21
「よーすカズっちー。おっつかーれーしたっ」
頭上から呼び掛けると、一星はゆっくりと顔を上げ、ルージアに微笑みかけた。
「気に入っているのか? その鳥居の上が」
「ンー、やぁ別に。煙となんちゃらはホニャラララっていうアレですよ、にはは」
飛び降りつつ、ルージアは一星の様子を窺う。見える限り、外傷は負っていないようだった。袋に包まれた竹刀も健在と思われる。
別れたあとに落ち合う場所は。両者一致で、この双神神社の鳥居になった。
二人が、初めて出会った場所だから。
「強かったかいね? あのおじいちゃんは」
「あまり」
素っ気なく一星が言うものだから、ルージアは思わずにやけてしまった。
「結構速かったろ? あの居合。間近で見て、うわちょっとこれヤバいかやって思ったんだけども」
「抜刀の出所が丸見えなんだ。あの流派は――というか、実用に足る居合など一握りだけだ。まったくの初見でもない限り、止めるのは容易い」
「ンー? でも、前は負けたーとか言ってなかった?」
「八剣の居合部門がな。宗家の敵ではない。第一、打ち合った訳でもなし」
見せ方の問題だ、と一星は言う。
剣道らしい剣道というものを知らないルージアには、どうにもピンとこない話だったが。特段興味深い話でもないので、あっさりと別の話題に切り替えることにした。
「ま、今頃は無事、手錠ガッチャンコされてる頃でショウ。びっくりしたよぅ、まさかクルスちゃんが直々に出張ってくるとは思わなくってサ。テキトーなスタッフさんに伝言頼んで逃げてきちゃった」
「来栖? 知り合いの警部補ではなかったのか?」
「捕まるとお小言長いんだもん、あの人。仕事中は特にネ」
お昼食いっぱぐれちゃうぜ、と。ルージアは苦笑いを浮かべた。
先約があるのだから。そちらを優先するのは当然だろう、と。
「まあ、であれば心配は無用だろう」
「あーいや。私が言うのもなんだけど、大丈夫かいね? お弟子さんたちとかその辺が、お師匠様の奪還作戦に打って出たりしない?」
「その心配こそ不要だろう。三改木を止めたかったのは、弟子たちも同じだったらしいからな」
三改木門下の黒服と、一星も会っていたらしい。それどころか、三改木を倒したその場で、礼まで言われたのだという。
「白刃に映る、理と心。光なき地獄のような道であろうと、それさえあれば迷うことはない。三改木が説いた教えだそうだ。その教義を今一度、見つめなおしてみたいと」
「ふーん? んじゃあま、あのおじいちゃんもそのお弟子さんたちも、なんとか立ち直れるかもだぁね」
時間はかかるかも知れないが、と一星は付け加える。
今回の事件は、出会い頭の事故のようなものだ。三改木の悪事は決して許されないが、かといって取り返しのつかないものにはならなかった。
三改木や彼の一門にどのような沙汰が下るのか、それは分からないが。その後どうなるかは、本人たちのやる気次第といったところだろうか。
「カズっちが頑張ったからさね」
「身体を張ってくれたお前に、そう言ってもらえると救われる。着物は直せそうか? ルージア」
襦袢ごと、胸元をばっさり切り裂かれた茜色の着物は、応急処置とばかりに安全ピンで繋ぎ留められていた。このまま街中を歩くのも気が引ける話で、一度家に戻った方が良さそうな状況である。
「私にゃあ無理だな、聯様にお願いしないと。はー、しっかし見事にスパッとやられたもんですナ! せめて三徹くらいで終わるといいんだけど!」
「寝ずの三晩で直るものなのか? そもそもに」
そのあたりは、聯のみぞ知る話である。他に優先度の高い仕事をどれだけ持ち帰ってくるかが争点となるだろう。
「……貞親は、警察の手に渡るのだろうか」
物憂げな表情で、一星は、朝よりも晴れ間の広がった空を見上げた。
宝刀『八重津八坂貞親』。持つと人を斬りたくなるという刀は、新たな事情をこさえてしまったわけである。警察としては、そのまま美術館に返してしまう訳にもいくまい。
「ま、いわゆるところの凶器だしねぇ。重要証拠品ってヤツ? フジッキーは果たして取り戻せるのだろうか!」
「奴も多少は懲りただろう。いや、私が言っているのはそこではなく」
うん、まあ。とルージアは頷く。
本物だからこその処置が、あの刀には必要なのだ。
「今晩だけは、あの美術館に置いといてもらえるよう、お願いしておいたので。あ、見に行きたいなら今のうちジャン?」
「――いや」
一星はきっぱりと首を振って、
「縁があればまた、出会うこともあるだろう」
広がる青空のように、清々しい顔で、そう言った。
「……そうかね。なら、まあ」
いいんでないの。
後腐れないなら。
一星は決着をつけたのだ。
一つの区切りを終えたのだ。
であるならば。ここから蛇足を添える必要もないだろう。
そんなものは、彼女の目耳に届かないところで、静かに済ませればいいだけの話だ。
「いっこだけ、さ、カズっち」
「なんだ」
「聞いておきたいことがあって」
だから、これは。
ルージアにとっての、個人的な問題だ。
「聞き方の整理がついたのか?」
「そうそう、そのとーり――ってあれ、私それ口に出したっけ?」
「昨夜のお前は、そういう顔をしていた」
「どんな顔よソレ」
顔が火照ってきたのを隠すように、ルージアは神社の奥へと歩いた。
一星は、後ろからついてきているようだった。石畳を踏む二人分の足音が、人気のない境内に吸い込まれていく。
「もしも。そうさね、もしもの話さ」
その実、言うほど整理できたわけではないのだが。
それでも、台詞を繋げていく。
どうしたら、分かってもらえるだろう。
どうしたら、望んだ答えが貰えるのだろう。
そんなことを、思いながら。
「三改木のおじいちゃんがさ、正真正銘の悪人でさ。もうホント、更生の可能性なんかこれっぽっちもない、娑婆にいたら秒で人を殺し続ける、みたいなヤバい人になっちゃったとしたらさ」
仮定の話である。
だが、あり得ない話ではなかったかも知れない。
一星が止めなければ。現実になっていた可能性は、決して否定しきれない。
「殺すかい?」
「殺すだろうな」
一星は即答した。
何ら悪びれることなく。悲しみや辛さも見せることなく。ただ淡々と。
それはきっと、仮の話だからではなく。一星は本当に、その状況でならば躊躇いなく、人を殺すのだろう。
「殺さなければならないだろう。そうしなければ、無辜の民が死ぬなどという悪を、見過ごすわけにはいかない」
悪は、正さなければならないのだから。
一星は、ルージアが予想した通りの答えを示した。
「悪――」
ルージアは呟いて、その言葉の意味を反芻する。
悪とは、なんだ。
正義とは、なんだ。
それは、果たして。一星のように、八剣のように、明確な線引きでもって分けられるものなのだろうか。
人の可能性とは。
集団に理解されない個人が、抱えさせられてしまう罪とは。
分からない。
ルージアには分からない。
分からないから。ルージアは呆然とした心地で立ち止まり、砕けた石畳の欠片を拾い上げた。
「正しくなかったら。生きてちゃいけないのかね」
少しだけ、拗ねたような心地で。ルージアはそう問いかけた。
「当然だ。勧善懲悪は、この世の真理であるべきなのだから。悪は滅びる定めであり、正義には悪を滅ぼす義務がある。それこそが、この世界の摂理なのではないか」
ルージアは、その言葉を否定しきれないことが、悲しかった。
誰だって間違えることはあるのに――いや、違う。
何が正しくて。
何が間違いなのか。
いったい誰が、そんな定義を設けたというのだろか。
それが神様の、それとも界様の思し召しなんだとして。それが悪意からくるものではないと、どうして信じることができるだろか。
ルージアは、胸のざわめきを止められない。
悪を殺すことが正義だというのか。
もしもそうだとするのなら。正義を殺すものは全て、悪だということなのか。
だとしたら。
そうだとしたら、自分は――
「だが、ルージア」
背後から、優しい声が聞こえた。
抱きしめられるように痛かった。
ルージアは、手の中の破片を強く握る。
「善悪の区別を付けるのはいつも、後世の時代を担う者たちの役割だ。自身らの歩む道は、過去の先人たちが戦い、正義を成したからこそ在るものなのだと振り返る。そうして初めて、正義というものは証明されるんだ。その時々を生きる人々――それを包括する界に選ばれたもの、それこそが善であるからこそ」
正義の証明。
後世に生きる人の役割。
「厳密に言えば、今この時を生きる我々に善悪はない。法令、人の定める罪や罰などは、しょせん便宜的な代物、かりそめの善悪だ。だがそれでも、己こそが正義であると謳うなら。この世界に、胸を張って生きられる存在であると自負するのなら。その責務を果たすべく行動し、後の世の繁栄を築くための礎として戦い、勝利し続けなければならない。力なき正義では、いずれ悪と断じられてしまうから」
それはまるで、最初から用意されていた解答のように。
あるいは、一星自身もまた、苦悩の中から見出した答えであるように。
「お前が何を悩んでいるのか、今もって私には分からないよ、ルージア。だが、自分が正しいか、そうでないか。それはそこまでして、思い悩むものではないだろう。少なくとも、私はそう思う」
自分が正義かどうかではなく。
自分の正義を、信じるか、否か。
何事もはっきりと言う一星の、思い遣るような、不器用な声が。
ルージアを救ってくれるのと同時に、苦しいほどに胸を穿った。
「――でもさ」
言葉が上手く続かない。
一星のように、そこまで潔く、気持ちの整理なんか付けられない。
自分の正義を、信じられない。
「だって、私は」
なぜなら、ルージアは。
ルージアがその身に宿す願いは、どうしようもなく。
「きっと、今すぐにでも、死んだ方がいいヤツなんだよ」
どうしようもないほどの、悪なのだから。
「――ルージア。お前は」
一星は、半端な驚き方をしていた。
もしかしたら、勘付いてはいたのかも知れない。
ルージアの抱える矛盾。
ルージアの願う、破綻した結末。
ほんの少しのかけ違いで、一星と殺し合いかねないほどの――悪。
ルージアが、わざわざ背中を晒しているのは。
相手が、一星だからで。
身内以外で心を許せる友人だからで。
殺されても、許せてしまうような人間だったから――
「またお前は、そのようなことを言うのか、ルージア」
「――え?」
それは、呆れ返ったように。
妹を叱る姉のような、声色で。
「己の悪性に絶望したならば、疾く自害するがいい。それが最善だと、お前が信じるならば是非もない」
突き放したような台詞なのに、ルージアには恐ろしくなかった。
それどころか、これは。この気持ちは。
陽だまりでまどろむような、穏やかな安心感だった。
「だが、死にたくはないのだろう。だからこそそんなにも、苦しそうな声を出しているんだろう」
死にたい。
死んでしまった方がいい。
でも、生きていたい。
生きて、生きて、生きて、生きて。
大好きな人たちと、一緒に笑って過ごしていたい。
それが、それもまた。ルージアの持つ、紛れもない本心だったから。
「ならば戦い続けろ。己が使命、己が願いを果たすため、生きて生きて、生き続けろ」
叱咤する一星の言葉に乗って、その強さが流れ込むようだった。
厳しくて、けれど優しい、その強さが。作り物の身体を温めてくれる。
「正義を信じ、全力で駆け抜け、ありとあらゆる闘争に勝利し続ける。その行いと成し得た結果をして、己の善性を証明することこそが人生だ。生まれ落ちた一個の命であると、お前自身が誇るなら。それを、簡単に投げ出すような真似だけは、絶対にしてくれるな」
その声の終端が、少しだけ震えていたから。
ルージアは振り返り、そしてその光景を見る。
一星の大きな両目には、涙が滲んでいた。
「それが、私の正義と相対するものであるならば。絶対正義の名のもとに、その悉くを斬り捨てよう。真なる悪とはそうやって、必ずや淘汰されるものだから」
袋に入ったままの竹刀を、一星はルージアに突きつける。
それはきっと、善くも悪くも。
いつかもう一度打ち合おうという、彼女なりの約束の仕方だったのだろう。
「お前は安心して、己が信念を貫け、ルージア」
「――――」
ルージアは、手にした石を手放した。
生きるべきか。
死ぬべきか。
そればかりに気を取られていたけれど。
生かすか殺すかなんてものは、結局のところ手段に過ぎない。
大事なのは、生かした先、殺した先にこそあるだろう。
自分を殺せば、そこで全てが終わりだが。
生きていれば、別の何かができるかも知れない。
最悪の事態を避け、心からの願いだけを叶える、なんて――甘い甘い、夢みたいな話だけれど。
可能性が、ほんの少しでも存在しているのなら。
それを捨てて、死んでしまうなんて――もったいなくって、できやしない。
本当に、それを望んでいるのなら。
全力で生きて、その結果を掴まなくちゃあ。
それこそ、生きている意味がないじゃないか、と。
「ああ、――ああ、そうだな。そうだよな、一星」
迷いは、それでも捨てられないが。
死んでしまった方がいいと、そう思う心も消えはしないが。
「それが、人ってもんなんだよね」
こんなにも、醜い。
こんなにも、不細工な。
出来損ないの身体で、それでも人間らしく、生きていてもいいのなら。
「私は、この矛盾と一緒に生きる」
自分の道は、自分自身で選び取るから。
その心、ある限り。
共にありたいという、この願いだけは。絶対、ぜったいに、果たしてみせるから――
「それがきっと、聯様のために、なるんだから」




