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「今日は鍋だよ晩ごはん!」
という前言通り、ルージアは食材の買い足しに街へと繰り出していた。陽気な足取りで、自宅のある丘から下り坂を抜け、街道沿いに市街地を行く。
ちなみにノアールの希望は焼き肉だったのだが、ルージアは即座に却下した。お前どうせ後始末しないだろ、という当然の判断である。
「なっべーなべなべ長ネギぐるんぐるーん。飲めーや食ーえやおっきゃくさーまーぐるんぐるん。安ーいおっにくーでごめんなすってーヨーソロー!」
本来ならば客の嗜好も考慮したいところだが、生憎とそんな情報はもたらされなかった。ノアールのような肉好きなのか。聯のようなベジタリアンなのか。あるいはルージアのように、油揚げさえ貰えれば地の果までもお供してしまう派なのか。まったく分からない、完全な情報無し状態である。
であれば、自分たちの都合のいいように準備するのがルージアである。工夫は凝らそう、精一杯のおもてなしもしよう。だがその結果、たとえ気に入られなかったとしても、残念でしたでハイおしまい。人を思い遣るという行為は尊いが、しかし自己満足にしか着地しないことは自明なのだから。
拘るポイントを誤ってはいけない。世の中、割り切れない悩みは尽きないのだ。割り切れるタイプの悩みなど、片っ端から捨てていかなければやっていけない。
重要なのは相手だ。
貴重な時間と労力を割いてまで、手厚く配慮するほどの相手なのかどうかが肝要なのだ。
聯の筆頭顧客の妹。なるほどそれは賓客だが。好かれようが嫌われようが、ルージアの心を動かすほどの人間ではないのだから、扱いもそれなりで構わない。
聯はルージアに任せたのだ。ルージアの責任において、ルージアなりにもてなせばいいのだ。それでも充分、与えられた仕事は完遂される。
そういう割り切りをしなくては、人間なんて脆弱な生き物は、あっさりポックリいってしまうんだろうよと。ルージアは最近になって悟っていた。
だからこそ、ルージアは。
それでも割り切れない悩みという、厄介極まる問題に辟易している。
「むーん。青が空いんだなぁ」
ルージアの心とは裏腹に、空は高く、大海原を逆さにしたような快晴だった。
そういう空気を読まない空も、ルージアは嫌いではない。青は、聯が好きな色なのだ。
この町の空は広い。山もビルもこじんまりしていて、視界を妨げるものが少ない。唯一あるとすれば、ルージアたちの住む二木家が立つ小さな丘だろうか。
しかし別段、ルージアはそれを邪魔だとは思わない。森のような一塊の木々がこんもりと茂った様はカメのようで、なんだかちょっと可愛らしい。町の守護者の住まいが亀の丘というのは、なかなかいい趣味しているじゃないか、と。特撮映画も嗜むルージアは結構気に入っていたりする。
守護者などと大仰に言っても、大した仕事があるわけではない。大した仕事をしなくていいように、日々注意しているというのが正しいのだろうか。
聯が留守勝ちなために、今はルージアだけが出張っているが。もう数ヶ月もすれば、ノアールも戦力に加わるだろう。そうしたら、なんなら自分は隠居してもいいんじゃないかと、ルージアはこっそり期待したりしていた。
ルージアは遊びたい盛りなのである。時間はいくらあっても足りないのだ。
最近はボードゲームにも手を伸ばしている。
三人でも遊べるやつだ。
「ま、ノアールはザコすぎてイカンかったけどねぃ。アイツすぐに飽きやがったし? あ、おっとそこのお巡りさーん!」
ルージアに声を掛けられて、青い制服の男性が、露骨に嫌な顔をしてルージアを見た。
三十路手前ほどの小柄な男性である。商店街へと続く道の手前、公園前の派出所で勤務中のお兄さんだった。
筋肉のなさそうな細身は正直頼りないが、こけた頬と若干飛び出し気味の目はなかなかに威圧感がある、というのがルージア評だった。彼女的には『インスマス面のお巡りさん』と言えば彼のことなのだが、聯にもノアールにも通じた試しはない。
「出たな歩く都市伝説」
「ええー、何その反応。傷付いちゃうなあ。っていうか、えっ、ナニその異名みたいなやつ! 超かっけー! おとうさんおかあさん私も有名になりました!」
わはー! と踊りだしそうなルージアを前に、男性はもう慣れた様子で、肩を竦めてみせた。
「いつものことだけど、いま勤務中なんだよね。どうせ用事はないんでしょ、行った行った」
どうやら、直前まで電話中だったらしい。片手に持っていた携帯電話を閉じ、ルージアに見せつける。
「ちっちっち、甘いんだよねぇインスマス!」
「井桝だよ……君覚える気ないだろ」
「そんなお魚大好きなインスマスくんに一言ぶつけてやりたくて!」
「帰って」
「昇進おめでとう、井桝巡査部長」
背伸びしたルージアに正面から肩をばしばしと殴られ、井桝は両眼を真ん丸に見開いた。
眼球が今にも飛び出しそうになっていて、ルージアは思わず両手で受け止める態勢を取った。もちろんフリだけ、ルージアのからかいの一環なのだが。
「いやぁ良かったねぇ。巡査長にならずに済んだじゃんさ」
「え、いや。何で知ってるの」
「ふふん、知らんのかい? 私ってばクルスちゃんとマブなのよ」
「来栖警部補!?」
「ところで何の電話してたん?」
「ちょっと待って話まだ進めないで」
なにせ上司の愚痴がクセになっている井桝である。瞬く間に額を汗で濡らし、哀れなほどに狼狽していた。
「私ねぇ。死ぬ前に一度は、羽沢本舗の高級きつねうどんを食べてみたいっていう夢があるんだよねぇ」
「警察官には暇と金がないって話知ってる?」
「え、今度非番のときに連れてってくれる? しかも油揚げ二枚と炊き込みごはんも追加だって? よっ太っ腹! おだいかんさま! あぁよく見りゃいい男じゃないかよこのイケメンめ!」
「絶対覚えとけよ君」
そういうわけで、夢を叶える算段を付けたウキウキ顔のルージアである。もちろんルージアにも慈悲はあるので、昇進祝いに油揚げの一枚くらいはくれてやろうじゃあないか、という寛大さアピールも欠かさない心づもりだ。気分はさながら餌付け上手な桃太郎である。
「んで、迷子探しだって?」
話は戻って、先ほどの電話の内容である。人海戦術においてはトップクラスの実力を持つ警察官らしい仕事だろうなと、ルージアは納得していた。
「うん、まあ。僕もさっきまで巡回してたんだけど、まだ見つかっていないんだよね」
「ふぅん」
母親によれば、公園で一緒に遊んでいたのだが、目を離した隙に見失ってしまったのだという。歩き始めたばかりの幼児にはつきものの話だが、万が一事故にでも繋がったらと思えば、親からすれば気が気ではないだろう。
それはそれとして、事の重大さの割にあまり焦りの伝わってこない目の前の警察官が、ルージアには気掛かりだった。
「子どもの脚でしょうよ、そんな遠くまで行けるわけもなし。目撃者くらいいんでしょ」
「いないんだよ、それがまったく。裏道とか細い道とかが好きな子らしいんで、そういう場所も探してはいるんだけど」
どこのノアールだよ、とルージアは呆れてしまった。
一緒に歩いていて、やたらと裏路地のような道を通りたがるヤツは実在するのだ。狭い場所は落ち着く、ということらしいのだが、薄汚くて窮屈だという印象しかルージアにはない。ルージアはお天道様大好きっ子である。
「ンー、まーねぇ。特徴とか教えてくれたら、道すがら探したげてもいいよ、私も。ケーサツのメンツより、親子の安心第一でしょうよ」
「いいの? あーでも、その、来栖さんには、僕が話したとか言わないでくれないか、なあ」
「はいオッケー! 来週出る漫画の新刊で手を打とうじゃあないか!」
もはやカモである。
井桝は悲しみのあまり腕を両目に押し当て……どうも本気で泣いている様子だった。
「ドンマイ!」
だがルージアは悪びれない。満面の笑みで親指を立てて見せる。
「くそ、なんでこんなことに……。さっきの子はなんにも言わず手伝ってくれたってのに」
「え?」
特徴を聞き終え、そのままじゃあねーと立ち去ろうとしていたルージアは、思わず足を止めた。
カツン、というブーツの軽快な音が、妙に響いて耳に届いた。
「なあに、他にも一般人巻き込んでるの? いやいいんだけど、でも『さっきの子』って。巻き込む相手ちゃんと選んでる? 流石に子どもの力借りまくってたらそりゃあ、警察というより大人としてどうなの案件にならんかね? 面目フルプレスじゃね? ブルドーザー買う?」
「いや、そんなこと言われても」
不可抗力だよ、と井桝は気弱に弁解する。
「母親から事情聴取してるところに通りすがって、いきなり『私も手伝う』なんて言って。僕が頼んだんじゃないんだ、その女の子が勝手に……」
「ほほー、正義の人ですナ」
今どき珍しいなと、今どきしか知らないはずのルージアが物知り顔で感心していた。
「しかし、なんだね。その女の子にしても君にしても、最近の子らは成長が早いっていうか」
「発育がいいってアンタ、そりゃセクハラだぜこのご時世。あれ、お巡りさんロリコンの気とかあるの? 幼児強制わいせつ罪とかで新聞の一面飾る系男子目指してるの?」
「言ってないでしょそんなこと……。見た目の割にしっかりしてるって意味だよ。いや、君の場合はしっかりしてるっていうか――」
井桝はそこで、バツが悪そうに言葉を区切ったが。
ルージアには、井桝が何を言おうとしたか、なんとなく分かっていた。
「いやいやまあまあ、ネコの手よりは役に立つでショウ! 使っとけ使っとけ。もっと上を目指す気があるんならさ、容赦なくずる賢く、他人を使うことを覚えんとナ」
「そうだけど。まだ先の話でしょ」
大丈夫かねこの人、とルージアは本気で心配になってきた。とは言え、そこまで口を出せる立場でもないので、本人に任せておくことにする。
「じゃ、そろそろお暇しますわお巡りさん。長生きしろよ!」
「毎回そう言われると、逆に近々死ぬような気がしてならないんだけど……」
「この迷子捜索が終わったら結婚するんダロ?」
「しないって」
ノリの悪い男である。が、ルージアとしてはそれでも面白いのでアリだ。
この男は、ちゃんとルージアを相手にしてくれるから。
「んあ」
回れ右をして、数歩進んでから。ルージアはふと思い立って、井桝の方を振り返る。
「さっきの報酬のさ、新刊の話だけど」
「分かってるよ……準備しとくから」
「いや、そうじゃなくてさ」
ルージアはひまわりのように笑って、右手でピースマークを形作った。
「羽沢本舗の高級きつねうどん、もう一人前追加に変更ってことで、よろしくドーゾ!」