端は既に他のメンバーとの話に混ざっている。僕はこの空間で、リムジンの車内で、共に過ごした楽しかった時間の余韻に浸って談笑するみんなの中にあって、自分だけが気付いてはいけない違和感に気付いてしまったように、周りの皆の声が臨場感を伴わない、どこか遠い絵空事のように感じ始めていた。
見慣れた風景の中に一つだけ、本来そこに在ってはならないものが紛れ込んでいる。
その違和感に気付きながらも、それが何か解らない、不気味な感覚。
何か大事な事を見落としているのに気付きながらも、それが何なのかが特定できない焦燥感といってもいい。
本来そこに在ってはならないイレギュラーが目の前にあるのに、それは何食わぬ顔をして、済まし顔をして、開き直ってそこに存在してしまっているのに、誰もそれに気付かない。
そしてそれでも尚、日常ごっこを演じようとするチープな茶番劇に付き合わされているように。そこに僕だけが気付いてしまったように。僕の思考は、そこから離れない。
11
マンションのリビングのテーブルで夜景を見ながらコーヒータイム。
このひと時が癒しタイムだな、シンと静まり返った室内は考え事には最適だ。
日付が変わる時刻。
ついさっきまで、美鈴のまるでパパラッチのように食い付いてくる興味本位の質問責めにあってたからな。あのアパッチが燃料切れで帰還、じゃない眠気を催した美鈴が自室へ戻ったので、ようやく今解放された気分だよ。主に星宮関連の質問が多かった。やれちゃんと家まで送ってやったのかだとか、次の約束を取り付ける事は抜かりなくやったのかだとか、やめてくれよ兄妹間でこういう話題は。話しにくい事この上ないだろ。
ゆっくり自宅でコーヒー飲むならカップで熱いホットコーヒーに限るけれど、ここは敢えて帰りがけにコンビニで買ってきたシルキーブラックのコールドをセレクト。
ブラック派の僕に言わせれば、このシルキーブラックのコールドバージョンは、缶コーヒーでよくぞここまでのテイストを実現させたと感心する程の、奇跡の逸品だ。
なぜかコンビニによっては扱ってない店もあるのが難点だけど。
あの後、駅前までセバスチャン(仮名)に送ってもらった僕たちは、そのまま駅前のロータリー沿いに建つビルの一階のゲームセンターへ寄っていった。UFOキャッチャーやプリクラが充実してる店だ。
駅前で車から降ろしてもらう時、土曜の夜で賑わう駅前にあのリムジンで乗り付けて降りた僕たちへの周囲の注目度がハンパじゃなかったけどね。それで向かう先がゲームセンターというのだからなかなかシュールだ。
何なら鳳も呼べば良かったかなという何の気なしに放った僕の言葉に、思いもよらない回答が返ってきたのは星宮からだ。
「う~ん、まーちゃんはこの時間帯はちょっと難しいと思うな」
僕は初めその言葉を、あれだけの邸宅に住む長女という立場上の、体面的な事を言っているのだと思ったけれど豈図らんや、返ってきたのは意外な理由だった。
「ううん、そういうのじゃなくて、夜そのものがダメなの。この時間帯から遊んで帰るとなると、また鳳の家の人に迎えに来てもらう事になっちゃう。まーちゃんはそういうの気にするから」
「徒歩のコースだったらここからでも大してかからないんだから、帰りは歩いて帰ればいいんじゃないのか? 何なら僕が送ってもいいし」
「それがダメなのよ、徒歩だと尚更。歩いて帰るとなると、城の湖や標高の高い夜空を視界に入れる事になっちゃうでしょ? 巨大恐怖症なのよ。まーちゃんの場合はまだ軽度なものらしいんだけど、通常時に認識している以上の大きさのものに対して畏怖を感じてしまうのよ」
そんなのがあるのか? あの凰に、そんなビハインドを背負っている事情があったとは。だから最初に会った時、あれだけの距離なのに明日華さんが車で迎えに来たのか。
「神代くんに会わせた時は私もうっかり話し込んじゃってあの時間になっちゃったんだけど、明日華さんが迎えに来てくれてよかったわ。確かに、誰か隣に人がいれば話は別なんだと思うけどね、でもどういう条件だと恐怖を感じてどういう条件だと感じないのか、こういうのは本人にしか解らないしね」
「真綾ちゃんが巨大恐怖症になったのは、何か原因があるのかしら?」
見れば真希那さん、既にキュウベエの大きなぬいぐるみをゲットしてますね。
「聞くところ一年半あたり前かららしいんだけど、これといった原因は聞いてないですね」
「そう。メンタルに関する症状は、病名はあってもその原因やメカニズムは実のところ解明されてないものの方が多いのよね」
「その巨大恐怖症っていうのは、具体的にどんなものに対して感じる恐怖なんですか?」
「そうね、例えば大きな鉄塔とか夜空とか、人によっては夜風なんかもその対象だったんじゃないかな」
と真希那さん。
「そう、ただまーちゃんの場合は、昼間に見るそれらは問題なくても、夜に見ると恐怖心を駆り立てられるって言ってたわね。空に何かがいる、って」
なるほど、それじゃああの湖は余裕でアウトだな。ならばあの高い位置にある凰邸から見上げる夜空なんかも、かなりヤバイのか?
「想像力豊かな人に陥りやすい症例らしいんだけど、もしかしたら真綾ちゃん自身が忘れているだけで、深層心理に刻まれた過去の体験がその原因になっているのかもしれないね」
真希那さんの言葉に、軽いデジャヴを感じた。あれは、そう、いつだったか星宮との会話の中に、そんな内容がありはしなかったか。
何はともあれ、あの自由奔放な歩く治外法権の凰にそんな事情があったとは、まさに人に歴史ありだ。巨大恐怖症という初めて聞く言葉に、池端の件を星宮に聞いてみるタイミングを逸してしまったまま、今に至る。あの中で凰邸に多少なりとも接点を持つのは星宮だけだからな。西園寺さんについて星宮に聞いてみようと思っていたんだけれど。
ガチャッ。
そんな、ほんの数時間前の出来事を反芻しているところへ、自室のドアを開けて眠たそうな美鈴がリビングへ出てきた。エサを求めて巣穴から出てきたフェレットみたいだ。
「あれ? お兄ちゃんまだ起きてたの?」
あの何とかメガネ、なんだっけPCの紫外線だか何だかをカットしてくれるとかいうメガネを掛けている所を見ると、宿題の調べものでもしてたのかな。視力は抜群にいいウチの妹に、そうでもなければメガネ掛ける必要性がないもんな。
「うん。ちょっと考え事してたんだ」
「逃した魚は大きいなと後悔の念に沈んでたんだね」
「何でだよ!? 星宮の事ならだからちゃんと送ってったし、また遊ぶ約束もしてるぞ」
二人だけじゃなくて、またみんなでって話になったんだけどな。ゲームセンターで。
「知ってるよう。冗談だよおにーいちゃん」
冷蔵庫から取り出したリンゴジュースを飲みながら、楽しそうに美鈴は続ける。
「でもねお兄ちゃん、呑気に構えてたらダメ。以逸待労は果報は寝て待てという意味じゃないんだよ? 女性をちゃんと送ったところはお兄ちゃんにしては上出来だけど」
うわあ、またその話か。あれ? でも自室に引っ込む前までは送り帰したと言ってもあまり信じてなかったのに。何がスイッチなんだ?
「ふふーん、お兄ちゃんが飲んでるそのお気に入りのコーヒー、この辺では御幸の浜のコンビニにしか売ってないもんね。星宮さんを送り帰したあと、そこで買ったんじゃないかという初歩的な推理なのだよワトソン君」
「おお~、どこのシャーロックだ。寝惚けてるかと思いきや意外と鋭いな。ちょっとしたコールドリーディングじゃないか」
「チッチッチッ、そこはメヌエットと呼んでよお兄ちゃん☆ 安楽椅子探偵だよ、小舞曲のステップの如く推理しちゃうよ?」
得意気にパジャマでくるっと回った挙げ句にポーズを決め、そんな事を宣う我が妹。自分でワトソン君とか振ってたじゃねえか、その流れだと普通ホームズだろ常考。
それとリンゴジュース微妙にこぼしてるぞ勉強椅子探偵。
「でもあれだな、凰の城ってホントにでかいな。目の当たりにしてみて改めて思ったよ」
「うん。でも家が大きいからって幸せかどうかは解らないけどね」
それはまあ、そうか。凰の抱える恐怖症、置かれたその立場を思い出す。自分の家そのものは畏怖の対象にならないんだろうか? あんだけデカイのに。
「でも確かに、天井が高い家で育つと子供も伸び伸び育つとも言うよね」
それはまあ、そうか。美鈴の言葉に凰の伸び伸びトークを思い出す。言いたい放題だもんなあのポニーテール。
「僕も伸び伸び育つために、せめてキングサイズのベッドでも入れてみようかな」
「そんな大きいもの入れたら寝るとこ無くなっちゃうでしょお兄ちゃん」
あっはっは、やっぱ半分寝てるなお前。
「美鈴はお兄ちゃんがお友だちに囲まれて普通の人生送ってくれればそれで充分だよう。況してや星宮さんみたいなキレイさんがお義姉さんになってくれれば、もう思い残すことはないよう」
だからお前は僕の母ちゃんかって。何故に僕の人生をそこまで懸念する?
「お兄ちゃんの人生で星宮さんみたいな人と知り合いになるなんて、隻眼の亀が起こした奇跡なんだよ?」
「どんどん僕の奇跡レートがレアなものになっていくな、だいたいお前、星宮と会った事もないだろうにどうしてそこまで高評価できるんだ」
「人間嫌いなお兄ちゃんにお勉強教えてくれる時点で優しくて頭が良いのは確定でしょ! ライバルになり得るのは聖母マリアくらいだよ!」
フフ、聖母マリアと来たか。だが善き哉妹よ、井の中の蛙の汝に、世界というものを教えてやろう。
「そこに異論はない。だがな妹よ、後学のために、ミーの言うことをようく聞くんだ」
「なんでしゃべり方がスナフキンみたいになってるの?」
「真希那さんというジョーカー至っては、その星宮ですらチェスで勝てなかった相手に勝利を収めているのだよ。星宮に勝るとも劣らない才色兼備の器なのだよ」
……だからなんで僕が得意気か。
キィィィィイン…………キンコンカンコンカンコンバァァ――――――――――ン!!
「ん?」
何やら不穏な空気を感じて顔を上げ美鈴を見ればうおっ! なんだコイツ!
頭の中で種割れ(SEED)炸裂して覚醒モード突入してるじゃないか!
「おおおおにおにお兄ちゃん!? ほ、星宮さんだけじゃなくてマキマキマキナさんて誰!? 両天秤に華でダブルリーチでツモ!! 三〇〇〇・六〇〇〇!!」
ぶはっ!! 地雷を踏んだのは僕の方か、なんというキラーパス。雉も鳴かずば撃たれまい。
「いや待てホント落ち着け、取り敢えず何回巻けば気が済むんだ」
「もうこれお盆と救急車が一緒にやって来たよ! おにおにお兄ちゃんまだ慌てる時間じゃない落ち着いて、まずは一本、確実にいこう!」
リーダーシップを発揮する仙道君のポーズで頭を左右に振りながら何を言ってるんだこの妹は、お前が落ち着け。いやだなあ、ここでスイッチ入っちゃったか。これピラニアみたいに喰いついて離れないぞ? シルキーブラックの空き缶をゴミ箱に捨てて席を立つ。
「ちょっとコンビニまで行ってくるよ。ちょうどノートも切らしてたしな」
「お兄ちゃんこんな時間に美鈴の目を見て話しなさい! そして聞かれたことにキリキリ答えなさーい!!」
お前はギアス使いかよ。落ち着け、そして考えまとめてから喋れ。
後ろで美鈴が〝はわわわ、美鈴はどっちをお義姉さんと呼べば、あわわわ〟とかなんとか壊れたRADIOみたいになってたけど、取り敢えずそっとしとこう。どの道、今夜はまだ寝付けそうにないしな。
そう、寝付けそうにない。自分で思う以上に、興奮しているのかもしれない。
あんな人数で同じ時を過ごす事自体が僕にとって珍しい体験だったから、というのもあるだろう。
だけど、どうしても思考のベクトルが向かうのは、記憶の水底を刺激するような、幾つかの違和感。
池端の記憶の整合性に何者かの作為を感じるのは、僕の気のせいなのか?
そして巨大恐怖症という、凰の抱えるビハインドを聞かされた時に感じた既視感。
何の疑問も抱かずに毎日を送っていた僕の傍らで、僕の日常の傍らで、何か異質なものが実は初めからそこに存在していて、さながらヘビのようにそれはゆっくりと蠢いているのに、そこに気付けないでいるような。
不気味で薄気味悪い何かの上に、薄い薄い、わずか一枚の薄氷を乗せたその上で、繰り返される日常を演じているような。
ともすればそれは、軽く指で押した程度で容易く割れてしまうような脆弱な薄氷のその上で、危ういアンバランスなバランスの上に僕たちの〝当たり前〟は、辛うじて成立しているような。
グーグルに偶然映し出されてしまったあの蛇は、それら非日常(異常)が存在する事を指し示す最初の手掛り(物的証拠)、異常の片鱗だったのではないか。
とても寝付けそうにないならば、熱冷ましに春の夜の散歩というのも、悪くはないだろう。
夜の帳に包まれた世界は天蓋に散りばめられた夜空の星々を浮き彫りにさせてくれ、地球と、その衛星である月や星々との間に自分は立っているのだと、この宇宙の片隅の一つの惑星の表面に立っているのだと、再認識させてくれる。
宇宙から切り離されて、この地上という日常はあるのではない。
自分がこの足で立つこのポイントも立派に宇宙の一つの座標なのだと、思い出させてくれる。
でも陽の光はあまりに強すぎて、その真実を覆い隠してしまう。
本来の認識を、忘れさせてしまう。
自分は宇宙の一つなのに陽の光がそのリンクを遮断させてしまい、下世話な日常へと埋没するので手一杯になってしまう。
それはまるで、広大なネット回線から遮断されたスタンドアローンのPCのように。
目まぐるしく流転する日常にしか視点がいかない陽の光に支配された時間より、太陽の支配が遮断される事で、森羅万象の本来の姿が顔を覗かせるこの夜の時間が、僕は好きだ。
マンションを出て、心地よい春の夜に触れる僕の前に今、拡がる桜並木通り。
ライトアップされた夜桜が見せるこの景色は、決してここだけで成立する独立したものじゃない。世界・宇宙から切り取られた単独のものじゃない。
この宇宙の森羅万象の中の一つの景色、地球産の景色として、宇宙とこの夜桜は繋がっている。火星やシリウスや月面は決して位相の異なる世界の景色ではなく、この夜の桜並木の景色と同次元上にある。
いつだったか星宮と歩いた時に感じた思い。夜の世界に映える桜は、まるでこちら側である此岸とあちら側である彼岸を別つモニュメントのよう。
現実は夢、夜の夢こそ真実。
ルーティンワークな日常の中に垣間見える〝何か〟に心が波立つならば、地球という天体と、銀色に輝く月や星たちの間に身を委ね夜桜たちに囲まれて、宇宙の中を歩くのも、決して悪くはないだろう。
INTERLUDE(THE POWER GAME)
それは、奇妙な光景だった。
夜の街並みが瞬かせる一つ一つの灯りたちが、まるで銀河の星々思わせる夜景を眼下に見渡す、とある高い場所。
スチール合金の〝足場〟に、ダンッ!という着地音を次々と響かせて、三人の男達が眼下を見下ろす。咥えタバコの紫煙を夜空に燻らせながら、そこに立つ一人の男が呟く。
「さあ、じゃあチャチャッと始めますか。僕とフェンリルが東側から暴れて陽動、ヴェーダーが西側から地下へ突撃、でOK?」
「まあ、暴れるのは俺とスリークロックの性に合ってるから異存はないが、しかし酔狂な話だな。わざわざこんな無駄足踏まずともガルーダなら距離の概念なぞ関係ないだろうに。直接ハルバードへ〝着地〟してしまえば手間がない」
フェンリルとスリークロックと呼ばれるその二人の視線を受けて、最後の一人である三人目が言葉を返す。
「無粋な事を言うなよフェンリル、何事も様式美ってものがあるだろう? お前はどこでもドア一つあれば車なんて必要ないと言ってしまうタイプの人間かい?」
フェンリルの言葉はガルーダと呼ばれる、この場にはいないはずの人間へのクレームと言えるだろう、にもかかわらず三人目であるヴェーダーと呼ばれる男が、まるで自分へ示された難色に応えるかのようなニュアンスで返答する。
「あっはっは、そうだよフェンリル、君は良く言えば合理主義、悪く言えばちょっと原理主義なところがあるけれど、人生を豊かにしてくれるのはいつだって無駄なものの方さ」
「フン、まあ俺たちの指揮者はヴェーダーなのだから構わないけどな」
三人共まだ二十代だろうか、そんな彼らのやり取りが交わされていた、まさにその時だった。
不意に姿なき四人目の声が聞こえた。
いや、むしろそれは「聞こえた」というよりは「響いた」と言った方が適切だったかもしれない。
『ふふ、スリークロックとヴェーダーの言う通りよフェンリル。趣味の車でドライブする楽しみを知らないなんて、人生何割かは損してるわね。現場は楽しそうで何よりだわ。ハルバードにさっきまでいたゲストの存在も今は確認されない。そして対象もいまだ地下から搬送されていない。これはユリちゃんの見立てだからガチだわ。つまりアタッキングを仕掛けるなら、まさに今。シグナルはオールグリーン』
奇妙と言えば奇妙だろう、この場にいる三人の誰も携帯端末のような通信機器を使用している素振りはない、しかし四人目であるその声は、絹のように滑らかなその女の声は、まるでその場の三人の脳内に直接響くように受信されている。
それも実際の声が届く前、その直前にフライングして、それはまるでハウリングを起こしているような響き方だった。
「OK、パーティーを始めようか。姫は引き続きユリウスと後衛を」
『りょーかーい』
ヴェーダーと呼ばれた男の指揮に、姫と呼ばれた若い女の軽い調子の声が響く。
「アタッキング」だとか「突撃」だとか「陽動で暴れる」と言った単語が飛び交うような、、本来は不穏であるはずのこの会話に対して、三人(と一人)のアットホームなそのスタンスは、あまりにもアンバランスで場違いで不自然なものだっただろう。
そしてヴェーダーもまた軽い調子で、それはまるでジェームズボンドが放つブリティッシュジョークのように、軽い調子で告げる。
アルカイックスマイルを浮かべながら、パチンッというフィンガースナップの軽快な音と共に、しかしこれから起こす事の内容を考えれば「号砲」とも言うべき、サインを告げる。
「It's show time, ROCK'N ROLL!」
それは奇妙というよりは、より正確に言うならば異様な光景だった。
そもそも三人が軽いジョーク混じりのブリーフィングを交わしていたその場所は、大きな翼の上。
ターボ・ファン・エンジンを搭載し、音の速さより少し遅い速度で飛行している遷音速軍用機とは言え、その速度は時速九〇〇キロ前後に達するその領域で、その翼上で、まるで食後のコーヒーブレイクのような日常会話を平然と展開してしまえる、そのポテンシャル。
「いやあ、一度やってみたかったんだよねえ、飛行機の翼の上に立って登場っていうの」
高度三万三千フィートの上空からタバコを投げ捨てて、スリークロックが歩き出す。
「スリークロック、やはりお前の提案かこれは。趣味の悪いお前の病気に付き合わされるのもいい迷惑だな」
フレイムパターンをあしらったジーンズのポケットに親指を引っ掛けて、フェンリルがそれに続く。
彼らからすればこの行為さえ目的のために必須不可欠なものという訳ではない。謂わば寄り道、気まぐれの遊びの域を出ないだろう。
そう、例えばそれは、小さな子供が横断歩道を渡る際、白い塗装部分だけを踏んで歩くような。言うまでもなく途中乗車ならぬ途中搭乗だろう、高速巡航する軍用機の翼上に降り立つ、それも高度約一万メートル上空の、その翼の上へ。
そこは気圧で言えば地上比四分の一、気温は約マイナス五〇度の世界。
そもそも生身の人間がどうすればそんなタイトロープを平常運転で決められるのか。
不意に、スリークロックと呼ばれた男の視線が三つ股の槍の紋章が刻まれた主翼へ注がれた途端、爆音と共にスチール合金が弾け飛ぶ。
地上からは夜空に突如鳴り響いた轟音と共に、まるで巨大な光球が出現したように見えた筈だ。
紅蓮の炎に包まれた機体は恐ろしい勢いでその高度を落としていく。
本来の目的地である、ハルバードに辿り着く事は叶わないまま。
軍用機を爆炎を纏って墜落していく鉄塊に変えた彼らが向かう訪問先、それはアポを取ったオフィシャルなものでは当然ないだろう、むしろ招かれざる客であるのは論を待たない。
ターゲットへ向けて、三人は動き出す。
彼らの見下ろす目線の先にある、ハルバードと呼ばれたその場所へ。
それは天空の城の異名を持つ凰の城、その場所へ。