1
「客って、なに、誰か来るのか?」
青空が映り込んだような瞳に疑問符を浮かべながら、ノアールは問い掛けてきた。
両ひざを立てた、いわゆる体育座りで就寝用ベッドに乗り、読書にいそしんでいた彼女は、必然的にスカートの中――つまりパンスト越しの下着が丸見えなのだが、ルージアには指摘する気さえ既になかった。無意味は承知の上で、あからさまに呆れ果てた顔を向けてやるだけである。
どうもノアールには、その手の羞恥心というものが存在しないらしい。姉としてこれは注意せねばと何度か矯正を試みたが、結局この有様である。どう言い聞かせても首を傾げるばかりで、近ごろはもうどうでもいいやと匙を投げてしまった。
姉妹と言えど違うんだなぁ、とルージアは複雑な心境になる。黒い洋服と朱色の着物、見た目が大違いなのは比べるまでもないことだったが。精神構造までもがここまで違うというのには、相当に面食らったものだ。
そして、人知れず肩を落とした。
そうか、この問題を、共有してはくれないのか――と。
「誰っつーか、ンー。私も知らんのだけども。八剣さんちのお嬢さんらしいさこれが」
ルージアもベッドにダイブし、ノアールの目の前に滑り込むような形で寝転ぶ。そこそこに利いたスプリングが、ぎしぎしと音を立てつつ揺れた。
ノアールと違い、ルージアはきちんと羞恥心を持っているのだが。着物愛好者の自分としては、はだけるのにだけ注意していれば、恥じらう必要もないのである。そのあたり、やっぱり洋服より和服の方で良かったなぁとほっこりして、ルージアは製作者の顔を思い浮かべるのである。
「ヤツルギィ?」
ノアールは迷惑そうに、ルージアを見下ろしていた。
「なんだっけソレ。聞いたことはある気がするけど」
「聯様のお得意サマ。カズオミってのが前に訪ねて来たでしょ」
「ああ、あのいけ好かないヤロウ」
「そう、あのいけ好かないイケメン」
その妹が来るんだよ、と告げてやると、ノアールは眉間にしわを寄せ、だるそうに首を回した。
「あれ、聯ってじきに帰ってくるんだっけ?」
「いんや。予定じゃ来月まで、ズワイが美味しいところに出ずっぱり。この話だって、さっき電話でオネガイされた話さ。おもてなしするのだコーン! って言ってた」
「聯はそんなそんなこと言わない」
トウモロコシかよ、とノアール。
いやコーンと言えばキツネだろうと、ルージアは自分の頭上の、狐耳を模したアクセサリを尖らせた。
「そーゆーわけで、一日ばかり、この町の案内など仰せつかったわけなのサ」
ふうんと、視線を反らすノアールを見て、ルージアは次の言葉を少し慎重に選ぶことにした。
ノアールは、まだあまりこの町を出歩いたことがない。だから案内役は荷が重いだろう。聯からの単独外出許可が下りたのがつい最近のことだから、仕方のない話だが。
それでも、ノアールは言っている。
またお前か、と。
どうしてお前ばっかりが、と。
目の前で糾弾されているようにさえ、ルージアには思える。
初めから何でもできた姉。
何も持たずに生まれた妹。
初めて顔を合わせたときの、ノアールのたどたどしい言葉遣いを思い出す。
ノアールの心情はルージアも分かっている。というより、この妹にはまだ、情緒を隠すなどという芸当ができないのだ。いや、それ以前に、自分の胸中で煮えている感情がどういったものなのか、当の本人こそ理解していないのかも知れない。
その、ありありと見て取れる承認欲求は、しかしルージアにはどうしようもないものだ。他ならぬ比較対象である姉の、励ましも慰めも労りも、逆効果にしかならないだろうから。
それが、ルージアにとってすれば、思考中枢に刺さった一本の棘のようで――いや。
愛する妹についての懸案事項さえも、数ある棘の一本に過ぎないという現実が、ルージアを苛み続けている。
「ま、先方のご所望はなぜだか私らしいし。お前の手を借りるほどのことじゃあないから、好きに自由におこたで丸くなったりとかしてるといいぞ、ノアっち」
「ノアっちやめろ」
「じゃあノアにゃん」
「ぶん殴るぞお前」
まるで猫の耳のようなリボンを揺らして、ノアールが身を乗り出してきたから。
冗談冗談、とルージアは笑ってみせた。
単純な妹である。
単純なクセに扱いづらい。
困った妹である。
「ん、あや、その本」
ノアールがベッドに放り出した本を見て、ルージアは思わず声を上げた。
「それ私のじゃね?」
「ああ、お前の本棚から持ってきた」
「それ私のじゃね?」
「いいだろ別に」
「いや、いいけど。汚すなな、それは――」
言いかけて、ルージアは言葉に詰まった。
言えなかった。
それは。
その本は。
聯から貰った本だ、などと。
「面白いか、それ」
努めて穏やかに、ルージアは問いかける。
勝手に読むな、なんてことは思わない。興味があるならいつでも持ち出し好きに扱っていいとさえ、ルージアには思えた。
姉としての矜持である。喧嘩はよくするが、謝られれば許すし、自分が悪ければ謝るのが自分の役割だと思っていた。妹の抱える数々の問題点も、一つの個性なのだと受け入れる。そんな風に、良き姉でありたいと思っていた。
読みたいなら何か一言ないのかとも思うが、しかしそれ以上に、ノアールが自分から、なにかに興味を示したことが嬉しかったから。
「いや、ちっとも」
こともなげにノアールは返してきた。
小綺麗な顔をぶっ飛ばしたい気持ちを抑えつつ、今日の夕飯でコイツの皿には野菜多めに盛ってやろうとルージアは誓った。
「子どもだましもいいところだったな。桃から人間が生まれるわけないだろ」
「バッカお前人間ってヤツは桃からだって竹からだってオメガバースからだって生まれるんだぞ!」
「オメガ……なに?」
「そっから先は十八禁だ」
ついうっかり余計なことを口走ってしまったが、まあいずれ知る機会もあるだろうと、ルージアは流すことにした。
というより、清流のごとく澄みきった純粋なノアールの瞳が眩しくて、思わず目を背けた。
無性に恥ずかしかった。
着物をひん剥かれた気分だった。
「というかまあ見たまんま、子どもだましよ、そんなん。絵本だろ、ソレ」
絵本である。対象年齢が二歳前後の、まごうことなき幼児向け書物である。可愛らしくデフォルメされた桃太郎や老夫婦と、やはり可愛い鬼たちとのコミカルなバトルものファンタジーだ。犬猿雉の家来三匹衆がきびだんご片手に嬉々として命がけの戦いに臨むさまなどは哀れの一言に尽きた。
それはルージアからしても幼稚すぎて、読むに堪えなかった一冊だったが。ノアールにとっても同じだとは思わなかった。日ごろから実感していたことではあったが、彼女の成長速度はいつもルージアを驚かせる。
つい半月前のノアールは、絵本くらいしか読めなかったはずなのに。
「平仮名ばっかりだと逆に読みづらいんだよな。絵もなんかテキトーだし、色々とよく分からない。鉄の棒きれみたいなもの頭にぶつけられただけで降参ってさ、ないだろ、ない。悪さをする鬼どもを退治するって? こんな有様の鬼なんかに、どんな悪さができるっていうんだよ」
「あー」
どうやら面倒くさい考察を始めているらしいぞ、とルージアは退出の機を窺い始めた。
その場でヒャッハーなどと奇声を上げつつそそくさと退散してもいいのだが、しかしそれでは逃げるようで、姉として締りが悪いようにも思えた。
いや、笑いを取ることを最優先事項と定める平時のルージアであれば、率先して実行していただろうが。今この時は違うだろうと、その程度の空気は流石に読める。
「そーゆーのはまあ、想像力ってヤツを働かせるんだな。桃太郎や家来がいっとー強いだけで、それ以外の人間からすれば鬼はものすごい脅威なんだ、とかサ。それで筋は通るでショウ!」
「ふうん」
ノアールは一瞬納得したような顔をしてから、
「じゃあ、鬼は何をしたんだ。問答無用で襲い掛かって退治して一件落着ってくらいだから、なんだ、人間でも殺したのか」
「おおう……」
ほぉら面倒くさいぞ、とルージアはため息を堪えられなかった。
そのルージアの様子が、いい加減な応対に見えたのだろう。ノアールの怒りのボルテージが静かに上がり始め、眉間にシワが寄ってきた。
「なんだよ」
「いやぁべっつにー。ほら、最後に桃太郎、鬼から金銀財宝を受け取ってるだろ? アレきっと盗品なんだよ。きっと、なんかこう、悪さして人間から奪い取った金品だったのだらう」
「その盗品、持ち帰って爺さん婆さんにくれてやってなかったか?」
「おおっと」
余計なことパートツーを口走ってしまったが、ルージアは口にチャックする仕草で完璧に誤魔化した。
「私には分からない」
だがノアールには通じなかった。
「だから、ええと、まあ要するにさ。こいつらが戦う理由が分からないんだよ。この桃野郎はなんだって、鬼を退治しに行ったんだ?」
「桃野郎って」
太郎じゃだめなのか。ルージアにはそれが分からなかった。
いつからという話ではないが、ノアールは非常に口が悪い。言葉遣いが乱れることはなくて、そのへんは女の子らしくていいとルージアも思うのだが、単語のチョイスが荒すぎる。とにかく言動が粗雑で物騒なのだ。盗んだバイクで今にも走りだしかねない。
こんなんでちゃんとお友達とか作れるんだろうかと、お姉ちゃんとしては心底心配しているのだ。
「いやまあ、あれだ。お前、難しく考えすぎなんじゃーないの」
難しく考えることをやめたルージアは胸を張って言う。
「なんで? とか、どうして? って、考えるのはいいことだと思うけどさ。お前それ、そういうのって、すんごい勉強してようやく分かることなんだな」
「そうなのか?」
「そうそう。どのくらいかっていうと、ンー。聯様みたく大学通って、ショーロンブン? 的なヤツ、いっぱい書いたりとか」
「うわ」
生のゴーヤでも噛みちぎったかのような顔をして、ノアールは後ずさった。
面倒くさがりの権化なのだ、この妹は。お前のやっていることは面倒くさいことなんだぞと教えてやるだけで、簡単に止められてしまう。
止まることができる。
簡単に。
だから、それが。ルージアにとっては、すごく羨ましいことであって。
「それにサ、案外。理由なんかないのかもよ」
そうだ。
理由なんて。
大義なんて。
そもそもあるとは限らない。
問いの答えが、必ずしも返ってくる訳ではないし。
でっち上げられた理由でしかないのかも知れないし。
意味を求めたところで、無意味という回答に至る可能性さえ、ある。
「だから」
だから悩ましいのだと、そんな言葉を飲み込んで。
「お前は気にするなや、ンーなこと。やりたいようにやればいい。なりたいようになればいい。そういうのがさ、きっと性に合ってるよ、ノアール」
姉として。先を行く者として。ルージアは、せめてもの教導をノアールに託した。
それくらいしかできない自分を、どうにかこうにか気取らないでいてくれよと、祈りながら。
「そうか。……それで、いいのかな」
いいっていいって、とルージアは気軽に頷いた。
それが、ノアールの今後の方向性を決定づける分岐だったことに気付いて、ルージアが頭を抱えるのはもう少し後の話である。
「やりたいようにやんな。いつでも私が見ててやっから、なんか困ったらいつだって、お姉ちゃんに相談しなな」
「だから。姉は私の方だって言ってるだろ」
「先に目ぇ覚ましただけでしょうがよお前は。シリアル的にも私が壱番なの。ルージアお姉ちゃんなの。オケー?」
「断じてノー!」
ということで、今日も今日とてゴングは鳴る。世にも珍しくもない姉妹喧嘩である。
もちろん軍配はルージアに上がるのだが、着実に成長しているノアールを前に、手加減の度合いを調節するのも難しい。
素手の殴り合いではいずれ追い抜かれる確信がある。妹の成長は喜ばしいものだが、しかしいつか、対等な喧嘩のために愛刀を持ち出さなくてはならない日が来るのかと思うと、ルージアは重苦しい気分になる。
己の刀は、仲間を、家族を、守るためにあるのだ。
大好きな人たちを、守るためにあるはずなのだ。
傷つけるためにある訳では、絶対にないんだから。
「だろう? そうだろう? そうなんだろ? なあ、聯様」
ベッドの上で目を回しているノアールを尻目にして、ルージアはひとり、事の元凶に問い掛けるのだった。