12
夜風が、胸の隙間を通り抜けていく。辺りの木々のざわめきが、まるで自分の身体から漏れて出ているように、ルージアには思えた。
懐かしんでいるのかも知れない。今のルージアを形成している身体が、かつてはその木々の一部だったことを思えば。
暖かな昼間の日差しが恋しくなる。暑いのも寒いのも、ルージアにとってはさほど堪えるものではないが。あえて劣悪な環境に浸っていたい、などというマゾヒズムだって、持ち合わせてはいなかった。
朝が待ち遠しい。
夜は、決して嫌いではなかったが。
黒い気持ちに満たされそうになるのは、いつも夜のことだったから。
「こんなところにいたんかね」
開きっぱなしの窓からひょいとよじ登り、屋根の上に出ると。ルージアは無事、探していた人物の姿を見とめたのだった。
「――ふと、空が見たくなった」
寝間着姿の一星が、瓦屋根の上に腰かけていた。
昼間よりも緩い服装ではある。そのはずだが、姿勢がいいせいか、さほどイメージに違いはなかった。
凛として整然と。
毅然として清らかに。
それは美しくて脆そうな、貴金属の針のようだった。
「なんだ、私を探していたのか?」
「いっこ報告したくてね。そしたら部屋にいないもんだから驚いたのな。ンー、いやまあ、ちょっとだけサ」
ごく自然な流れで、ルージアはその隣に座り込む。ふと芽生えたイタズラ心で、一星にくっつくようにしてみたが。ノアールならば必ずある抵抗が、一星からは一つも来なかったから。拍子抜けするとともに、若干の気恥ずかしさを覚えた。
不思議な気分だった。
ルージアもここにはよく来るが。ノアール以外の誰かと座るのは、初めてのことだったから。
ノアールは、猫のように一人を好むし。
聯は、言わずもがなであるし。
聯の客は通常、ルージアとはまともに話をする機会さえない。
「いい空だ。星がよく見える」
「でしょー。私も結構好きよ」
ルージアが見上げると、深い藍色の幕を背景に、淡く輝く月と、星の群れがあった。
大都会ではないが、それでも町中は夜でも明るい。南の島とでも比べれば、ちっぽけな星空でしかないだろう。
人間はどうして、あんなに煌々と灯りを付けたがるのだろう。お月さまとお星さまが、充分すぎるほど照らしてくださっているのに。
何かの読み物で、動物たちがそのように述懐していたのを、ルージアはぼんやりと思い出す。
ルージアにも、同意できる見解ではあるが。
人間には、それだけでは不十分なのだと。人を模したルージアの目もまた、よく知っているから。
「ひとつのほし」
ルージアの口から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
無意識のことだった。言ってから、自分の言葉に自分で驚く。
「良い名前じゃあないかね、一星っち。あの輝きの一つがキミなんだぜ。いや、もしや一番星かも知らん」
良い名前だと、ルージアはしみじみ繰り返した。
たかが星一つ。人の目からすれば小さな明かりだが。
その一つ一つが、何万光年などという気が狂れたような距離の彼方から、その光を届けている事実がある。
一星が放つ光はきっと、そういう類のものなのだ。
たとえどんなに離れていても。彼女の輝きはきっと、それを必要とする誰かを照らすのだろう。
漢字の名前も悪かないよな。一字であったらもっといい。そんな風に思うルージアは、許されるのなら、二木の姓が欲しかった。
「どうだろうな」
一星は自嘲するように笑って、肩をすくめた。
「私はまだ、一番にはほど遠いよ」
だから、強くならなくてはならない。
そう語る一星の想いが、強迫観念のように思えて。
一星という少女の在り方が、酷く危ういように、ルージアには思えた。
ひたむきで。
頑なで。
それは紛れもない強さだが。
そうしていなければ、壊れてしまうような脆さが、きっとあるのだ。
「越えられるさ」
だからルージアは、自然と励ましていた。
「あの化物を、お前なら越えられるさ」
一星が、驚いたようにルージアを見る。
気付いていたとも。友達だもの。
ルージアは誇らしげに胸を張ってみせる。
強くなりたいと願う一星の視線の先に、常に実兄の姿があったことを。ルージアは気付いていた。
尊敬もしよう、憧憬も抱こう。だがそうすればそうするほど、その高い壁の存在に折れそうになる。
どれほど鍛錬を積もうとも。
どれほどの強敵を倒そうとも。
強く、強く、もっと強く。兄という強大な壁を越えない限り、その想いが満たされることはない。
一体それは、どれほど苦しいものなのか。立場が逆の自分には、きっと理解できないのだろうと、ルージアは思った。
それが少し、寂しくて。
それが少し、痛かった。
「不思議なものだ」
一星が呟く。
その声が、泣いているように聞こえて、ルージアは慌てて一星を見た。
一星は笑っていた。月光を、眩しそうに見上げながら。
「本物の貞親が見られたらそれで良かった。『フタツギノヒトカタ』と打ち合えたらそれで良かった。それだけの旅程だったはずなのに。――なあ、ルージア。私たちはどうして、こんな話をしているのだろう」
ルージアは、一星を真似て月を見て。
そしてカラカラと、喉を鳴らして笑う。
まったくもって同感で。
でも、答えなんかちっとも分からなくて。
笑う、笑う。ルージアは静かに笑う。
夜の静寂に寄り添うように。
穏やかな風に揺られるように。
そうしていないと、泣いてしまいそうだったから。
「いいんじゃねぇのです? そんなん、どーでも」
なんで、どうして、と。頑張って考えたところで、分からないことの方が多いのだから。
理由なんか、ないのかも知れないし。
あえて理由をつけることは、無粋かも知れないし。
ノアールに語ったその思考を、ルージアはもう一度なぞっていく。
「お互いの性分的に、ドライな関係じゃいられなかった。そーゆーことでしょ。それ以上の理由が要るのかね?」
一星が何を見ていたのか、見られる側のルージアには分からないが。
互いに似たものを見ていたに違いないと。何の根拠もなく、ルージアは信じた。信じたがった。
「そうだな」
温かく微笑んで、一星は言う。
「お前のことを、お前たちのことを、今の私は知りたいと思っている。何が好きで、何に憤り。何を想い、何を目指すのか」
仕事柄、そういうことを『知らなければならない』ことが、ルージアにもなくはないが。
これは違う。
この気持ちは違う。
この胸の空洞には、そういった義務感とはまったく別の気持ちが詰まっている。それが、ルージアにも実感できていた。
「そういう方面だと、私は先に少し知っちゃってますナ。さっきの夕飯のとき、食い入るように見てたのな、テレビでやってた時代劇」
好きなんだろ。
ああそうとも。
一星の、寝間着になっても解かない髪の尻尾が、得意げに揺れている。
「正義をもって悪を制す、勧善懲悪の物語。人の上に立つ身分でありながら、進んで弱き者たちの側に立つ、本物の強さ。物心ついたときから見続け、ずっと憧れていた。そう、告白するなら、私はああいった御仁の妻になりたい」
そうかね、とルージアはそっけなく言って、着物の襟を正した。
照れ隠しだった。
いや、照れる意味は本人にも分かっていなかったが。
ただ。告白と言うにはあまりにも堂々としたその台詞に、なんだか赤面してしまったのだ。
「お前はどうなんだ、ルージア」
「水戸のおじいちゃんはさしもの私も守備範囲外です」
「そうか? いや、その話からはもう離れていいぞ」
何が好きで。
何を想うのか。
生まれて初めてのその問いに。ルージアは茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべながら、心底戸惑っていた。
答えはある。
いつでも取り出せるよう、胸の中にしまってある。
でも、それを答えると。同時に、もう一つの願いが、毒蛇のように首をもたげるから。
「私は、聯様が好きだよ」
それは本当に、本物の心で。
「まあ、生んでくれた感謝とか? 養ってくれてる恩義だとか? そういう話なのでショウ! ――たぶん、きっと」
人の言う母への親愛に類するものとは、きっとまったく違う、その想いは。
「私は、聯様の力になりたい。それだけさね」
そう、それだけ。
本当に、それだけのことだ。
人知れず、人一倍、頑張って。
人知れず、人一倍、傷付いて。
たった一人で生きている、愛しい人。
過ぎたことに囚われ、いつまでも下を向いてうずくまりながら。それでも、生き続けている彼女を、なんとか救ってあげたくて。
だから。
だから、ルージアは。
あの人を、XXXXと思うのだ。
「レン――二木 聯か」
ルージアの気持ちに勘付くには、まだ時間が足りなかったのだろう。
一星は、数回顔を合わせたというその記憶を想起するように。目を凝らして、遠くの空を見つめていた。
「若くして二木の当主となり、その商い事をすべて引き継ぎ取り仕切る才媛。私にしてもその他の者にしても、彼女をとても頼もしいと思うし、その仕事ぶりには比類ない信を置いている。だが、そうではあるが、しかし」
一星は、言いづらそうにひと呼吸入れてから、それでも臆さず先を続ける。
「正直に言えば、苦手意識のようなものがある。上手く言えないが、そうだな。底知れぬ恐ろしさというものを感じてならない。壁や溝、そのような隔たりの向こう側に、彼女は立っているように思えた」
身に覚えがありすぎて、ルージアは笑みを引きつらせた。
仕事中の聯は非常に社交的で、世辞も使いこなし、常に笑みを湛えているが。
少し注意深く見れば、すぐに分かる。それらが上辺だけの、本心とは何らかかわりのない仕草であることが。
ルージアからすればアレは、目の前に能面を被った女がいるようにしか見えないのだ。
恐ろしさ、と一星は言った。誰を相手にしようと物怖じしないような一星が。
確かにそうだった。一星とは形こそ違えど、ルージアもまた、聯に対する恐怖を持て余していたのだ。
底知れない、目に見えない、正体不明であることからくる恐怖ではなく。
そのような心の在り方に。そのように振舞わざるを得ない境遇に。誰にも理解されない、その孤独に過ぎる人生に。
ルージアは、小さな胸がはち切れそうなほどに、恐怖しているのだ。
「ついでにもう一つ、白状するとな」
一星の言葉で、沈みかけていたルージアの心が浮上する。
「実際に会うまでは、ルージア――お前に対しても、同じようなものを感じていたよ。ああ、恐ろしくて堪らなかった」
先入観だろうな、と一星は顧みた。
そういうこともあるのだろうなと、ルージアはいじけたように笑った。
所詮、他人からすれば――いや。
いいや。
いいや。
覆ることのない真実として。
ルージアやノアールという存在は、二木 聯という人間の『付属品』に過ぎないのだから。
「無論、今は違う。やはり剣を交えるのはいいものだ。少なくともお前と私との間に、溝などはまったく見当たらない」
「ははぁ、どこぞのストリートファイターみたいな理屈ですナ」
そんなものは、ルージアの中ではフィクションだった。誰かとの距離を縮める方法として、剣や拳を交わすだとか、そんな方法は。
いろいろな人がいて。
いろいろな手段があるのだ。
それが分かっただけでも、ルージアには僥倖だった。
ルージアが、聯との間に感じている壁や溝を、埋めてくれる何かが、どこかにあるかも知れないという希望。
自ら他人と距離を置こうとする聯の。中でも殊更に深い深い、ルージアとの間に築かれた絶壁も。
いつかは、崩すことができるのかも知れないと。
そう思えたことが、本当に。袋小路を彷徨っていたルージアには、本当に、本当に。嬉しかったから。
「なあ、一星」
聞いてしまおうか、と思った。
ルージアが、意図して秘した、願いの根源。
或いは、迷いなく善悪を裁く一星であるなら、答えをくれるのではないか、と。
ルージアは立ち上がっていた。
一星が、促すようにルージアを見上げている。
黒の瞳は、透き通るようで。
その心を見せてしまうことが、非道く下卑た背徳行為に思えて。
「ああ、いや」
聞き方を、整理してからにしようかな。
ルージアは、不甲斐ない自分を叱り飛ばしたくなりながら、もう一度腰を下ろした。今度は、一星との間に少しだけ、隙間を開けて。
「いけないいけない、危うく忘れるトコでした! 明日の段取りが整いましたんで、そのご報告に来たのでしたや」
「――そうか」
不自然さは感じていただろうに、一星は特に追及する素振りも見せず、ただ頷いた。
その気遣いが、ルージアには有難くて、そして申し訳なかった。
「とは言えまあまあ、カズセっちが出張る以上、勝ちは決まったようなものですよって! 大船の底を踏み抜くくらいのテンションでアげていこうぜ!」
「それは沈むぞ、流石に」
「それもそうか! ところでカズセっち、大道芸の真似事って悪いことかや?」
そうしてやっと、時間にして半時近く掛かってようやく、本筋の話が始まった。
もちろん、ルージアがいる以上、横道に逸れずに話すなんて無理なことで。
本題など、早々に終わらせて。日を跨ぐまで、またお互いのことを語り合ったのだった。




