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「見事な演舞であった、一星様。感服いたしたぞ」
「ふん。心にもないことを」
その会話は、観客席には届いていなかっただろう。舞台袖のスタッフも半数以上は、その内容を聞き取れていないに違いない。明らかに聞こえているのはルージアと、その隣の藤木くらいだろうか。
「約束を果たされよ。その品、即刻この場で献上いただく」
「献上ときたか。ふん、随分と性急なことだ、龍心」
「貴女が言い出したことだ」
場内の拍手は収まっていた。いきなり現れた三改木老への戸惑いか、あるいは次の演目だと思われているのか。期待半分の静観が続いている。
「無論、吐いた唾を飲む気はない。この刀、間違いなくここで貴様に渡そう。だが」
見上げる一星の瞳に、鋭さが増す。
ルージアの位置から、三改木の表情は分からない。だが、決して穏やかな心情でないことは、その広い背中を見るだけで伝わってきている。
「一つ聞きたい。昨日――いや、最初にお前を見たときから、聞いておきたいと思っていたことがある」
言葉から、態度から。一星の、断じて譲らないという強い意志が見えた。
一回りでは効かないほど、歳も体格も上の相手に向かって。怒気すら滲ませているだろう相手に向かって。一歩も引くまいという、一星の覇気。
それは、ルージアの助言通りの言動だった。
たとえ結果は変わらずとも。絶対に、相手の言われるがままになってはいけない。
最後に勝利したいなら。盤上で幾度負けたとしても、気持ちの上で負けてはいけない。
塞ぎ込まず、前を向くこと。
目標を見据え、ただ前へ進み続けること。
それこそが、勝つための絶対条件であり。
それこそが、『本当に生きている』ということなのだから。
ルージアはぎゅっと、その小さな両手を握り締めた。
「龍心、お前は――否。理心無光流は。いったい何のために刀を振るうのだ。何のために、己が腕を磨き続けるのだ」
無言のままの三改木へ、一星が無遠慮に問を投げる。
何のために。
何を志して。
どこへ征こうとしているのか。
大人と子どもではない。
男と女でもない。
同じ剣士として。
ひと振りの刀に、想いを込める者として。
一星は、ただこの数瞬において、七十を積み重ねた道程、その根源を問い質す。
「くだらぬ」
三改木は、重々しく口を開いた。
「問答は無用。答える必要がどこにあろうか」
冷ややかな声で、三改木は言った。目の前の小娘など眼中にもないと。そう言わんばかりの態度である。
「逃げるつもりか、三改木 龍心」
「身の程を弁えよ。問えば必ず答えてもらえるなどと、そのような思い上がりは不快に過ぎる」
事実として、これ以上の問答に意味はない。
誰であれ、三改木を動かすことなどできないと。恐らくは、十人中十人がそう答える、この状況で。
何を言われようが、一星は一歩も退かない。
「我ら八剣は、正義を重んじる」
それは己を鼓舞するように。
それは誓いを立てるように。
一星はただ、力強く言葉を紡ぐ。
「あらゆる悪を打ち砕き、あらゆる欺瞞を看破する。才を育み、術を磨き、力と成して、この現世を守り抜く――絶対正義の名のもとに」
臆さず。弛まず。
言葉を惜しまず。
背負った一文字に偽らず。
永劫の世界へ誇りを掲げる。
それが八剣であり。
それこそが、八剣 一星なのだから。
「――かッ」
三改木が、押し殺した笑いを漏らす。
何度も。何度も。何度も。何度も。
翁面の老獪さを思い起こさせるような、凄惨な笑い声で。
「だから弱いのだ、八剣は」
三改木はもう、侮蔑を隠そうとさえしていなかった。
「そのような世迷事を、飽きもせず滔々と抜かしておるから。ああ、青い青い。青臭くて鼻が曲がる」
ルージアは咄嗟に、一星の名を叫びそうになる。反射的に抑え込んだが、今度は脚が勝手に動いて、飛び出しそうになる。
もしも一星が、ここで三改木に組みかかるなりしてしまえば。これまでの準備、そのすべてが無駄になってしまう。
例えどんな挑発を受けようと、決して乗ってはいけない。ルージアは一星に、予めそう言い含めてはいたが。
一星自身ではない。八剣を、その正義を、貶すような言動はまずい。それは逆鱗――一星にとって、間違っても触れてはいけない禁忌であるはず。
止めなくては。一星を止めなくては。その一心で、縋るように手を伸ばしたルージアは、しかし。
「――ああ」
その顔が。
その眼差しが。
そんな心配は要らないと、思い知らせてくれた。
「そうだな。ああ、その通りだ。だから八剣は負け越したのだろう、あの居合道大会で」
その声は落ち着いている。
一星はまったく、心乱されてなどいなかった。
それが、ルージアには嬉しくて。
少しだけ、恥ずかしいと思った。
「だが、だからこそ次は勝つ。言葉を返すぞ三改木 龍心。その驕りが、貴様に敗北をもたらすのだと」
三改木は、何も言わなかった。強がりや、負け惜しみだとでも言い返せば、一星の側には言葉がなかったはずなのに、何も。
それはなぜか。ルージアにはよく分かる。
今の一星の姿が、ちゃんと見えているから。
抱きしめたくて仕方ない。
褒めちぎってやりたくて堪らない。
拍手を、あの嵐のような拍手を、もう一度、彼女に。いよいよざわめき出した観客たちに、そう叫びたくて、叫びたくて、どうしようもなかった。
「――潮時だ、龍心」
一星はいったん、三改木から背を向けると、床に置いてあった竹刀袋を手に取った。
そして再び、三改木に立ち向かう。先ほど舞台裏でやったように、押し付けるようにして、刀を差し出した。
宝刀『貞親』、その模倣。金に目がくらみ、先人の偉功をかすめ取った愚者の、負の遺産。
模倣には模倣の価値があると語った三改木を、否定する気はルージアにはない。
凡人には模倣さえ難しいのだ。手本となるオリジナルが目の前にあったとしても、ならば模倣品は簡単に作れるかと言えば否であるから。
そこには、それまで磨き上げられてきた技巧と知識、そのすべてが詰まっている。
真作には劣るかも知れない。しかし無価値ではない。
贋作を積み上げた先で、別の本物を作ることができたなら、その行為自体も間違いではない。
そういった過程をこそ、大事だと思うルージアだから。
だから――結末は違っていても良かったのだ。
ルージアの目論見など、外れていても構わなかった。
一星の鑑定が的外れでも、仕方がなかったと笑い飛ばせた。
この物語の結末が、そんな風にあやふやで、締まらないものであったとしても。それでもルージアにとっては、かけがえのない思い出となったはずなのだ。
一星と出会えた。
一星と語らえた。
可能性を見出し。絶望の中に、確かな希望を見付けられたから。
けれど――
「約束を果たそう。これが、お前の求めた物だろう」
一瞬のためらいの後で、三改木は刀を左手に取った。
そしてしばらく、一星を見ていた様子だったが。そのまま踵を返し、ルージアたちのいる舞台袖へと歩き始めた。
三改木の顔に、感情の起伏は見えない。疲労も、安堵も、目的を果たした達成感も浮かんでいない。ただ、勲章のごとく顔中に刻まれた皺を、より深くしているようだった。
ルージアは、三改木を労うように微笑む。
内心高まる緊張を誤魔化すため、いつものように、屈託のない笑顔を見せる。
戸惑いの声は、藤木から上がった。
三改木は藤木を一瞥しながらも、歩みを止めることはなかった。
気付いている様子はない。
一切気取られてはいない。
一星が背後から一気に迫り、三改木の肩口を目掛け、竹刀を振り下ろしていることに。
ルージアは、その瞬間を確かに捉えた。
一星の奇襲が、完全に嵌ったと思った、その刹那に。
三改木の右手が柄に触れて。
振り向きざまに白刃を奔らせ。
一星の竹刀を、両断した。




