3
前
「……これってヤバくね?」
遠く近く、カラスの鳴き声が、やたらとうるさく聞こえている。
神社の赤い鳥居の上に寝そべり、ルージアは途方に暮れた表情で空を見つめていた。
すでにルージアは買い物を終えている。商店街から自宅へ戻って、さらにそこから本格的に捜索を開始したのだが、未だに迷子は見つかっていない。井桝に連絡しても、やはり手掛かり一つ見つかっていないらしい。
買い物ついでに、めぼしい場所は一通り探した。しかし成果はない。ならばどうしたものかと、こたつでえっちらおっちら船を漕いでいたノアールにダメもとで意見を聞いた結果、ルージアがやってきたのが双神神社である。
双神神社は、ほとんど廃れかけた古い神社だ。社そのものはまだあるが、建造物が全体的にボロボロになっている。再建の話はずっと前から挙がっているが、なんだかんだ先延ばしになっているというよくある話である。宮司も無住で、特別お祭りでもない限りは人影一つ見当たらないのが常だった。
人気がなく、静かで、それでいて『何かありそうな気がする』というのが、この手が抱かせる神社共通の印象である。だから気に入っているのだと、ノアールは零していたのだ。
「アイツの勘もバカにならんと思ったんだけどナ。だって、土地神の残滓なんざフツー気付かねぇでしょうよってハナシだ。ンー、まあでも」
今回はハズレだったな、とルージアは肩を落とす。
迷子の子どもの姿など、どこにもありはしなかった。
日が傾き、夕日のオレンジが、誰もいない神社に差し込んでいた。
「まさか誘拐ってんじゃあねーだろうかね」
よっ、とルージアは身を投げ出し、鳥居のてっぺんから石畳の上に着地する。
ブーツの鳴らす小気味良い音が、無人の境内に響き渡る。
――と。
「お前は、どちらだ?」
「――――」
ルージアの背後、神社の本殿側から、底冷えするような声が放たれた。
見られた、とルージアは思った。
鳥居は十メートルに満たない程度の小さなものだったが、それでも上から平然と飛び降りられる高さではない。人がいるわけがないと、注意を怠ったルージアの落ち度である。
誰だ、とルージアは思った。
背後の声は女性、それも少女と言えるほど高く幼い声だった。それでも、いや、だからこそ、突き刺すような鋭さを備えた声質には警戒を余儀なくされた。
どうするか、とルージアは思った。
大抵の障害は笑って誤魔化し受け流すのがルージアの性質だが、しかし。
ためらうべきではない状況というものがあることを、彼女は、よく知っていたから。
「使え」
背後の少女が言う。
何を、とルージアが振り向こうとした矢先。足元で、竹が弾むような音がした。
そこにあったのは、使い古された一本の竹刀だった。
「使えるだろう。ならば仕合え」
「……ははぁ」
有無を言わせぬ口調だったが、それが逆にルージアを冷静にさせた。
その雰囲気から、知り合いに近いものを感じさせたからだろうか。
背後の少女は恐らく、ノアールと聯の中間に位置している。
「そりゃあ、刀くらいは扱えますけども? なーんでそんなことせにゃならんのです?」
「常在戦場の心得を知れ。剣士たるもの、得物を手にした相手を前に、何故を問うことなどありえない」
宣戦布告のつもりなのだろうか。背後の少女も持っているのだろう竹刀が、石畳を強く叩いた音がした。
「仕合え。何のためにここまで出向いたと思っている。この私を失望させるなよ、二木の」
「あー……うん、まあ」
だいたいの予想はついたので、ルージアも観念して、竹刀を拾うことにした。
当然ながら竹刀は軽く、ルージアからすれば逆に扱いづらいが。随分と使い込まれ、かつ手入れも行き届いているのだろう。握った柄は、初めてとは思えないほど手に馴染んだ。
「いいんだけどサ。私すんごい手加減するよ。だってほら、ケガでもさせたら怒られるの私ですし!」
「たわけ。せいぜい膂力に勝る程度で驕るなど笑止千万。全力を賭してかかってこい」
「そういうものなん? いやぁ、でもさー」
なるほどそういうオーダーかと。だから自分だったのかと。ルージアは十全に、事の次第を理解して。
「腕とか脚とか、あと首とか? 壊れたら直すの大変なんでしょ、アンタ方は」
「上等」
鳥の声も、羽ばたく音も。人々の営みの気配すらなく、しんと静まり返った境内。四方を木々に囲まれたこの場所は、或いは試合に見合いのリングのようだった。
徐々に日は落ち。
影は秒ごとにその形を伸ばし。
明度の落ちていく戦場にて、二人は確と視線を交わした。
「界代八剣流――八剣 一星」
――いざ尋常に、勝負。
中
目まぐるしく移り変わる攻防のさなか。まさしく剣道少女だな、とルージアは思った。
凛とした顔つきには気品があり、育ちの良さを感じさせる。喩えるならばそれは動物ではなく、植物――白百合か何かだろう。
後頭部で結わえられたポニーテールは背中まで落ち、身体の動きに合わせて忙しなく揺れ動いている。桃色のパーカーとミニスカートにスパッツという出で立ちは可愛らしくも、動きやすさを重視したスタイルと言える。
手足は細く、リーチもあまりない。しかし動きは軽快だ。身のこなしも舞踊のごとく無駄がなく、美しいとさえ言えるほどである。背丈は小学生そのものなのに、言動からはとても信じがたかった。
袈裟懸けに襲い来る竹刀を、ルージアは右手に持った竹刀でいなす。右腕に伝わる振動は激しく、未成熟で細身の少女とは思えないほどの一太刀だ。
恐らく相当に鍛えられてはいるのだろうが、それだけではルージアには遠く及ばない。ルージアを驚かせるほどの威力など、絶対に出てくるはずがない。
或いは何らかの手品があるのかと疑ったが、しかしルージアが辿り着いた結論は、そんな安直なものなどではなかった。
剣術としての熟練度。
剣士としての習熟度。
長い年月――それこそ数百年以上掛けて研鑽され続けてきた、技術の最奥。何世代も続く継承者たちが、その一生を掛けて積み重ねてきた歴史、そのもの。
それを受け継ぎ、己が技とし、一瞬一瞬の切っ先を研ぎ澄ませる少女の才覚。遥かなる歴史に押し潰されないほどの、器としての完成度。
別格だと、ルージアは理解した。なるほど肉体能力では圧倒できよう。だから負けることはないだろうが、しかし。
剣の技量という一面において、ルージアは相手の足元にも及ばない。
「全力で来いと言っている」
「はえ? あーいやいや。片手で振るのが私なのです」
流石に見抜かれるか、とルージアは密かに舌を出した。嘘は言っていないとは言え、本気でないのは間違いなかった。
それ以上の追及はなかったが、代わりにご機嫌が傾いたらしい。一星と名乗った少女の、その幼い瞳が、肉食獣のごとくルージアを睨みつけてくる。今ならば、白狼か何かのイメージに重ねることができそうだ。
「いや、ごめんって。というかホント、これが私のフツーなんだって。ええと、一星? もうちょい余裕持った方がいいんでないの? そしたらもーっと強くなれるでショウ!」
「闘争に善悪はないが、他者の侮辱や嘲り――そういったものをして私は、紛れもない悪と呼称する」
「おおう……」
あったまかったいなぁ、とルージアは渋い顔をした。一星の兄がもう少し緩い感じだったので、それに近い妹かと思っていたが。なんと全然そんなことはなかった。いや、表に出すか裏に隠すかという違いがあるだけで、頑固さという意味では共通しているのかも知れないが。
「納得いかないか。ならばそれで構わない。次の一手にて、私は私の正しさを証明する」
一つ飛び退いて、一星は竹刀の先を真っすぐにルージアへと向ける。
戦意か、或いは剣気というものか。ルージアの目には、丸みがかっている竹刀の先端が、本物の刃のように映っていた。
「八剣流、神威の壱」
大げさな名乗り上げだが、しかし伊達ではないとルージアは直感する。
剣術とは殺傷術。
古来より伝わるそれは、的確に敵を斬り殺す技として昇華されてきた。
であるならば、流派の名を受けたその技は、ルージアに対し確実な一撃を見舞うだろう。
たかが棒きれ、たかが模造品――その程度の差異は容易く覆してこその『達人』である。
生きるか。
死ぬか。
常人ならば恐怖に慄くこの状況で。
ルージアは、いたずらっぽく笑った。
その口元を、三日月のように歪める。
「そうかい。じゃあ最後ってことで、いっこだけ言い返させてもらうと」
それは、言葉も剣先も実直なその在り方に対する、ルージアなりの抵抗だ。
良かったな、そんな性格で。
良かったな、そんな身体で。
良かったな、そんな環境で。
ふつふつと胸の奥で滾るどす黒い何かが、ルージアの感情を昂らせて――
「何が正しくて、何が間違ってるかなんてさ――そう簡単に分かるんなら、何の苦労もねぇんですよなァ!」
互いの軸足が、地面を蹴り抜く。
お互いに突撃を開始した、その瞬間。ルージアは、頭の片隅で驚愕する。
先ほど竹刀を突き出した体勢そのままで、一星は直進してきているのだ。
突き技のつもりなのか。その瞬発力は確かに脅威だが、あまりに直線的だ。
ルージアの目は、その切っ先が額を貫こうとする瞬間を、容易く捉えることができる。
身を屈めると同時に大きく一歩を踏み出し、ルージアは相手の懐深くに陣取った。ルージアの振るう竹刀は、相手の脇腹から胴体を両断する勢いで奔る――
「――――」
そのときルージアは、目の端で捉えた光景から、野生の勘とも言えるような直感で悟った。
ルージアの刀が、相手へと届く前に。
いつの間にか上段から振り下ろされていた相手の刀が、ルージアの頭蓋を両断するだろう。
後の先の先。現実味を疑うほどにあり得ない話だが。
突き出された竹刀を回避し、一撃を放ったルージアよりも、さらに速く。
一星は、その驚異的な動体視力と力の流動でもって、ルージアの攻撃を追い越してきた。
「は――」
この時点で、ルージアの敗北は決定的だったが。
でも。
それは。
ルージアが、人間であった場合の話である。
ルージアの黒髪が、ざわめいた。
後
「いったーい!」
ルージアは泣きそうな顔をしながら、右手をひらひらと振っていた。
脇腹を押さえて跪く一星を目の前にして、である。
「痛い痛いいたぁーいー! やだもー、ヒドいねアレ、マジヒドだね。こっちの回避行動がパターン化されてんのか、だからあーゆーことになんの。うわこっわ。私じゃなかったら見逃してるね! っていうか死ぬわフツー! ドクタールージアのお墨付きだよ!」
左手で握っていた竹刀を投げ出して、ルージアはぺたんと地面に座り込んだ。言葉とは裏腹に、表情は極めて楽しげである。
「私の台詞だ。まさかあんな出鱈目な――」
言いかけて、一星は再度苦痛で顔を染めた。
「あ、ごめんねー、あんまり加減できなかったや。大丈夫? 湿布とか買う? あ、悪いけど仙豆の取り扱いはやってなくってサ」
「問題ない。兄様との稽古に比べれば、この程度――」
若干ふらつきながらも、一星は両の脚で立ち上がってみせた。
「いや、ハード過ぎんでしょその稽古。死線を越えるたびに強くなる的なアレなの? ホントさー、もうちょい緩ーくやることも覚えないと、身が持たないってもんでしょーよ」
「傷み入る。少しはお前を見習うべきなのかも知れないな、ルージア」
真剣そのもので、険しい表情が張り付いたようだった一星の顔が、初めて綻んだ。
それがルージアには、何よりも嬉しかった。
ルージアが本当に笑って欲しいと思う相手は、ちっとも笑ってくれないのだから。
「ンー、なんだ、意外と素直でよろしいね、お客様。ってぇことでェ、ようこそラッシャイ、カズセちゃん」
立ち上がると、一星が深々と礼をしていたものだから、ルージアも慌てて頭を下げた。
「二晩ほど世話になる。家主の不在中に不作法で済まないが。お前と立ち会えて良かった」
「あー、いやまあ、いいっていいって。私らもっぱら暇してますし?」
予定より少し早かったが、無事宿泊客を迎えられたわけだ。
すぐに帰って夕飯の支度をしなくてはと、ルージアは浮足立った。
「っと、家に帰る前に、お巡りさんとこ寄っていいかや。迷子捜索の手伝いしてたんだけど、ダメっぽいから」
「迷子? ああ、それは」
一星は幾つかの人物特徴を口にする。それは間違いなく、ルージアが探していた子どもと合致していた。
「実は私も探していた。それでここに辿り着いたんだが」
ああ、やっぱりアンタか、と。ルージアは頷くと、一星の手招きに応じて賽銭箱の方へと歩いて行った。
「寝入ってしまっていて、なかなか起きなくて。背負って連れていこうかと思っていたところだ」
賽銭箱の裏手、本殿の段差との小さな隙間に、すっぽりと。ルージアが散々探していた子どもが収まって、小さな寝息を立てていたのだった。