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場内は先ほどまでと打って変わり、しんと静まり返っていた。ゆっくりと、壇上の中央へ歩いていく一星。その足袋の擦れる音はおろか、結わえた後ろ髪のなびく音さえ、耳に届いてきそうだった。
左手には、一星の竹刀袋が。
右手には、例のレプリカが。
ルージアの描いた絵図面では、竹刀袋の中にはルージアの愛刀があるはずだった。だが二人で話していた通り、そこには竹刀が二本入っているのみ。一抹の不安があるとすれば、やはりそこだろうか。最悪、後始末は覚悟の上で、ルージア自身が割って入ることも、想定しておかなければならないだろう。
竹刀袋をやや離れた場所に置いてから、一星が立ち止まる。そして客席に向けて一礼すると、室内をかき回すような拍手が鳴り響いた。
一星の横顔は、真剣そのものだった。やや硬いように思えるそれは、しかし緊張からくるものではないのだろう。呼吸も体幹も整然として、一切の乱れが見えない。その集中力は、数十年もの精神鍛錬を重ねた大人でさえ、必ずしも得られるものではない。先の足運びはもちろん、今の立ち姿だけを見ても、その力量が窺い知れるというものだった。
登壇したのは一星一人だ。剣道演舞によく見られるような、打太刀と仕太刀に分かれる形式――つまり、もう一人の相方を一星が組み敷くような演目ではない。
ルージアが仕太刀を務められたら良かったのだが、そういった『魅せる』剣術の稽古を、ルージアは積んでいない。付け焼刃でできるようなものでもなく、加えて性にも合わず、結局断念せざるを得なかった。
聞いた話によれば三改木老は、弟子数名を配置しての組太刀を披露したらしいが。八剣の門下から、一星の相手ができるほどの相手を呼び出すには、流石に時間が足らなかった。
さらに、巻藁のような小道具の類も用意されていない。これはそもそも、得物が『竹も斬れない鈍ら刀』であるため、選択の余地がなかったためだ。
であれば一星は必然として、八剣宗家における伝統武芸を選ばざるを得ない。
「『奉納演武』とは、要するに、神社の祭事にて特別に催すアレ、でございましょう」
「おおむねアレでございますことよ。ま、私も良くは知らんがネ」
舞台袖で、藤木とルージアがひそひそと言い合った。その後方では、三改木が腕組みをして、一星を睨みつけるように見つめている。
「そういったものは、何と言いますか。適切な場というものがあるのでは? こんな、神も仏も縁遠い場所で、やってよろしいものなのでしょうか」
「別に間違っちゃいないよ。いや、他はどうか知らんけどもさ。少なくとも八剣って人らにとって、場所なんてものはどこでもいいので」
この世全てが、神様のお膝元だろう?
そう言ってから、ルージアは「ん、違うか」と自ら否定して、
「あの人らにとってはさ。この世界そのものが神様なんだよ。そういう信仰を持って生きてるんだ。特定の場所であれどこであれ、そこに『居る』時点で神様じゃない。一個として存在しちゃった時点で、絶対正義も唯一性も損なわれる。ホラ、『こんな奴は認めない』って人が出ちゃうでしょ、どうしたって。違う、そうじゃない、そんなものじゃ断じてない。神様ってのは、善人だろうが悪人だろうが、何人たりとも否定できない、完全で揺るぎない存在のはずだ、って。その条件を満たすものなんて、『この世界そのもの』以外にありゃあしない。ダロ?」
これ即ち、界である。
だから場所など選ばない。あらゆる祈りも捧げ物も、いついかなる時でも奉じられる。大事なのは心の在処。己が一体、何に対して武を演じるのか。それを正しく認識できているか否か。八剣が重んじるはそれ一点のみである。
古より続く宗教の多くが、時の流れと共に、原型を留めぬほどの不可逆な変容を成した。それは時に争いを生み、多くの命を奪い去った。人を愛し、平和と安寧を求めた願いなど、人の大欲の前には無力に過ぎた。
そんな中で、ごく一部の一族でのみ口伝したがゆえに、千年以上不変を貫いた八剣の『界信仰』。新芽たる一星の中にも息づく神威が、演武という形でいま、人々の前にて顕現する。
その在り方を、行く末を、誰もが固唾を呑んで見守っていた。
座位から始まる静から、手品のように一瞬で引き抜かれる動の刃。登壇者のみを照らす照明が反射され、一閃の煌めきが、後付けのように脳裏に焼き付く。
太刀筋には欠片の迷いもない。のみならず、そのすべてに必殺の意志が宿る。殺人技である剣術が、心身練磨に重きを置く剣道に移り変わり、さらには商業と化す傍らで。なお源流を維持し、見栄えばかりではなく理と利を追求し続けた、その光刃。
ルージアは、一星の一挙手一投足に、身体が反応するのを抑えていた。どうしても夢想してしまう。一星の目の前で構える己の姿を。気を抜けば、一太刀で弾け飛ぶだろう己の四肢を。
距離にして二十メートル前後、剣士の間合いの遥か外。だが、そんな空間に意味はないことを、ルージアは経験以上に、直感によって理解していた。
信ずる神へ奉じる武。それは祝宴の催事などではなく、祭りの余興などではもっとない。八剣の掲げる『界代』とは、その名の通り世界の代替。地上に在らざる神に代わって、その敵を滅ぼし尽くすという誓いを、切先に込めて謳うのだ。
何度めかの居合。幅広にして、居合には不向きなその刀を、一星は身体の一部であるかのように振るう。神速の鞘走り、人剣一体の極致。引き抜きざまに打ち抜いた刀を、さらに己の正中線に沿って振り下ろす。
速さは力、とはよく言ったものだ。
少女の細腕であろうとも。その速さは、人骨を両断せしめて余りある。
「――?」
一瞬、静止した刀を見て、ルージアがその違和感に気付いた。
遠目からで、子細には捉えられないが。その刀身は確かに、昨日目にした『貞親』に瓜二つ――いや、そのものであるように思えた。
だが。
だが、何かが。
目の奥で、火花が散るような、その感覚は――
不可解な感覚に沈みかけたルージアの意識が、急速に浮上する。
気付けば、演武前とは段違いの爆音となった拍手が巻き起こっていた。
滝つぼのごとく鳴る観客の熱気を前に、一星は息一つ乱さないまま、礼でもって締めくくった。一星の周囲数メートル四方の内外では、まったく別の世界が隣り合っているようだった。
喝采は観客からのみではなかった。ルージアのいる舞台裏でも、スタッフから惜しみない拍手が起こっていた。裏方としては、あまり褒められたことではないだろうが、しかし。
観ていた誰もが裏切られたのだ。それほどまでに素晴らしい演武だったのだ。
一星の実績は既に輝かしいものだったが、それでもやはりまだ子ども。将来有望ではあろうとも、今この時においては未だ熟さず。事情を知らない者からすれば、何かのコネで特別扱いされただけの、親の七光りとしか思われなかったかも知れない。あるいは本当に、一星の容姿だけを目当てにやってきた蒙昧も、多少なり紛れていた可能性は否定できなかった。
それが今では、観衆一丸となって、一星に賞賛を送っていた。一人一人が立ち上がり、初めて目が覚めたように輝いた瞳を向けている。強く、美しく、神々しささえあったかも知れない演武に、誰もが強く胸打たれたのだ。その奇跡のようなひと時に、すべての人が魅せられ、感嘆のるつぼに包まれていた。
――ただ一人。
ルージアの脇を通り、未だ鳴りやまない拍手を押しのけるように登壇する、一人の老人――
三改木 龍心だけを、除いて。




