8
ルージアが他者を認識するとき、容姿や声、匂いといった特徴に加え、無意識に考慮しているものが『気配』である。
それは、五感すべてが働かない状況でも『なんとなく』掴むことのできる要素だった。雰囲気というか、威圧感というか、存在感というのか――ルージア本人にも上手く説明することはできないが、とにかく言語化しがたい個性として、生物それぞれ固有するものがあるのだ。
そこに例外はない。ルージアの知る限りの話ではあるものの、この世界に存在している時点で、その気配を持たないものはいない。人はもちろん、野生動物や樹木もそうだし、死体にもあれば、人工物であるコンクリートの塊さえ有している。小さなもの――道端の小石だとか、枯れ落ちた葉だとか――については何も感じないが。それはあまりに小さすぎて、自身には知覚できないだけのことである、とルージアは考えている。木彫りの熊にもあったのだ、何にあったところで不思議ではない。
あるいは第六感に近いものもあるのだろう。それほどに、気配の差異というのは微妙なものでしかなく、説明しづらいというのはそういうことだ。しかしルージアは、これまでの経験から、気配というものの有用性には確信めいたものを感じていた。
根気よく追及すれば、一つの技術体系として確立することができるかも知れない。ともすれば、気配だけで相手の心理を察したり、嘘を見抜いたり、悪性を看破することさえできる可能性はある。
ただ、ルージアにそのつもりはまったくなかった。それこそ耳や鼻の造形や、体格の大小のように、その相手を認識する一要素に過ぎない。見た目で相手を差別することがないように、気配というものについても、さしたる関心を持てなかったのだ。
そんなルージアが、その気配を注視していた。
目の前に現れた長身の老翁に、底知れない圧力を覚えていた。
そして、何より。
似ている、と思った。
「ああ、三改木先生!」
藤木が、急に媚びを含んだ調子の声を出して、老翁――三改木に駆け寄った。
その時の藤木がもみ手などしているものだから、またしてもルージアはニヤけそうになったが、場合が場合なので頑張って堪えた。今は藤木より、三改木と呼ばれた老人である。
三改木は紛れもなく、パンフレットに載っていた居合の古豪、その人だった。深々と刻まれた皺は老成した威厳を示し、着物に包まれた上体は老年とは思えないほど筋張っている。背筋もピンと伸び、鉄骨のような印象だった。短身の上にやや猫背気味の藤木と並べば、大人と子どもほどの身長差である。
海松色の長着と藍色の袴は落ち着いた渋さで、銀鼠の帯も相まって品がいい。ルージアの着物もかなりの上物である(本人はよく分かっていない)が、それに匹敵するほどの風格だった。
「お騒がせして申し訳ございません。いやなに、極めて些末なことでありまして。いわゆるクレーマーと申しましょうか。先生のお手を煩わせるようなことではありません」
クレーマー呼ばわりされ、相変わらず一星は藤木を睨みつけていた。――と、ルージアは思ったのだが。
一星の視線は藤木ではなく、三改木の方へと向いているようだった。
「藤木さん」
三改木は静かに語気を強め、咎めるような声色で言う。しわがれた、けれど通りの良い低音は、聞き手の身体の芯にまで響くようだった。
「そのような言い方はいかがなものか。せっかく名刀を見に来てくださったお客人を無下に扱うなど、あってはならぬことでしょう」
「は、いえその、仰る通りで……」
藤木は途端にしどろもどろになった。得意の笑顔もぎこちなく、額には脂汗さえ滲んでいる。
恐らく、三改木はスポンサーでもあるのだろう。二人の立場ははっきりしているようで、さしもの藤木も、礼節を欠いた振る舞いはできない様子だった。
「貴女もだ、一星様。場を弁えなさい。観衆の面前で口論を起こすなど、名門八剣の名が泣きましょう」
三改木はゆっくりと一星へと視線を移し、藤木に対するものと変わらない声で言って聞かせた。
三改木の在り方は、微笑む姿さえ想像できないほど厳格だった。言葉のすべてに芯が通り、揺るぎない意志が伝わってくる。研ぎ澄まされた刀じみた気配――そこにはやはり、一星に似た何かが宿っていた。
「三改木 龍心」
ああ、やっぱり顔見知りか、とルージアは肩を竦めた。『こんな男ごとき』などと憎まれ口を叩いていたくらいだから、そこまで親しくはないのだろうが。そんなに刺々しくしていたら、自分だって辛いだろうと、純粋に心身を案じていた。
「しばらくですな、一星様。互いに門下生の後援に来ていた、居合道大会以来になるか。先日は兄君にもお会いしたが、兄妹揃ってご壮健そうで何より」
「世辞はいい。龍心――理心無光流の師範ともあろう者が、大道芸の真似事に飽き足らずこの始末、どう言い繕うつもりだ」
「この始末?」
「貞親の名を騙った偽物で、詐欺を働いていることについてだ」
自身の正当性を信じて疑わない一星が、やや疲弊しつつも勢いを取り戻していた。ようやく話の通じる相手が来た、と安堵さえしていたように見えたが、
「どうやら何か、思い違いをされているご様子」
三改木は一切動じることなく、淡々とそう言い放った。
またしても一蹴された一星は、眼前のすべてが信用ならないというように、目を見開いた。
「馬鹿な、何を言っている龍心。分からないはずがないだろう、お前ならば――」
「その刀は紛れもなく本物の貞親――宝刀『八重津八坂貞親』に相違ない。間近で検分した儂が、この半生に賭けて断言しよう」
「何を……。惚けたか、三改木 龍心!」
「齢七十一、耄碌するにはまだまだ早い」
ここまでだ、とルージアは踏み切った。
一星の狼狽は目に余るほどだ。もうタイミングを見計らっている余裕もない。既に手遅れではあるが、すぐにでもこの場を立ち去るべきだと。ルージアは再び手を伸ばし、一星の肩を、やや強めに叩いた。
「やあやあカズセっち、ここはいったん帰りまショウ! 気持ちは分かるがそこはそれ、引き際を見誤っちゃあ――」
「お前は黙っていろ!」
振り返りざまにルージアの手を払い、一星は激しい剣幕で叫んだ。
驚いた表情のルージアを見、一星は一瞬怯んだように固まった。顔を赤くして、唇を震わせている。そしてぎゅっと瞼を閉じてから、再び三改木らの方に向き直った。
「そこまで言うのなら。藤木さん、鑑定書を」
憐れむように一星を見てから、三改木は囁くようにそう言った。
「はあ。しかし、わざわざそこまで……」
「致し方ありますまい。そうしてやらなければ、彼女も引きようがないでしょう」
藤木は渋々というように頷くと、踵を返し、三改木が現れた扉へと消えていった。
「たわけが。いまさら、貴様の息の掛かった鑑定書など持ち出したところで、私には――」
「恐縮ながら、一星様」
一星の言葉を遮って、三改木が一歩を踏み出す。
恐らくは無自覚にだが。一星は逆に、一歩退いていた。
「鑑定は京の六郷殿に依頼申した。むろん正規の手続きを踏んでおりますゆえ、貴女と言えど異を挟む余地はなかろう。この老いぼれの記憶が確かであるなら、八剣家は、六郷家はもとより、その本流である六条家とも、懇意の間柄だったのではありませんかな?」
「――――」
その言葉は、それ自体が最後通牒のようであり。
間もなく藤木の持ってきた鑑定書が、蒼白になっていた一星を、完全に沈黙させてしまうのだった。