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19

 三改木 龍心という男が大成したのは、彼が半世紀を生きたころであった。

 三改木は長年、謹厳実直を絵に描いたように、ただひたむきに鍛錬を積み続けたが。それは特段、彼に剣道の才能があったからではない。

 彼はそういう(・・・・)性質・・なのだ。それは剣道だろうが座学だろうが変わらないし、人付き合いや趣味嗜好にも表れていた傾向だった。

 己に厳しく、欲望に惑わされず、自身の成長だけに向き合い続ける、極めて堅実な生き方。それは紛れもなく、非凡な才能であると言えただろう。あらゆる実力は、研鑽に費やした時間によって育まれるものだ。事実、彼はどのような分野においても不得手というものを知らなかったし、凡人に後れを取るようなこともなかった。その精神に共感して剣道を選んだ後も、彼のその性質が変わることはなかった。

 彼の大成が大きく遅れたのは、彼が晩成型であるからではない。

 三改木 龍心は、あらゆる凡人よりも秀でていたが。

 しかし、それゆえに。彼は『突出した才覚』には、どうしても叶わなかった。

 いわゆる器用貧乏だった。

 剣道を始めてしばらくしたころ。彼は彼の師から、あまり熱心な指導は受けられていなかった。真面目で素直でやる気は充分、だが絶対的に『見込みがない』――筋がない、素質がない、この男はどうひいき目に見ても、決して大成することはないだろうと。ほとんど初見で断定されていたのだ。

 ある分野において大成するためには、才能と資質の両立が必要不可欠である。才能とはつまり、その事柄をどれだけ好きか、どれだけ熱中して取り組めるかということ。資質とはつまり、親から受け継いぎ、あるいは幼少期の成長過程で無意識のうちに身に付いた向き不向き、得手不得手だ。

 三改木 龍心にはそのどちらもが欠けていた。いや、特化していないとは言え、夢中になって鍛錬に取り組めていたのだから、才能はあると言えたかもしれないが。剣道のことが何より好きなわけでもなく、だからこそ精神的消耗は半端なものではなかった。

 そしてなによりも。絶望的なまでに、資質がなかったのだ。それは肉体的な基本構造であり、思考の方向性であったり癖であったり、もしくはそういったものを効率的に構築するための土台のようなものであるが。三改木という男には、そのすべてが足りなかったのだ。

 つまるところ。師に言わせれば、三改木のひたむきさは『無駄な努力』だった。『努力の方向音痴』だなどと揶揄されたこともあって、それは実に的を射た評価だった。あまりにも非効率、あまりにも馬鹿正直、掛けた時間に対する成長率が信じられないほどに低い。そんなものが長く続くはずがない、それでは何も成すことはできない。師範だけに留まらず、誰がどう見ても、そのようにしか思えなかったのだ。

 彼の師が見誤っていたのは、三改木 龍心の性質そのものだった。もって数年、どうせすぐに辞めるだろうと思っていた。容量は悪いが、頭が悪いわけではないのだし。もっと自分に合ったものを見つけ、あっさり方向転換するに違いないと。

 そう考えているうちに、三改木よりも才能があるように見えた高弟たちが、やれ学業だやれ就職だやれ色恋だ、自分には才能がないからと、次々に剣の道から離れていった。気が付けば、三改木は道場で一番の古株となり、実力も少しずつ備わりつつあった。そしてようやく世間に認められ始めたのが、彼が齢五十を過ぎたころだった。

 彼が四十年ほどで辿り着いた境地は、才あるものであれば十余年程度で辿り着けるものだった。だが現実として、ほとんどの者はその十年を待たず『諦めてしまう』。本当に、本当に些細な理由で、身勝手に消えていってしまう。指導者からすれば悔恨の一言に尽きる話だったろうが、しかしそれは何ら珍しいことではない。ごくありふれたよくある話で、だからこそ三改木は異質だった。資質などなく、断じて向いてなどいない剣の道を、膨大な時間を費やすことで極めてしまった。華やかな青春期、若さに頼ったあらゆる娯楽を捨て去って、それでもなお、苦しい訓練に明け暮れた果てに。

 己の看板を背負うという輝かしい結果を、たった一代で打ち立てた今もなお。彼の半生を聞いて、彼のようになりたいと思う若者は、その実ほとんどいないだろう。彼の熱中は病的で、破滅的で。あまりに長く続いたそれは、かつての評価とは似ても似つかない、異形の人生となり果てていた。

 己は不自由だったのだと、龍心は回顧する。

 あまりにも不器用で。あまりにも道が限られていた。余計なものに気を取られている暇などなかったし、簡単に乗り換えられるほど、他分野にも可能性は見いだせなかったから。

 地獄のような道だった。生き地獄とはまさにこういったものだと、龍心は血反吐を垂れ流しながら歩き続けた。無心で打ち込んでいたように見えようが、その胸中は惨憺さんたんたるものだった。そのことを、果たしてどれだけの者が理解していただろうか。

 実らない努力。愚かな先達の嘲笑。才能を容易く捨てていく恵まれた他人。それらがまったく視界に入らなかった訳がない。幾夜眠れぬ夜を越え、悔しさに頬を濡らしたことか。いっそ(・・・)殺して(・・・)やりたい(・・・・)と、幾度刀を握りしめたことか。

 苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて。それでも疾走を続けた彼が、一体何を目指していたのか。もはや彼自身見失ってしまっていた。

 全体、何のために。あのような地獄を駆けたのか。

 分からない。分からないが、それでも己はここにいるから。積み上げてきたすべてを放棄して、これまでの人生を嘘にしてしまうわけにはいかなかったから。

 生きる。

 ただ生きている。

 空虚な余生を送り続ける。

 だから、龍心は思う。

 思わざるを得ない。

 それは。それは、ああ――

 死んでいるのと、何が違うのだろう、と。

「――っ」

 喉が渇いて、急にせき込んだ。

 三改木は、思う通りにならない呼吸に苛立ちながら、美術館の裏口を目指して単身、足早に歩いていた。

 罠に掛けられたのだ、完全に。

 もう何度目か、瓦礫のごとく積まれた備品やコンテナのバリケードでもって、回り道を余儀なくされていた。子どもの悪戯じみた気配を感じるが、しかし周到だ。ほとんど立ち止まっていないのに、時間だけが盗まれていく。歯噛みして進路を変えるたび、誰かの手の上で踊らされている気がしてならなかった。

 心臓が重苦しい。鎖でも巻き付いているかのようだった。

 反面に脳裏では、火傷しそうなほど熱い血が巡っていた。苛立たしくて、憎らしくて、どうしようもなかった。

 なぜ。どうして、こんなことになったのか。三改木はその手の刀を見つめながら、何度目かも分からない自問を抱く。

 真贋のすり替えなど、最初はするつもりもなかった。

 貞親に興味があったのは事実であるし、その真作を一目見たいとも思っていた。しかし同時に、贋作にも価値はあるという言にも嘘はなく、だから当初、レプリカを対価として要求したのにも裏はなかった。

 だが、あの刀は。三改木の想像を越えていたのだ。

 その魅力には妖艶ようえんなものがあった。

 まぶたを閉じれば何度でも、その輝きが蘇る。

 刀身の緩やかなしなり、刃中に表れた繊細な働き。瞬く間に視界を埋め尽くし、粒子の渦に溺れてしまいそうだった。

 あのときほど興奮した自分を、三改木は知らない。いかなる美女からも感じなかった蠱惑的な色香が、確かにそこにあったのだ。貞親の完成した美と比べれば、人の女の裸体ごとき、すべて醜悪な肉塊に過ぎなかった。

 魔が差して、つい持ち出してしまった。

 刀を手に、少し歩くだけ。誰にも気づかれず元に戻せば、それで済むこと。自分の立場、この催しのことを考えれば、誰かに見られたところで許されるだろう、という気の緩みだった。それだけで終わるはずの出来心。ただ、本当にただそれだけの話だったのに。

 一匹の子犬が、視界に入った。

 その親らしい犬が、そばで寝そべっていた。

 みすぼらしい野良犬が。図々しくも居座っていて。

 人など慣れたものだと軽んじて、帯刀した自分を歯牙にもかけない、その様を見て。

 見てしまって。

 だから。

「三改木先生」

 聞き慣れた声と共に、黒いスーツの男が駆け寄ってきた。よほど急いで来たのか、息はかなり荒くなっている。

 名は野口という。普段から三改木に付き添わせ、身の回りの世話をさせている青年である。三改木にとっては、弟子の中でも特に信頼に足る人物だった。

 あの現場から三改木の痕跡を消したのも、この野口に主導させたことだった。犬の死骸を、片付けきる前に発見されてしまったのは、不運としか言いようがなかったが。それでも十二分、三改木の期待には応えてくれていただろう。

「移動だ、野口。佳大よしだいの屋敷へ連絡を入れておけ。ホテルの荷もすべて引き上げだ。急がせろ」

「承知しました」

 野口はすぐさま懐から携帯電話を取り出し、三改木と並び歩きながら、どこへか連絡をし始めた。

 恐らく彼も、三改木の凶行も目にしていたはずだ。

 しかし追及の一つもしてこないこの男が、今の三改木には心地よい。

 もしも何か、余計なことを口走ろうものならば。

 勢いあまって、斬り捨ててしまいそうだったから。

「またか……」

 角を曲がり、まっすぐ進めば裏口に辿り着くというところで、またしても通路がふさがれていた。大人三人ほどでようやく引きずれるような大型コンテナが都合二つ、猫が通れる程度の隙間だけを残して配置されていた。

 視界に入る窓はすべてはめ殺しのもの。破ったところで、大人が外へ出られるほどの幅もない。正規の出入口を利用するしかないようだった。

 回り道せざるを得ない。いま来た道を戻り、いったん二階に上がってから、避難階段を下りて外へ出るしか。先ほどからそんな風に右往左往してばかりだ。本当ならばとっくに車に乗り、一息ついていたころ――いや。

 そもそも、こんなところに来るはずはなかったのに。

 こんなにも、余計な重さを背負い込むことはなかったのに。

「小娘が――」

 すべては。

 すべてはそう、あの小娘が。

 あれさえ現れなければ。何もかもが、上手く運んでいたというのに――

「待ちわびたぞ、龍心」

 裏口を出た先に停まっている車、そのすぐ手前に。

 道着姿の小娘――八剣 一星は、立っていた。

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