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「てなわけで。八剣 一星またの名をカズっちは、無事お家に帰られましたとさ。でめたしでめたし」

 携帯電話を耳に当て、ルージアは陽気に報告を締めくくった。

 ルージアが座っているのは、昼間に一星が演武を披露した講演会場、その客席の最前列である。

 ただし、あのときと違って真っ暗だ。さらに、今ここは完全に立ち入り禁止となっており、ルージア以外には誰もいない。いや、もしそうでなかったとしても、もうすぐ零時を回ろうとする深夜では、人の気配などそもそもなかったかも知れないが。

『そう。ご苦労さま、手間を掛けさせたわね』

 だが、聞こえる声は二人分だった。

 無機質な声質なのは、電話越しだからではあるまい。関心の薄そうな小さな声が、スピーカーから漏れている。

「いーよ、聯様」

 ルージアは嬉しそうに、通話相手の名を呼んで、

「そういうお仕事だったし。それに、すっごく楽しかった。会えて良かったと思うんさ、心っから」

 そう、と。また、電話先から相槌が聞こえる。

 いつものことだが、何かの作業中らしい。会話の端々で、奇妙な間が挟まったりする。

『衣服に損傷ね。帰ったら直すから、それまではスペアで我慢してね。場合によっては作り直すから、少し時間は掛かるけれど』

「ごめんねぇ、気ぃ付けてたんだけども」

『気にしないで。多分これのためでしょうね、八剣の報酬に色がついていたのは。試算だけど、それで充分(まかな)えると思うから』

 そうなのか、とルージアは小首をかしげる。

 無粋だとでも思ったのだろうか。別れ際にも、一星は何も言っていなかった。

『貴方によろしく、と言付けられたわ。よく案内してくれたと。一星あのこは元気だった? 私がまだ学生の頃に一度会ったきりだから、もう随分と顔を合わせていないのだけれど』

「あー、そんじゃあ、結構成長したんじゃないかねぃ。背丈は私とおんなじくらいだったので」

『…………』

 おっといけない、とルージアは舌を出す。

 体格、特に背丈の話題は聯には禁句である。

 もっとも、だから口をつぐんだりなど、ルージアはしないのだが。

 コンプレックスを言い訳にして、縮こまっていて欲しくはないのだ。

『この、藤木という人は?』

「あ、古物商さんだって。とりあえず会うだけ会ったげてよぅ。たぶん気が合うと思うんだ」

 ふぅん、とあまり乗り気でない様子の聯だったが。会わないと言わない限りは会ってくれるはずだ。

 これで義理は果たせそうだと、ルージアは一つホッとする。彼の怪我は、ルージアの行動次第では、防げたかも知れなかったのだから。

『最後に、貞親という刀についてだけれど』

「……うん」

 最後に。

 もう、最後なのか、と。

 ルージアは、悲しくなりながら。子どものように、もっと話していたいと、わがままを言いたくなりながら。

『貴方の見立てで、進度はどのくらいだった?』

「私が見てきた中ではいっとーヤバめ。そこいらのぽっと出とじゃあ比べる気にもならんさね。だってあれ、作られてから五百年くらい経ってるって話よ。もーっとタチ悪い性質だったらば、もう八剣兄が出張るレベルなんじゃん?」

 聯の手が止まった気配がして、意味のある沈黙が流れる。

『それは。本当に任せていいの?』

「まあまあ、勝算はありますよってご心配なく!」

 嘘だ。

 そんなものはない。

 これからルージアが立ち向かおうとする相手、その正体はなんら確定していない。算段など立てようがないのだ。

『そう。貴方が言うのなら、任せるわ』

 聯は、特に疑う様子も見せず、あっさりとルージアに対処を委ねた。

 そこにあるのが信頼ではなく、単なる無関心だったとしても。

 それでいい。

 それがいい。

 ルージアに勝算はないが、しかし、戦う理由ならばある。

 一星は、逃げなかったのだから。

 ここでルージアが逃げる訳には、絶対にいかなかったから。

 だから。

「ありがとう、聯様」

 もしもこれが最後になっても、悔いが残らないように。

 今までのお礼だけは、欠かさず言っておきたかった。

「ご褒美、期待してもいいのかや?」

『そうね。案内とは別に、この件の報酬については相談しましょう。なあに、欲しい物でもあるの?』

「ふっふふー!  ナイショでーす! じゃ、帰ったら話そうね! 忘れちゃヤダかんね!」

 ここで口にするのも恥ずかしい。ささやかな願いだ。

 それのためだけにでも、ルージアは頑張れる。

 そんな風に考えられるようになったのは、きっと一星のおかげだ。

 後に託せる誰かがいる。

 彼女なら、大好きな人を、きっと認めてくれるから。

 一星ならきっと、聯に。本当の笑顔を、取り戻させてくれるから。

『じゃあ、切るわね。終わったら、とりあえずメールだけお願い』

「らじゃー。聯様も、あんま夜更かししてちゃダメよ」

『ええ。考えておくわ』

 考えるだけだろと、ルージアは突っ込んでやりたかったが。

 その時にはもう、通話は切れてしまっていて。

 単調な話中音だけが、冷たく流れ続けていた。




 警報装置の類は、ルージアには効果がない。

 厳重を厳重で囲んだような防犯システムは、ルージアが歩こうが鼻歌を口ずさもうが、うんともすんとも動かない。

 ルージアは、人間ではないのだし。

 それでも捕捉してくる機器は、聯の道具で無効化できる。

 聯の手掛けた道具は、常識はずれの特別製だ。

 聯が、ルージアやノアールを、その手で創り出したように。

 夢のような秘密道具だって、彼女は作れてしまうから。

 ルージアの、自慢の聯だから。

「――は」

 胸の痛みを押し退け、ルージアはさらに先へと歩を進める。

 刀剣展は今日で中止となった。明日警察に押収されるまでの間だけ、本物の宝刀『八重洲八坂貞親』は、あるべき展示スペースに舞い戻ってきていた。

 装飾は片付けられ、広い個室にただ一つ、その宝物は配置されている。

 ルージアがここに来た理由。それは、貞親という刀が『本物』だったからに他ならない。

 本物とは、つまり真作であるという意味ではなく。

 喫茶店で、ウエイターのあかねが語っていた『いわく』が、本物だったという話で。

 だから。刀剣の目の前に立ったルージアには見えている。

 刀剣を囲うガラスケースの上に揺らめく影が、天井に向けて吹き上がっている。

「はてさて、いやまあ、何というか。神様だとか幽霊だとか思念体だとか? そういうのは割かし面白おかしく、自分勝手好き勝手に語り草にして遊ぶのが、人間の楽しみ方ってモンでしょうよ。当のご本人様方には是非とも空気を読んで、よそ様を迷惑がらせないよう大人しめに、日々を過ごしていただけると!」

 明るい声が、暗闇を照らすことはない。

 音は防音の壁に吸い込まれる以前に、目に見えない何かへと飲み込まれ、押し潰された。

「ああ、ひょっとしてアレかや。独り言のでっかい奴が来たなぁってスルーしてんの? やべぇヤツには関わらないでおこうって、オイオイ常識人じゃああるまいし! 実は見えてるけど見えてないフリしてる系主人公に素敵な笑顔をプレゼンツすんのが、キミら的にはナウい流行パターンなんダロ? そこはそれ、ぶっちゃけ煎じすぎて味なくなってきたもんで、そろそろ逆パターンも仕入れておこうぜ。ええっと、そこの落ち武者スタイルのなにがしさん?」

 ぎょろりと、影の上部が回転した。

 天井付近で、髑髏ドクロの『面』が振り返った、ように見えた。

 しかしソレは、仮面や被り物の類ではなく。血や腐肉にまみれた、汚らしい『本物』であることが明白だった。

 くら眼窩がんかの奥に紫煙を覗かせながら、ルージアをじっと見つめている。

 そして、徐々に影が形を持ち始める。

 甲冑、胴丸。下級武士が纏ったとされる大昔の防具。所々が剥げ、砕け、しなびたそれはすでに、役割を果たせるようには思えなかった。鎧の隙間から覗く先にも紫煙が立ち込め、奥からは時折、頭部同様の人骨がうごめく。

 白骨の兵士。しかし『誰か』ではないのだろう。その影は一人のものだが、しかしルージアにはダブって見える。恐らくは、貞親が斬り殺してきた人間たちの集合体。無念の中で、死を迎えた者たちの怨念が凝縮された、この世ならざるものなのだろう。

「――よく喋る、木偶でく人形だ」

 気だるげな声が、影や頭蓋ではなく、その根源である刀の方から聞こえた。

 ルージアは思わず顔をしかめる。男とも女とも取れないノイズ混じりの声は、さばえの羽音のように不快だった。

「我らの糧は、人の欲、人の業、人の魂。であるがゆえ、人未満に用がなかっただけのこと」

「むむ。そいつは心外ですナ。せっかく会いに来てやったってぇのに」

 カチカチと、金具の擦れる音がする。

 それは影の足元、貞親そのものから聞こえてきているようだった。小動物のように早い心拍。まるで生きているような――いや。生きているわけがないが、それでも動いているという怪現象。今ルージアの目の前で起きているのは、そういう類の事象である。

「何用か、木偶」

「何用ってそりゃあ、お仕事ですよ」

 ふふん、とルージアは得意げに笑う。

 左手の刀を、魔法のステッキのように掲げ、誇るように胸を張る。

「街の案内人的なアレは仮の姿! 時にチャンバラやらかして、時にお巡りさんやサ店アルバイターから情報を聞き出して。フシギフシギな事件を解決する謎の狐耳っぽい何かが付いた謎の和服少女その謎めいた実態はァ! なんとなんとのなんかこう! ゴーストバスター的な何か! なのさ!」

 貞親は沈黙した。

 沈黙に沈黙を重ね、さらに沈黙を続けた。

 比喩ではなく、なんの音も返ってこなかった。

「いや、ごめん、無視しないで? リアクションちょうだい? マジで恥ずかしい」

 貞親は変わらず、ルージアを凝視している。

 ――嫌な感覚だった。

 ありていに言って気持ち悪い。

 裸に剥かれ、視姦しかんでもされているように、ひたすら嫌悪感だけをあおられる。

 心の奥底まで見透かされている。ルージアには、そんな風に思えて仕方なかった。

「ちぇー、つまんないの。ま、相手してくんないなら、私もそのつもりでやりますよって。ほんじゃまあ、登場六十秒とかそれくらいのところ申し訳ないんだけれど、ご退場いただいてよろしいかいね?」

 ルージアは、手にした刀の柄を握る。

 愛刀『京北秘幻』、その影打。

 まさしく今、ルージアの目の前にいるような魑魅魍魎ちみもうりょうを、既に数十斬り伏せている、退魔の刃。

 敵は未知数だが、斬って消滅さえしてくれるなら、それ以外のことはどうでもいい。

 絵本と同じだ。

 それは確かに、聯から贈られた武器なのだから。他の何より、あるいは自分自身より、強く深く信頼できる。

 大好きな主から貰った刀で、大好きな主のために働く。

 それこそがルージアの幸福であり。

 いつか聯に、心から笑って欲しいという願いのために。今も今までも、そしてこれからも、ルージアは戦い続けるのである――


「貴様、誰を殺したい?」


 ぞっと――した。

 貞親の亡霊が沈黙を破り、言葉を発したのだ。

 生暖かい風に首筋を舐められたようで。ルージアは、思わず愛刀を落としそうになる。

「――かッ」

 貞親が、わらう。

 三改木と同じく、押し殺したように。今際の喀血かっけつのように。

 そして、何度も、何度も、何度も。

 愉快でたまらないというその笑声を、繰り返した。

「何が、おかしいね?」

 ルージアの声色が、一転していた。

 潜んで、怯え隠れるような、感情を抑えた声。

「これが、笑わずにいられるものか」

 ルージアは刀を左腕ごと、胸にぎゅっと押し付ける。

「先の言葉を訂正しよう、娘。その器は、なるほど不出来な紛い物なれど。そこに宿る欲は、業は、魂は、あまねく人間が抱くそれと相違ない! いや、いいや。その屈折した願い――なんと食指の動くことか。かような脆弱ぜいじゃく極まる土壌でもって、よくぞそこまで育て上げたものだ!」

 饒舌じょうせつに繰り出される言葉と共に、ルージアが後ずさる。

 向かい風が吹くでもなく。

 霊的な圧が掛けられている訳もなく。

 ただ、その言葉に。ルージアは気圧される。

「我が刀身は、人を殺めるもの。ゆえに殺意こそが我が糧である。そう、あの男――龍心といったか。あれもなかなか鬱屈とした感情を抱えていたが。お前のそれは、比べるまでもなく極上であろうよ」

 やっぱりかと、ルージアは歯噛みする。

 持ち主の殺意を増幅し、それを喰らってながらえる魔物。それがこの刀――いや、この刀に宿った獣の正体である。

 これに関して、一星の所感は大きく外れていた訳だ。

 この刀は真実、人を魅了し、惑わし、操り、奪わなくていい命を奪うモノ。背負わなくていい罪を背負わせてきた怪異。

 元は善良だったはずの三改木も。

 無意味に殺された野良犬の親子も。

 この亡者は、一体どれだけの生を、命を、弄んできたというのだろう。

「そう睨むものではないぞ、娘。生き物は生き物であるがゆえ、殺さなければ生きていけないものだ。殺意など誰でも持っている――それはお前自身が、誰より理解できるだろう」

 それは。

 何を馬鹿な、と。でたらめを言うんじゃないと。そんな言葉が、喉の奥に詰まって、呼吸さえおぼつかなくなった。

「やめて」

「隠す意味なぞどこにある。抑える必要がどこにある」

「いや、だから」

「分かる、分かるぞ、その膨大な赤い熱、仰ぎ見るほどにとぐろを巻く殺意。憎しみ――否、これは慈愛に属するものか。逃避のための殺害を好むのか? 救いのために人を殺したいのか?」

「やめてよッ!」

 叫んだ。

 堪えられなくなって、振り払うように。

 ルージアは、その瞳を虚ろに濁した。

「――感服するより他にない。万全な人の身体とて、かように激烈な感情は耐えがたかろう。自決を選ぶ者とて少なくあるまい。それを、そのような人造の身体で、よくぞこれまで無事に生きてこられたものだ。禁欲もここまで極めれば、なるほど神や仏を垣間見ることができるのやも知れぬ」

 刀を杖にして。ルージアは、ふらつく身体を何とか支えた。

 息が荒く、不規則だった。

 殺したい。殺したい。殺して、殺して、そして楽にしてあげたい。いい加減、休ませてあげたいと。

 胸に秘したその願いの本質を、ルージアは誰よりも理解していたから。

 だからこそ大いに笑い、だからこそ大いにはしゃぎ――そのような悪性を、誰にも気取られまいとしてきたのだ。

 それまでずっと歩いてきた道の長さを、いま初めて自覚したかのように。

 ルージアの意識は、秒刻みで削り取られていった。

「辛かろう、娘。その苦しみに敬意を表し、我が刀を扱う権利をくれてやろう」

 聞きたくない。聞きたくない。これ以上何も聞きたくない。

 ルージアは唇を、砕け散るほどに噛み締めながら。

 それでも、動こうとはしなかった。

「我が貞親によって殺すのだ。貴様が殺したい者を。それを遮るすべての敵を。そうすることで初めて、貴様はその苦しみから解放されるのだから」

 それは、蠱惑こわく的な誘いのように思えた。

 本当に、辛かったのだ。

 本当に、苦しかったのだ。

 毎夜のように、膨張するその殺意に苛まれ。

 一つ夜を越えるたび、心の底で何かが壊れた。

 生きていて欲しくて。

 でも、死んで楽になって欲しい。

 矛盾が。誰にも理解されない矛盾が。いや、理解されてはいけない、こんなにも重く恐ろしい願いが。

 目玉をくりぬき耳を貫き、この胸に大穴を開けてやろうとも。それは決して、決して消えてはくれないのだから。

 もう嫌だと、何度思ったことだろう。

 もう楽にして欲しいと、何度祈ったことだろう。

 願いは、報われるからこそ綺麗なのだ。

 報われない願いなど。報われるべきでない願いなど。腐臭の漂う、汚泥の塊でしかないのだから。

 見ていたくない。

 聞きたくない。

 ただ脳裏に浮かぶことさえも、拒絶してしまいたかったのに。

 それが、破滅しか生まないことを理解しても、それでも。

 止められない願いを。

 矛盾し続ける願いを。

 抱えて、生きるしかないと。

 ルージアは――諦めたのだ。

「――なあ、アンタ」

 ルージアは、苦しげに問い掛ける。

「一つ、聞かせておくれ」

 ささやくように、並び立つ誰かに送るように。

「人殺しは、悪だよな?」

 その言葉を、やっとの思いで引き出した。

 最後の理性を手放さないために。

 崩れかけの身体にすがるように。

「決まっているだろう」

 一切の途切れも、迷いもなく。獣は答える。

「悪などであろうはずがない。何人なんびとも他者を殺めてはいけない――などという愚法は、我らの生きた数百年前にはなかったれ言だ」

 戦乱の時代。

 安定を得るために不安定を飲み込んだ、善も悪も不確かな世界で。

「この刀の起源。ときに斬捨御免という特権さえ許容される世にて。元より人を殺すため、刀剣という凶器は生み出されたのだ」

 あらゆる刀匠は腕を振るった。

 それが何人の命を救い。

 それが幾人の命を奪うのか。

 想像しきれるわけもなく、それでもつちを振るい続けた。

「このような場所で。人を殺すための道具を愛でておきながら。人殺しを悪だなどと、そのような言葉は偽善に過ぎぬ」

 だから、悪ではないのだと。

 そのように測ることさえ冒涜ぼうとくであると。

 刀に宿りし思念は吠える。

 己の在り方こそが、真に正義であるのだと。

「――いいや」

 ルージアは、弱々しく首を振った。

 押し潰されてしまいそうなのに。

 それくらい、心が痛んで仕方なかったのに。

 それでもルージアは、逃げようとはしなかった。

「私は、思わないよ、そんなの。だって、悲しいじゃんさ。人が死んだら、悲しいじゃないか」

 聯が。

 ノアールが。

 そして、一星が。

 物言わぬむくろとなった瞬間を思い描くたび、ルージアは吐きそうになる。

 その最悪の光景を、幻視するたび死にたくなる。

 誰かが死ねば、悲しいじゃないか。

 大切な人なら、なおのことで。

 自分が悲しくなかろうと、誰かが泣くことになるのなら。

 誰かの笑顔が、奪われてしまうのなら。

「だったらそんなの、やんない方がいい。人殺しは、悪いことなんだ」

 なぜ人を殺してはいけないのか。

 そこに、哲学の介入する余地などない。

 誰かが悲しむから。

 ただそれだけで、充分なことじゃないか、と。

「――かッ」

 貞親が、わらう。

 明らかなあざけりの意思を持って、増長する。

「笑止! 笑止! 笑止! 語るに落ちたり、小娘よ!」

 言葉が、ルージアの身体に刺さるようだった。

 単語が一つ発せられるごとに、身体を弾丸が撃ち抜いたような、強い衝撃が走った。

「人が死ぬことで誰かが悲しむ? なるほどそういうこともあるだろう。しかしな――では、その者が生きていることで悲しむ誰かはどうなる?」

 その言葉の意味を、ルージアはすぐには理解できなかった。

 いや。理解したくなかったのだろう。そのような現実からは、ずっと目を背けてきたのだろう。

「生きた誰かに、永劫苦しめられる者がいる。そういった者は、一体誰が救ってくれるのだ? ああ、全くもって度しがたい。法にのっとり、殺人者を縛り上げ牢にぶち込み、罪を償わせることが人道的で平和的であると、貴様らはのたまえつに入る。その裏で、遺された者たちは死ぬまで苦しみ続けるのだ。罪人が罪を償おうが、更生して心を入れ替えようが、事実は何ら変わりはしない。愛した者が殺されたというのに、殺した側はのうのうと生きているという地獄を、死ぬまで見せつけられるのだ」

 殺したいほどの憎しみを。

 人生を破滅させるほどの怒りを。

 平和をたっとぶ心が、本能的な感情さえ、根本から否定している。

 人は平等であり。殺人者もまた人であり。最低限度の人権と尊厳が、確約されているのだと。

「そういった者のことを見て見ぬふりして、殺すことを悪と決めつけ、さも己は正義であるかのように振舞う。これを偽善と言わずなんとする。人を殺すことが悪だというのならば、人を生かすこともまた悪なのだ。さればこそ、そのような思想は認められぬ。人を殺すという所業、それもまた、正しき人の生である」

 人殺しは悪ではない。

 それが。戦禍せんか渦巻く時代を生き抜き、ようやく訪れた平和の中で。黙殺された絶望を見続けた刀に、寄り集まった一つのことわり

 ともすればそれは、一星の語った善悪論よりも、ルージアの感性に近かったかも知れない。

 事実として、ルージアは共感していた。

 ルージアは知っている。

 死にたいと思うほどの苦しみを。

 すべて投げ出してしまいたいと叫ぶ、心の痛みを。

 覚えている。覚えている。覚えている。

 ルージアのものでない、生まれる以前のどこかの記憶。

 爆裂する鉄の塊、地獄のように上がる火の手。この世の終わりを感じさせるほどの絶叫。

 最愛の人たちの、命が尽きるその瞬間。

 そんなものを、抱えて生きるくらいならば。

 いっそ殺した方がいいはずだと。

 否、もとよりこの身体は、その願いのために生み出されたのだと。

 その理屈を、ルージアは今もなお、否定しきることができないから。

 生かす殺すに、善悪はない――本当に?

 誰かが悲しむから、殺すことは悪である――本当に?

 殺すことで救われる何かが、この世界には、きっと――

「認めよ、その殺意を。認めよ、我が意思を。さすればその願い、必ず叶えてみせようぞ」

 貞親は、歓喜に打ち震える。

 新たな担い手の誕生に。

 次なる殺人の予感に。

 ルージアがそれを手にしたならば。あるいは、この世全ての人間を、殺し尽くしたかも知れなかった。

「――そうかい」

 ルージアは、愛した刀を持ち直す。

「私もさ。アンタの言うこと全部が、間違ってるとは思わないよ」

 両の足で立ち、ゆっくりと前を見据える。

「ってかね、思えないよ。思う資格なんてないんだろうさ。――でも」

 でも。

 それでも。

「それでも私は、殺さない」

 ルージアは、ずっと諦めていた。諦めて、自ら傷付き続けてきた。

 矛盾は軋轢あつれきを生み、軋轢は亀裂を広げ続けた。自分が耐えれば、抱えていればそれでいい。そうして凌ぎきろうとしていた彼女は既に、崩壊する一歩手前にまで至りつつあった。

 けれどその諦めは、たった一つの出会いによって、別の意味を持ったのだ。

 諦めて抱えるのではなく。覚悟と共に背負うのだと。

「殺したい、でも、生きていて欲しい。そのどちらもが、嘘偽りのない私の本心だから。私は、この矛盾と一緒に生きる。殺さないで、生きることを決めたんだ」

 大切な友達が、その生き様で示してくれた。

 これまでの苦しみを、ほんの少しでも包んでくれて。

 これからの道のりを、ほんのわずかでも照らしてくれた。

 そんなつもりなど、当人にはなかったかも知れないけれど。

 それでも。

 そうだとしても。

「生きて、生きて生きて、生き続けて! それが正しいことだったって、この手で証明するために!」

 ――ただそれだけで。ルージアは心底、救われたのだ。

「コーン! 愉快なお喋りはハイここまで! アンタを、アンタの価値観を。私が認めるとか認めないとか、ンーな話はハナからしてねぇのですよ!」

 ルージアの髪が、それ自体が生きているかのごとくのたうち、そして徐々に伸張していく。

 地面にさえ届くほどの長い黒髪――それこそが、ルージアが真に全霊を尽くす、彼女本来の姿であり。

 ざわめく心は高揚し、感情が活力を生み出す。

 そして。

「こっから先はお仕事だ。なぜに川を渡るのか? そこに川があるからさ。なぜにお山へ登るのか? そこに山があるからさ!」

 さやより引き抜かれしは、京北秘幻。

 持ち主の心を映し出したような乱れ刃。司りし理は幻惑の影。

 しかし、澄み切った刀身は清流のよう。

 悪鬼羅刹を祓い清める白い刃。貞親に勝るとも劣らぬ、かみの両手が創りし大業物。

「そこにアンタがいるのなら! 私はアンタをぶった斬る!」


 ――ここに、第二幕は開かれる。

 生きるか死ぬか。生かすか殺すか。その境界で。


 ルージアは笑って、走り出した。

 マニケイズム、善悪二元論。ニーチェについて語りたかったわけではない。

 作中の『生かすか殺すか』においても様々な見方があるように、二元論とか言いつつ全然二分されてねぇのが善悪の問題でございます。多分、善悪という言葉を最初に使った人が『善の反対は別の善』みたいな理屈を見たら憤死するでしょう。


 私としては『押し付けてこないうちはどうぞご自由に』というのが唯一の正解だろうなと思っています。

 昔は不自由だったので、自由を! 自由を! 自由を! とどこぞのダンディボイス大隊長みたいに連呼したがるのは分かるんですけど。その自由の押し付けが横行する現代はどうにも、まだまだ人間様は不自由でいたいのだなぁと感じる今日この頃。

 そもそもにおいて善も悪も、人間がその豊かな想像力で勝手に作り出したフィクションだっていうのに。神様や仏様とおんなじように。なのになぜそんなにも、他人に強要したくなるほどに自信満々なのか、私にはどうにも分かりかねます。


 さて今作、ルナールルージュ・マニケイズム。

 十年近く書き続けてきた夏夜の鬼と、そのメインストーリーである冬夜の巫の間の連載となりました。

 今作に手を付けた理由は色々あるわけです。冬夜の巫の構想がまだまとまっていないため、冬夜の巫のメインヒロインである一星のキャラクターを確立させるため、当分出番のない二木さんちにフォーカスを当てるため、一度長編を書き始めると他が書けなくなってしまうため……などなど。

 なんか若干ネガティブだなぁと列挙してて思いますけれど。書き上げてみればやはり、楽しかったなという感想がまず浮き上がる。個人的に書きたかった『女の子がひたすらキャッキャウフフする物語』も書けましたし。まあまあ大満足ですよ。この世には美少女以外要らねえ。


 書くことが楽しくなくなったらお終いだ。お金を得るために書くことはあんまり楽しくなかったし、評価を得るために書いていてもモチベーションは下がりっぱなし。どちらも『他人を動かさなければいけない』ことに変わりなく、それがひたすらに性に合わず面倒臭く、上手くも行かないものだから。

 じゃあもう、好きなように書いてればいいじゃないかと。せっせと流行を追いかけてばかり、他人のご機嫌を伺ってばかりいる人たちを尻目に、私はひたすら我が道を行くのです。コミュ障極まる私からすれば、人のいない独りよがりの道の方が、気分良くどごまでも歩けるのだから。

 そんなのまちがってる! そんなんじゃいみがない! なぁんて思った方は、是非ともこのあとがきを、もう一度最初から読んでいただけますと幸いです。


 さて次作、はまだ未定。

 冬夜の巫を書き始めるか、それとも別の作品をまた何か出すか。何か要望ある方います? いない? ですよね。

 まあなんか、楽しそうなヤツ優先で。自由気ままに好きなように、書きたいものを書いていくのがよろしい。


 それでは、また次作にてお会いしましょう。

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