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そして再び、会場は拍手の渦に呑み込まれた。一星の終演時と同じか、それ以上の音量だった。
観客としては、むしろ待ち望んでいた光景だったのだろう。先日の三改木といい一星といい、確かに素晴らしい居合だったかも知れないが。やはり見た目としては、巻藁か何かを両断してくれた方が映えるのだ。
スリリングであり、スタイリッシュであり。素人目には、一番観たかったのだろう見世物。対人で、殺陣でもやってくれるならもっと良い。
興行としては、そちらの方が断然優れていた。プロの演出家でなくとも、そんなことは誰にでも分かる道理だ。
けれどそうしなかった。あえて選ばない理由が、確かにあったから――
いったい何の間違いだと。藤木は思ったに違いない。
細い目を丸々と開き、映り込んだ光景を、何度も何度も検分しているようだった。
「なぜ、斬れるのです……?」
夢に浮かされるように、藤木は呟いた。
そう、斬れるはずがない。
いま三改木の握っている刀は、見た目こそ切れ味の良さそうな刃だが。レプリカであるそれは、本物とは比べ物にならない鈍刀。杜撰な管理と経年劣化が相まって生まれた、単なる打刀に過ぎないのだ。
そもそもに、幅広でありながら切れ味が良いという刀身それ自体が、本物の貞親の特性だ。幅広はつまり、激しい打ち合いを想定した耐久力重視の形である。そこまで再現することが、例の弟子の腕では無理だったという、偽物の証左でもあるのだ。
それが、まさか。
一体どのような理屈で、ルージアの腕力にも耐えられるほど丈夫な竹刀を、紙切れ同然に斬り捨てることができたのか。
「見事」
一星が、明確な敵意を瞳に乗せて、三改木を睥睨していた。
その手に握られた竹刀は、刀身部の長さが半分以下となっていたが。一星の顔には、欠片の驚愕も表れてはいなかった。
「そうせざるを得ないよな。一人の剣道家として、その道の先を歩む者として。例えそうすべきではない状況だったとしても。不意打ちに気付いてなお動かずにいることなど、己の矜持が許さなかった」
並の使い手ならば、こうはいかなかった。
一星の剣気を感じ取れるほどの手練。背後からの完全な不意打ちすら、制すことのできる達人。眼前の相手がそれほどの使い手だったからこそ、ここに成立した立証。
「事ここに至って、よもや言い逃れをする余地はあるまい。この会場に集まった、千人を超える観衆――そのすべてが証人だ」
三改木の右手が震えているのを、ルージアの目が辛うじて捉えた。
表情は見えないから。その震えが、どのような感情から来るものなのか、ルージアには分からない。
ただ、間違いなく言えることがある。
この場における正義。紛れもない現実として起きた事象、それが導く一つの答え。
それは――
「三改木 龍心。いま貴様が握っているその刀こそ、本物――正真正銘の宝刀『八重津八坂貞親』だ!」
つまり、一星はこう言っている。
昨日、必死に糾弾したように。
貞親として展示されていた、あの刀の方が偽物だったのだと。
「必要であれば、再び六郷の鑑定を受けるがいい。恐らく貴様は、事前に行った鑑定の後にすり替えたのだろう。確認させてもらったぞ、本物の貞親は間違いなく『匂出来』だったとな」
電話一本で、そこまでの証言は得られた。
だがそれだけでは、根拠としては乏しかった。昨日のように相手にされず、門前払いを喰らっただろうし。再度の鑑定を迫ったとしても、正式に三改木の所有物となってしまえば、どのようにでもかわされてしまっただろう。
だからこそ、ルージアは策を弄したのであり。
その思惑通りに。一星の正しさを、他ならぬ三改木自身が、証明してしまったのだ。
「申し開きがあれば言うがいい、龍心。いや――他者を騙し、白昼堂々と偽りを述べ立て、卑しき欲望のままに振る舞った盗人よ!」
斬り裂かれた竹刀の断面を、三改木の眉間に突き立てるように。
一星は、より強固となった己の正義を、この世界に示したのだ。
「――かッ」
甲高い、金属の鳴るような音だった。
繰り返し、幾度となく、それは鳴った。
先にも耳にしたそれは、間違いなく。
三改木 龍心の、枯れ果てた笑い声であった。
「見誤ったか。してやられたわ、小娘が」
潔い、というべきなのだろうか。
三改木は未だ笑いながら、高みから一星を見下ろしている。
「落陽のときだ。観念して座せ、龍心。既に警察が動いている。その刀を中心に調べ直せば、貴様の悪事すべてが、白日の下に晒されるだろう」
三改木は、頷かない。
言葉にはしないが、しかし。罪を認め、すんなりと投降するような気配は見られなかった。
あるいは、今この段階でルージアが飛び込み、一星とともに取り押さえてしまえば、それで済んだかも知れない。事前の相談でも『できればそうしたい』として、示された可能性ではあったが。
違和感が。
刀から感じる、不可解な気配が。
すぐにでも駆け出そうとするルージアの身体に、距離を取れと命じてくる。
「み、三改木様。これは、一体」
その躊躇い。時間にして一秒とないほどの隙間だったが。ルージアの判断の遅れを突くように、藤木が一歩ニ歩、ふらふらと踏み出してしまった。
「だめ、フジキ――」
「そのようなこと、私は何も!」
すんでのところで、ルージアは藤木の手を引いた。
だが、遅かった。
「は――?」
藤木の間の抜けた声が漏れる。
いつの間にか、三改木老は舞台袖側を向いており。
すでに貞親の刀身は露出し、天高く掲げられていた。
その切っ先には、赤黒く滴る何かがあって。
次いで響く、耳を劈くような、断末魔じみた絶叫よりも、速く。
振り下ろされる凶刃が、初撃の軌跡をなぞるように、藤木へと襲いかかった。
「ぎぃ――ッ!」
二度目はない。
あらゆる枷を振りほどき、前へ、前へ、ただ前へ。
ルージアは反射的に床を蹴り、藤木を守る形で立ち塞がった。
腕は上段を遮るよう、それぞれ両目と首の前に置いたが。三改木の刀はそれを素通りし、ルージアの胸から腰にかけてを、一切の容赦なく斬り裂いた。
「ルージア!」
布の破れる音が呼ぶ嫌悪感を押し退け、一星が叫ぶ。
ルージアは背後の藤木とともに後方へと弾け飛び、仰向けに倒れ伏した。
「三改木――!」
一星が吠えるその声は、すぐそこの当人に届くことなく、かき消えた。
いよいよ観客が騒ぎ出したのだ。
いくら何でもこれはおかしい。藤木の姿が、観客席から見えたかは微妙なところだが。赤い血と、そして飛び出したルージアが斬り飛ばされた様子は、間違いなく見られてしまったはずだ。
これは違う。これは演技演出の類ではない。何かおぞましい、起きてはならない事態が起きている。観客の一人か二人がそう思い至り、悲鳴を上げれば、あとは瞬く間に伝染した。
血が。
人が斬られた。
人が殺されたんだ。
もはや手の施しようもなく、会場はパニックに陥っていた。舞台裏の方も似たりよったりで、照明を落とせだの救急車を呼べだの、よく分からない怒号が飛び交っていた。
一星は急ぎ、もう一本の竹刀を取り出した。
しかし三改木は、もう彼女の視界から消えかけていた。この混乱に乗じて逃げるつもりなのだろう。
「しっかりしろ、ルージア。大事はあるか」
三改木を追いたい気持ちも強かったろうに、一星はルージアへと駆け寄った。未だ起き上がらない友人を、一星は無視できなかった。
「あー、ごめん、カズっち。私はヘーキ」
ちょっと驚いただけ、とルージアは冗談めかして笑った。その着物は無残にも破れていたが、身体の方はまったくの無傷のようだった。わずかに飛散している血は藤木のものだろう。
「フジッキーは? 生きてる?」
「問題ない。立てるか?」
「ンー、あんがと」
一星に手を取られ、ルージアはすっと立ち上がった。
藤木の方には他のスタッフが付いており、本人も痛い痛いと元気そうだったので、早くも一星の意識からは消えている様子だった。
「お前の想定通りだな、ルージア」
「残念ながらねぃ。もうちょいスマートに片したかったが、仕方ないでショウ」
二人して、三改木の逃げた方を見る。
その先は分かっている。三改木がいつも、美術館の裏手に自家用車を配備しているのは調査済みだ。その上で、最短ルートは先ごろ、ルージアが散歩ついでに塞いできたので、到着まで若干の猶予があるはずだ。
今からでも追いつける。もう一度だけ、対峙するチャンスがある。
「ルージア。お前は予定どおり、警察に合流して後づめを頼む」
私が追いかける。
そう言い切る一星を、ルージアが制した。
「本当に行くのかね、カズっち」
「どういう意味だ」
「あの刀、本物だった」
その意味を、一星は正しく理解していた。
あの刀と相対する危険性も、嫌というほどに。
いつになく真剣な表情のルージアへ、それでも、一星は不敵な笑みを見せた。
「無論だとも。私は行く。行かねばならない。その先で、己が力を示すため」
それが、自分の正義だから。
それだけは、誰にも絶対譲らない。
一切退く気のない一星を見て、ルージアは大きく溜息をついた。
分かってる。
分かってるとも。
昨夜――いや、最初に出会ったその時から、嫌というほど思い知らされてきた。
八剣 一星は、そういう人間だ。そこに疑う余地はなく、きっと変えようのないことなのだろうから。
「――どう言ったところで。止まっちゃあくれないんだから」
失ってしまうかも知れない。
せっかくできた、大切な友達と。二度と会えなくなってしまうかも知れない。
ルージアの心の奥で、ずっと気にかかっていた不安が。今になって肥大化していく。
だって、悲しいじゃないか。
だって、淋しいじゃないか。
人が死ぬっていうのは、つまり。そういうものであるはずじゃないか。
怖い。
怖い。
怖くて、怖くて、仕方がない。
行かないで欲しい。
ずっとここにいて欲しい。
失うことが怖いから。しがみついて、離さないでいたいのに。
ままならないなぁ、と。ルージアは、瞳を潤ませて笑った。
「案ずるな、ルージア」
ルージアの額に、一星の額が重ねられる。
息の詰まる思いだった。
それはまるで、心を通わせているようで。
ルージアの、諦観で冷え込んだ胸の中に、暖かな光が差し込むようだった。
「勝ってくる」
「――うん」
走り出す一星の背中を見、ルージアは思うのだ。
強さとはきっと、ああいうものなのだと。




