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深大寺にて~「ジプシーの血」の咲く庭で~

作者: 北 教之

調布シリーズを書き始めるきっかけになった、「深大寺恋物語」という地元の短編文学賞に応募した作品です。最終選考には残りませんでしたが、今でも何となく愛着のある作品。

 このバラの名前はね、「ジプシーの血」、というのです。

 なぜ笑うのかって?面白いわね。あなたに似た方のことを思い出したの。その方も私に同じことを尋ねたわ。このバラの名前はなんというのでしょうか、って。

 その方も、バラがとてもお好きでした。本当に、この庭に迷い込んでこられた理由も、あなたとまるで一緒。深大寺を裏手から南に抜けようとして、道を見失ってこのわき道に迷い込んだのです。そう、あなたがいらした植物公園の方からね。

 なぜ、ジプシーの血、というのかしらね。この血のように赤い色のせいでしょうか。目に焼きつくようなこの色が、体の中の血と呼応して、彼の地でジプシーがかき鳴らす、すすりなくようなヴァイオリンや、ツィターのメロディーを思い起こさせるのでしょうか。

 あの方は、このバラの名前を聞いて、ヨーロッパの音楽家の名前をいくつか口にされました。この縁側に座って、バラを見ながら、「これらは皆、友好国の作曲家ですから、まだ聞くこともできるのです。」と微笑まれて。

 そう、あの方と私が出会ったのは、あの戦争の最中のことでした。あの方は航空士官学校の生徒さんで、私はまだ女学校の生徒でした。あんな時代でしたもの、若い殿方と二人きりで庭に座っている姿を見られでもしたら、と、私は気が気でなかったのを覚えています。でもあの方はとてものんびりした方で、そんなことは気にもなさらず、「水を一杯下さいませんか、調布の水はおいしいと聞いているので。」なんて、のんきなことをおっしゃるのです。私は、今にも、家の者が奥から出てきたりしないかしら、と、ひたすらはらはらしていたのを覚えています。

 そう、こんなおばあさんにも、殿方に胸ときめかせる青春の頃があったのです。別れ際、あの方は、もう一度、この庭のバラをじっと見つめていらっしゃった。その視線があまりに真剣なので、私は思わず、「一枝、お持ちになりますか?」と尋ねていました。その時のあの方の晴れやかな笑顔で、私は一度に恋に落ちてしまったのです。

 とはいえ、お互い名前も名乗らず、素性も知れず、もう二度と会うこともかなうまい、と思っていましたのに、所沢の親戚の家に遊びに行った先で、私は偶然あの方をお見かけしたのです。あの方は所沢の陸軍航空学校にいらっしゃって、その日は水練ということで、狭山湖での訓練に参加されていたのでした。ちょうど私達家族が、湖のほとりを散策している時でした。私達の傍らを、隊列を作って走る制服姿の中に、あの方のお顔を見つけた時、私は本当に息が止まるかと思った。あの方もこちらに気づかれて、かるく会釈を返してくださいました。でもそれだけで、私は本当に天にも昇る心地で、真っ赤に染まった頬を家族のものに気づかれないよう、ずっとうつむいて歩いたのを覚えています。

 あの方は航空兵になられるのだ。そう思いました。あの方は空を飛んで海を渡る。狭い狭い操縦席の中で、自分の四囲の全てを風に包まれて、トンボのように儚く、鷲のように雄雄しく、幾千里の彼方まで空を行く。その日から、毎朝私は、朝起きるとまず一番に庭に出て、空を見上げ、両手を広げて目を閉じるようになりました。体中に風を感じたい。あの人と同じ風を感じたい。名前も知らない、ただこの庭で、美しいバラを見ながら、二言三言の言葉を交わしただけのあの方と、この青空で私はつながっている。そう思うだけで、私は幸せでした。

 戦局が次第に悪くなり、深大寺の近辺も灯火管制がしかれ、空襲警報の不安なサイレンが鳴り響く日が増えてくると、私の幸せは不安に変わりました。あの方は今、どこで、どんな飛行機に乗っているのだろう。敵の機銃掃射をかいくぐりながら飛ぶのは、どれほど恐ろしいことだろう。どれほど孤独なことだろう。薄い風防ガラスの向こうは、何一つ体を支えるものとてない虚無の空間が広がっている。機銃掃射で機体が打ち抜かれれば、たとえ小さな傷であっても機体はバラバラになる。あの方はそれでも空を飛ぶのだ。死と隣り合わせの危険の中へと飛び立つのだ。ただ、私達を守るために。

 あの方がどこに配属されたのか、どこの空を飛んでいるのか、それも全く分からぬまま、私の心は、毎日毎日、不安で締め付けられるようでした。そして、夏が過ぎ、秋をむかえ、再び庭のバラがつぼみを開き始めたころ、あの方は突然、再び、私の庭を訪れたのです。

 あの方は立派な航空士官の制服を着て、玄関先で私に向かって背筋を伸ばし、敬礼をされました。私はもう、呆然として涙も出なかった。あの方が覚えていて下さったこと、この日本で、再び会えたこと。その嬉しさよりも何よりも、あの方の厳しい表情が、私の胸を突いたのです。

 あの方は、ご自分の名前を名乗り、飛行第244戦隊所属の少佐であるとおっしゃいました。以前の非礼をお詫びになり、偶然、調布飛行場に着任したので、どうしても私に頼みたいことがあって来た、とおっしゃいました。

 「このバラを一輪、操縦席に飾りたいのです。」あの方はおっしゃいました。「飛燕の操縦席は狭苦しくて、少しでも潤いが欲しくてね。」

 そうおっしゃりながら、あの方は、軍人の癖に女々しいですね、と、恥ずかしそうに微笑まれました。私は必死に首を横に振りました。首を横に振りながら、私はただ、涙をこらえておりました。なぜあんなに胸が詰まったのか、私にも分からない。私は群れ咲くバラの中から、なるべく長くもちそうな、丈夫なつぼみを選びに選んで、あの方にお渡ししました。心の奥の底の方で、「これは私です」とつぶやきながら。これは私です。私の分身です。私はいつも、あなたの側におります。操縦席のあなたの側にいて、ともに空を飛び、いつでも、どこでも、あなたとご一緒いたしましょう。

 その願いが届いたのでしょうか。私は確かに、あの方の最期の瞬間を自分で見ることができたのです。体験することができたのです。あれは本当に、不思議な瞬間でした。

 空襲警報が鳴り、私が家族と共に、真っ暗な家の中で小さく震えている時でした。目を閉じた私の周囲で、いきなり風が吹きました。ふわり、と体が浮かび上がったような感覚がして、思わず目を開くと、目の前にあの方がいらっしゃいました。あの方は必死に操縦管を握って、すさまじい風の音が荒れ狂う中を、ひたすらひたすら空高く上っていくのです。その視線の先を追ってみれば、風防ガラスの向こうに見えるのは、禍々しい黒いB29の編隊の影です。あの方は、その影に向かって、ひたすら機体を上昇させていくのです。

 飛燕の操縦席の中は、むせるようなバラの香りで、それは私の体から発せられているのです。あの方は一瞬その香りをかいで、小さく微笑まれました。機体のすぐ側で、風とは違う鋭い音がかすめていきます。B29が機銃掃射を浴びせ、あの方の飛燕の翼が、激しくバンバン、と音を立てました。翼から燃料が霧のように噴出します。それでも、あの方は微笑んでいました。微笑を浮かべたまま、あの方はご自分の飛燕を旋回させて、そのまま、真っ黒いB29の機体の影の真ん中に突っ込んでいったのです。

 その刹那、私の体は、私の家の真ん中に戻っていました。私は思わず、家族が止めるのも聞かず、家の外に飛び出しました。見上げた空に、一機のB29が、真っ赤な炎を上げてゆっくりと落ちていくのが見えたのです。その炎は本当に血の色のように、このバラの花弁のように鮮やかに、私の網膜にくっきりと残像を残してやきついたのです。

 考えてみれば、私は、あの方に4度しかお目にかかりませんでした。お言葉を交わしたのはたったの2度。1度は、本当か幻かも分からない夢のような時間の中で。それでもその4度の出会いで、私は自分の生涯の恋を、全て燃やし尽くしてしまったのだと思います。

 私も年を取りました。この家に住んだ私の家族も全てこの世を去り、あの方のことを覚えているのは、私と、この咲き誇るバラだけとなりました。あなたもバラがお好きなら、ジプシーの血、という名を持つバラをご覧になった時、むかしむかしの若者達の、儚い恋の物語を、思い出してやってくださいまし。バラが好きだった少女と、遠いヨーロッパの音楽が好きだった若者が、この空で燃やした恋の炎の物語を・・・

 

 ・・・老婆が語る物語に耳を傾けていた私が、ふと気づいてみれば、私の傍らに確かにいた、小さな品のいい老婆は姿を消していた。振り返ってみれば、古い、けれど趣味のいい瀟洒な家屋、と見えた家は荒れ果てて、縁側についた私の手のひらは埃にまみれている。はっとして立ち上がってみれば、あれほど豪奢に咲き誇っていたはずの真っ赤なバラは枯れ果てて、茶色く無残な枯れ枝が、雑草の生い茂る庭の中で、初夏の風に揺れているばかり・・・

 と、ふと私は、その初夏の風の中に、濃厚なバラの香りを一瞬嗅ぎ取った。でもそれも一瞬のことで、風はそのかすかな香りの記憶を包み込み、一散に青空の彼方へと駆け上っていく。二人の恋が花開いた、遠い成層圏の高みへと・・・

2008年に調布市国領で見つかった不発弾の処理騒ぎがニュースになりました。その不発弾は、調布飛行場の第244飛行隊所属の戦闘機が、体当たり攻撃で撃墜したB29から落下したもの、という報道を見て、ふと思いついたのがこのお話です。神代植物公園のバラ園のむせるような香りを思いながら書きました。

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