婚約破棄から〜2年後〜からのおめでとう
おなじみとなっているダイエット頑張る主人公が書きたくて……。
もの凄いご都合展開物語になります。ご了承下さい。
次期王妃となる私はお母様の教育の元、多くの教養を身に付けていった。
お母様は必死だった。
自分の身体が弱いせいもあって色々と焦っていたから。
だから、私はガッカリさせてしまわないように、必死に頭に叩き込んだ。
恥はゆるされません。
気品ある淑女になりなさい。
馬鹿にされないように、学びなさい。
あなたは王妃となる人間なんですよ。
マルフィル、マルフィル、マルフィル、マルフィル!!
なぜこんな簡単なことも出来ないの。
嗚呼、情けないわ、これでは次期王妃だなんてとても……。
マルフィル、お母様の話を聞きなさい! マルフィル!! マルフィル!!
「使用人の分際で、私に逆らう気なの!?」
あれ、いつからだろう?
私がこうなってしまったのは。
◇
「アルバート、お誕生日……」
「マルフィル、君に大切な話がある」
…………。
……。
「その横暴かつ傲慢な振る舞いをこれ以上放っておくのは他国の方々やこの国の貴族、民たちに示しがつかない――――マルフィル、君との婚約は、今日この日をもって破棄する」
「な、なんですって!? アルバート、そんな馬鹿な決定許されないわ!」
「……私が許可したのだ」
「叔父上!」
私を見据える叔父上は、残念そうに首を横に振って静かに目を瞑った。
舞踏会の会場は騒然となり、皆してこちらを注目しているけれど、私に向けられた目は背筋が凍るように冷たいものだった。
「私の行動は、王妃となるために周囲に差を付けるためのものに過ぎないわよ! なのにどうして婚約破棄なんかされなきゃ……私は何も悪くないわ! そうよっ、悪くな――」
「お願いだ、いい加減にしてくれマルフィル!!」
いつからだろう、アルバートが私を軽蔑するように見るようになったのは。逸らすようになったのは。
それに気づかずに自分勝手な振る舞いをしてきた私はいよいよこの日、いくつものツケが裏返って回ってきた。
ゆっくりと、アルバートはこちらに近づいて来る。
彼の手が、二重になりつつある私の首筋に触れ、そっと身に付けていたネックレスのチェーンと肌の間に指先を滑り込ませた。
好きな人が目の前にいる。鼓動が速くなったのは、乙女の感情か、それとも気管が狭まったせいでくる酸素不足だからか。どちらにしても顔が熱い。
「なぜ、こうも変わってしまったんだ」
それは見た目? それとも性格?
押し殺すように呟くアルバートは悲しそうに瞳を揺らして、ブツッ――と、ネックレスのチェーンを素手でちぎった。
もともと肉に押し出されていたのだ。彼が壊さなくともあと数キロ体重が増えれば壊れていただろう。
だが、あえてアルバートは自分が贈ったネックレスを、まるで決意表明とも言うようにちぎってしまった。
「マルフィル……」
アルバートの綺麗な蒼い瞳が、底光って見えた。
「〜〜っ」
ひそひそと周囲の囁きが耳に届く。
「自業自得」「ようやくか」「殿下も限界だったんだろう」「これで王妃候補は決め直しか?」「是非とも我が娘を」
いい気味だと思う者、これを機に自分の娘を王妃候補として紹介しようと企む者。
いたたまれなくなった私は、逃げるように舞踏会会場を後にした。
ドスドスと床を響かせる自分の足音を聞きながら「私は悪くない!」と言い聞かせ、屋敷へと戻る。
その日は、アルバートの誕生日だった。
私が毎年彼に告げていた「おめでとう」は、今年から言えなくなってしまったのだった。
〜2年後〜
「ブヒョー!」
私が日本人であった頃の記憶を思い出したのは、熱々のソーセージを一本丸かじりしていた時だった。
そのあまりの熱さに舌が悲鳴をあげ、私の人間らしからぬ汚い叫びが部屋中にこだまする。部屋の外を通りかかったメイドは何事かと固く閉ざされた扉を何度も叩いて私の安否を確認していた。
「な、なんでも……」
詰まらせながらそう答えると、外からは安堵の息が聞こえる。
騒がせてしまったと反省しつつ、私は己のクリームパンのような手を見つめ、深く嘆息した。
(いや、なんだこの手。贅肉まみれじゃない!?)
左手にはソーセージが刺さったフォークが握られており、数口食べた痕跡が残っている。先ほどまで私はこれを食していた。というか一口食べてそのあまりの熱さに目を剥いてしまっていたのだ。
(ってこれ一口ですか。でかい)
しげしげとソーセージを見つめ、私はそっと飾り棚に置かれた皿の上にフォークを下ろした。皿には残り数本のソーセージがテカテカと油の染み込んだ我が身を食べて欲しいとばかりに輝き放っている。
しかし、この状況では食欲が湧くどころか「おえっ」としてしまいそうで、私は逃げるように視線を横に向けた。
「うわっ」
逃れた視線の先には、大きな姿見が置かれていた。
けれど、上から下にかけて大きな亀裂が入っており、酷い有様。ちなみにこれを壊した犯人を私は知っていた。
(そうだ、これ……)
私である。
あれは婚約破棄をされ、あっという間に三ヶ月が経ってしまった頃のこと。ふと鏡の中の自分と目が合った。三ヶ月前の自分よりもさらにパワーアップした脂肪を蓄える少女。自分だと思いたくなくて、物を投げ付けたのだ。
好きだった婚約者に、それも大勢の人がいる前で婚約破棄をされ、ショックを受けた私が走った非行というのが暴飲暴食。右手にコレステロールの塊、左手の砂糖の塊を鷲掴み満腹になるまで欲を満たし、また口が寂しくなったら食べるを繰り返した結果、あの二年前の婚約破棄よりさらにふくよかな体になってしまった。いや、もうふくよかで済ませられないレベルにまで達し始めている気がする。
すべては私の性格がいけなかった。
自分より身分の低い者達を見下し、自分の思い通りにならないことがあったら怒り、王都の民からも嫌われていた。自分に付いていた使用人を何度クビにしたかも分からない。
「はああ……」
一度頭を整理したくて額に手を当て深く息を吐く。
近くのベッドに腰を下ろすと、痛々しくマットが軋んだ。座っているからか分厚い腹の肉も何段かにわかれてしまっている。微妙に苦しくてすぐに立ち上がった。
うろうろと部屋の中を行ったり来たりとしながら熱いソーセージのおかげで思い出した前世を振り返る。
と言っても、私自身のことは詳しくは覚えていない。
自分の顔や家族が何人いたのか、そういったことは霧に包まれたようになっているのだが、前世の私は日本人であり、生まれ育った中での衣食住やそれ以外の文化など、日本で普通に生活をしていれば身に付いていくような事柄を懐かしく思う感じだ。
いつ、どのように死んだのかも知らない。
だけどこういうことは考えたって答えが見つかるわけでもないし、掘り返すのはやめた方がいいのかもしれない。
「ふう……」
案外冷静でいられている自分に驚きだ。
前世といっても、頭では理解しているのだろう。
今生の私は、グランツ王国のファルムント公爵家の長女であるということを。しっかりと自分はマルフィル・ファルムントであると理解している。少々呆気ないけれど、パニックを起こして情緒不安定になるよりは断然マシだ。
そんな私は婚約破棄をされる前は次期王妃と言われていた。今はというと、王命により淑女として、公爵家の人間として正しい振る舞いが出来るようになるまで屋敷で軟禁生活を送っていた。軟禁と言えば聞こえが悪いが、これも自分勝手をし過ぎたせいで民や貴族に反感を買わないようにという叔父上の配慮だったのだ。
それなのによりひねくれた私は更生もせず、家族の言葉に耳を貸さず、食っちゃ寝食っちゃ寝生活を今まで送ってきたというわけだ。
「だからってなにこの三段腹になりかけの二段腹はー!」
衣服の上からでも分かってしまう自分の腹の贅肉を両手でつまみ、激しく上下に揺する。わがままボディではもう言い逃れできない醜態に私は分かりやすく落ち込んだ。
「マルフィル様!? 如何なさったのです!」
二度目の私の奇声にまた通りかかったであろう別のメイドが扉をノックする。
「すみません。大丈夫でーす」
そう答えると、メイドの驚いた声が聞こえてきた。おそらく私が謝ったから仰天しているのだ。どんだけ。
しかも私の名前マルフィルって……名は体を表すってか! まるまるってか! 面白くない!
「っ……これ以上自虐に走るのは良くないわ」
どれだけ食べたかは定かではないが、この体型である。体に良くない生活をしてきたに違いない。二年前の体重から見た目だけでも10キロは優に増えたんじゃないだろうか。
只今の時刻は朝の9時ちょい過ぎ。朝食は一時間ほど前に五人前ほど平らげたと記憶している。それなのになぜこんな太いソーセージを自室で頬張っているのだろう。しかもボロニアソーセージ並の太さで長さも数倍ある。
この二年、私は全く改心していなかったらしい。
軟禁生活だから社交界にも参加できず、会う人と言えば家の使用人たちと、たまに顔を合わせる家族かな。身体の弱かったお母様は二年前の騒動のせいで卒倒し、今は王都から離れた土地で療養中だからカウントされないし。
何もしていない。一日のほとんどを部屋で過ごしている状態だ。これって……に、ニートじゃない?
「いかーん!」
動くたび、ぶるんと贅肉がゼリーのように揺れる。なんて邪魔なのだろう。これではいずれ生活に支障をきたしてしまう。生活習慣病や、メタボリック症候群。前世でもニュースで問題視されていたことだ。
「……」
ひび割れた鏡の前に立ち、膨れ上がった自分の体をじっくりと見る。逃げてはいけない。この体を受け入れて、変わらなければいけないのだ。
(ダイエット、しよう)
肉に埋もれた一重の瞳が決意の炎を燃やし始める。
まずは、そうだ。
食生活の改善から。
◇
「マルフィルお嬢様、お食事中のところ失礼致します」
「えっ……あっ、はーい!」
決意したところで、扉がノックされた。
とても涼しげな声の主が許可を得て部屋の中に入ってくる。それは執事服を着た青年だった。
(シヴァ……だっけ。一週間前から私の専属執事になった魔族の)
青白い肌と黒い髪、赤い瞳をしたシヴァはいつも笑みを絶やさず、私の自己中にもさらりと対応していた気がする。魔族は人間より知能や身体能力も高いが、こうして貴族の使用人になっていることが多い。その殆どが人間より長く生きる期間での暇潰しや娯楽、気まぐれだそうだ。
「お嬢様のお部屋から何度か奇声が発せられたと侍女たちから報告がありましたので伺いに……おや?」
シヴァは手のひらを胸に当てながら私の方へ近寄ると、わずかに眉を動かして顔を覗き込んできた。
どこか色気を漂わせる美丈夫な顔が探るようにこちらを見つめてくる。
「――――ふふ、面白い」
戸惑う私に、シヴァはふっと不敵な笑みをこぼした。それが綺麗だと感じると同時に、底知れない不気味さを感じて肌が粟立つ。顔と顔の距離が近かったこともあり、ビビった私は半歩後ろへと後ずさった。
するとシヴァも、何事も無かったように姿勢を正した。一体今のは何だったのかと考える暇もなくシヴァは私に問いかけてくる。
「それでマルフィルお嬢様、どうかなさいましたか? 食事後の紅茶でしたら只今御用意しておりますが」
(こ、紅茶ぁ!?)
ニッコリと微笑みながら話すシヴァに、内心「あんたまだ何か喉に通すきか!」と自分自身を叱咤した。
そういえば砂糖たっぷりのどろどろに溶けた紅茶を毎食後に飲んでいたっけ。
「よ、用意してくれたのに申し訳ないけど、これからは毎食後の紅茶は大丈夫よ」
「……それは」
訝しげにするシヴァに、私は慌てて続ける。
「シヴァ、私ね、痩せようと思うの。これ、見てよこの掴めちゃう肉! みっともないでしょう!?」
「……」
見せられた贅肉を前にきょとんと不思議そうにしたシヴァ。そんなにまじまじと二段腹を見つめられても照れるんだけど。恥ずかし……いいや、むしろ常に意識を強めて肉の公開処刑といこうか。
「魔族は人間ほど姿形を気にしませんので、私個人の意見で申し上げるのは……。しかし、そうですね、お嬢様が悩んでおられるのなら私はいくらでも協力致しますよ」
(あっ、そういう返答する?)
なんともジェントルメンな返しをしてくれたシヴァに惚けつつ、協力してくれるならこれほど心強いことはないと嬉しくなった。
「ありがとう、シヴァ。それから……この一週間ずっと我が儘ばかり言ってごめんなさい。こんな私の専属なんて嫌かもしれないけど、これからよろしくね」
明らかに朝食時と性格が豹変した私であるのに、シヴァは驚くこともなくやっぱり笑みだけを浮かべているのだった。
その後、おもむろに私はソーセージが置かれた皿を手にした。
「お嬢様、どちらへ?」
「これ、厨房に返しに行こうと思って。痩せようって言っているのにこんな脂っこいもの食べれないから。残りはスープの具にでもして貰おうかな」
いきなりサラダのみ食べるダイエットとか、無茶をし過ぎると体が驚いてしまうので、まずは食事をしっかり一人前だけ摂るようにしようと思う。
寝るだけの夜は軽食とスープとか、昼間より少なめにして調節していく。前世で見たダイエット番組とかでも、やはり健康をきたさずに痩せるにはバランスの良い食事と適度な運動に限ると言っていた。
「お仕事中邪魔してごめんねシヴァ。それじゃあ私は厨房に行ってくるから」
「かしこまりました。何かありましたら私をお呼びください」
シヴァは厨房に向かおうとする私に頭を下げた。こちらが先に行くまで頭を下げているようだったので、私は足を大股に動かして廊下を進んでいった。
(そういえば私、ご飯以外で部屋を出るの何ヶ月ぶり? あれ、それって、殆ど体使ってないんじゃ……)
その恐ろしい事実に気づいた私は、より大きく歩幅を広げて厨房を目指したのだった。
「はぁ!? お前今なんて言った!?」
「だーかーら! アッツアツのソーセージを出したって言ってるんだよ!」
「馬鹿野郎! なんてことしてくれたんだテメェ!」
厨房の扉に手を掛けたとき、中から凄まじい怒号が聞こえて肩が跳ね上がった。どうやら料理長と下っ端コックの少年が言い争いをしているようで、私はそっと隙間から厨房を覗き見る。
「おいコハク! 聞いてんのか!」
「へんっ、あれぐらい熱々の方がお少しは嬢様もゆっくり食べんだろ! ちょうどいいっつーの」
「そういう問題じゃねぇんだよ小僧! マルフィル様はな、飲んだスープの温度が冷たかったって理由でそれを作ったコックを一人辞めさせてんだよ! 旦那様が家にいないのをいいことにな!」
(なにそれ!? そういえばそんなこともあったような……冷たいなら温めようよ……って、今更私のしたことに私が文句を言っても仕方がないけど)
どうやら厨房での言い合いの原因は私らしい。
それも私が作ってしまったしょうもない理由で緊迫した空気になっている。
あのソーセージは故意で熱かったのか。
つまりはコハクというコックの少年のおかげで前世を思い出すことができたと言っても過言ではない。
感謝したいけれど、さすがに今は出て行きにくかった。
料理長は怯えた顔で少年を咎めている。
これも私が料理人をクビにしたという前科を作ってしまったからだ。
「俺の責任でいいよ! ふんっ、あのお嬢様が文句言いにきたら言ってやる! 俺がわざと作ったって……」
料理長に胸ぐらを掴まれたコハク少年は、ふいに首を横に向けた。顔を背けた先には厨房の入り口がある。つまり私が立っている場所を見たのだ。
どんどん目を瞠るコハク少年。
確実に扉の隙間から覗いた私の目とばっちり交わった。
「なっ」
「マルフィル様!?」
他のコックも私の存在に気づいたようで、厨房は一気に沈黙に包まれた。
見つかったのなら隠れても意味ない。私はいそいそと厨房の扉を押して中へと入る。
「ま、マルフィル様」
「……」
顔面蒼白の料理長と、強く睨みつけているコハク少年。
突然私が現れたことに驚いていたようだが、手に乗せられたソーセージの皿を一瞥して「ああ、やっぱりか」と悲観に暮れていた。
「料理長、このソーセージ……」
私が近づくと、頭に被せたコック帽を取り勢いよく頭を下げる料理長は、隣に立つコハク少年の頭を鷲掴み共に頭を下げさせた。
「大変申し訳ございませんマルフィルお嬢様! 温度調節もできない新米に作らせてしまったばかりに、こんな場所にまで御足労頂いて」
「なっ、離せ……!」
この世界で言うと土下座レベルの角度で頭を下げる料理長の横で、コハク少年は嫌だ嫌だともがいている。まだ幼さの残る顔立ちをしているけれど、一体いくつだろうか。十三歳、十四歳あたりの見た目だ。
大きくつり上がった目尻、黒にも茶色にも見える髪をしていて、前髪を上にあげている。なんだか可愛らしくて小さく笑ってしまった。
「料理長、本当に申し訳ないんですけど、このソーセージを夜のスープの具に回して貰っていいですか? 少し食事制限をしようと思うので、夜は軽食で済むようにスープを作ってもらいたいんですけど……」
「は、はあ……」
訳が分からない様子で料理長は私からソーセージの載った皿を受け取った。隣のコハク少年も、厨房にいるコックたちも同じように口を開けている。
「それと……」
コハク少年に視線を流すと、彼はぎょっとした顔で私を見返した。
「どうもありがとう」
(あなたの作ったソーセージのおかげで、前世を思い出すことができたよ)
コハク少年は余計に眉間の皺を深めた。まあ、そうだよね。
「みんなも、いつも美味しい食事をありがとう。それなのに文句ばかり言ってしまってごめんなさい。後で私の食事メニューの変更をお願いしたいので、また来ますね」
私はそう告げると、厨房を出て行く。
ムギュッ。
出る際に扉に体が詰まりそうになった。本当に最後の最後で締まらないな。この肉め〜。
自分の部屋へと戻る廊下で何度かメイド達とすれ違ったりもした。初め私の姿を目にした彼女たちは誰しも怯えるが、声をかけると今度は驚愕した顔をする。
(うん。まあ、これが普通の反応だよね)
今朝まで醜態晒しまくってたはずの私の様子が変われば私を知る者ならそうなるって。
シヴァは違ったけれど。やはり長く生きている魔族だと変化にも寛容になったりするのだろうか。
「姉様?」
「……ルーファ」
階段を上がったところで、私は実の弟であるルーファと鉢合わせた。
自分より少し高い背と凛々しい顔付きをした我が弟は王立騎士団の医療班で薬師として多忙だが充実した日々を送っている。
栗色の髪は高い位置できつく結われており、いわゆるポニーテールのような髪型をしていた。尻尾はかなり短いけれど。
我が弟ながらルーファは美しく、お父様に似た冷たい面持ちが寧ろ良いと評判だとメイド達の噂話で聞いたことがあった。
そして私にはもう一人お兄様がいるのだが、お兄様もお父様似で美しく綺麗な顔をしている。それも「氷の貴公子」という、よくありそうなあだ名を付けられているだけあって性格がとてもクールだ。そんなお兄様も現在は王立騎士団に勤めており、現在は護衛騎士を任されている。家督を継ぐにはまだ若すぎるということで、自分から修行したいとお父様に願い出て騎士団に入ったらしい。
自慢の家族なんだけれど、この数年私はルーファやお兄様と親しく会話をした覚えがなかった。そうでなくとも薬師はやる事が多いので城で寝泊まりすることが多いのだ。こうして顔を合わせたのも久々である。
「……こんな所で、何をなさっているのですか」
「ちょっと、厨房に用があって」
素直に答えるとルーファは心底驚いたように瞳を大きく広げるがそれもほんの一瞬ですぐに表情を固く戻し、キッと私に厳しい眼差しを向けた。
「また、料理の文句ですか? わざわざそのためだけに滅多に部屋を出ない姉様が? もういい加減にしたらどうなのですか」
「いや、そうじゃなくて」
「この際なので言わせて頂きますが、いつまでファルムント家に迷惑をかけるつもりです?」
「あの、」
「その体型も、考えなしに暴飲暴食をした結果ですよね。姉様はご自分の体を肥やして何がしたいのですか。このままではいつ病を引き起こしても不思議ではないのですよ。自分の体が警告してくれているのに、姉様はなぜわからないのです」
抑揚のないルーファの声は、まるでお経でも唱えるように淡々として耳に入ってきた。一定の声の大きさと早さ、呪文みたいだ。
薬師である弟に言われて誰が文句を言えようか。全部正しいことを言っているだけに途中で口を挟むこともできなかった。というよりマシンガントークすぎて入り込む隙がない。
「……あの、はい。ごめんなさい」
「!」
情けない姉である。
ルーファもこんなお姉様は嫌だろう。食欲を抑えられず肉襦袢を着込んだ自己中のニート姉。最悪すぎる。私だったらキレていた。
「……おかしい。いつものように、逆上したりしないのですね」
「ルーファ?」
「久しぶりに顔を合わせましたが、まさか……何か変な物を食べたのですか、姉様」
(変な物じゃない! ソーセージだよ)
ルーファはじっと私を観察している。
強いて言えば改心したんです。前世を思い出しましたとは言えないからね、こっちに合わせるなら反省して自分を見つめた結果とでも言おうか。
「私、痩せようと思って」
「……え?」
「ルーファが言っているように、これじゃ自分で病を呼び寄せてるようなものだから」
「……」
「こんなにまでなった私を見捨てないでいてくれた家にも、これ以上迷惑をかけたくない……って、ルーファ?」
ルーファは俯いて肩を震わせていた。
何か逆鱗に触れてしまったのか不安になって手を伸ばすが、肩に手が届く前にルーファは唇を噛んで顔を上げた。
「なんですかその変わりよう……いまさらですか……改心するのが遅すぎるんですよ! あなたがご好意になっていたアルバート殿下に愛想尽かされてから愚かさに気づくだなんて、姉様はうつけです!」
「ルーファ!」
(うつけってあなた! 時代間違えてない!?)
私が引き止める間もなく、ルーファは階段を降りて走り去ってしまった。怒らせてしまったのだろうか。追いかけようと階段を降りるべく足を踏み出した私だが、体重移動が上手くいかず体勢を崩してしまった。
「いたたたた……」
「ご無事ですか、お嬢様」
「……シヴァ、見ていたの」
「お嬢様方の会話が耳に入ってきましたので、中庭から移動して参りました」
「中庭って……めちゃくちゃ遠いじゃない……なんで聞こえてるの」
「私は魔族ですから、ある程度遠くの声も聞き取れるのですよ」
ああ、だからさっき何かあったら名前を呼べっていっていたのか。
挫けた足首を擦りつつ、背後に立ったシヴァをじろりと見上げる。確かに彼の腕には取り込んだであろう真っ白なシーツが掛けられていた。
「姉弟喧嘩とは、微笑ましい光景ではありませんか」
「微笑ましい!? あれが!?」
「ええ。ですが、私には喧嘩というよりも……ルーファ様がお嬢様を心配なさっているように見えましたが」
くすりと笑ってそう言葉にするシヴァ。
心配してくれていたのだろうか。
疑問に思い首を傾げた私がだったが、その答えは案外早く分かることになった。
次の日、城から私宛に小包が届いた。
開けると中にはいくつかの小瓶が丁寧に包装されてあり、中身はすべて緑の粉が入っていた。
『栄養のある薬草を乾燥させて剃り下ろしたものです。あなたの言葉を信用したわけではありませんが、薬室に余っていたので届けさせます。どうぞ捨てて構いません』
小さなカードにはそう書かれていた。
「なるほど、これは体に良さそうですね。粉になっていますから水に溶かすと摂取しやすいでしょう」
(ああ、青汁か!)
弟ルーファは、私が知らなかっただけで優しい子なのかもしれない。
ルーファから青汁粉が届いた翌日、私は屋敷の書庫に入ってダイエットに良い運動や食物の知識が書かれた本を読み漁っていた。
(ダイエットに良い食事って言ったらやっぱり和食かなあ。でもさすがにないよね)
和を混ぜたような国なら東大陸に存在する。「ヤトマ国」という国名だったっけ。けれどもう長く鎖国体制をとっているので食文化までは詳しく知らない。本にも参考になりそうな内容は記されていなかった。
(ヤトマ国か〜。江戸時代みたいな感じなのかな)
ペラペラと本を捲りながら、適当に知りもしないヤトマ国の風景を想像してみる。
魔族や魔物、ギルドという組合もあるようなファンタジック世界だし、何がいてもおかしくなさそうだけれど。
(それにしても、お腹空いた……)
書庫の机に突っ伏し、私はお腹を押さえた。
ダイエット生活を初めて三日経つけれど、暴飲暴食の生活に慣れてしまっている怠惰な体は、そう簡単に規則正しい食事だけで満足してはくれない。
こればかりは徐々に慣れないとだが、最初は大変だ。別に食べたくないのに体が、脳が、勝手に糖分やら何やらを欲してしまうから。
「和食食べたくなってきた〜さばみそ、ほっけのあぶり、まぐろどん」
ブツブツと呟きながら書庫を出ると、少し先に進んだ廊下にコハク少年の姿を見つけた。
あれ、そういえばコハク少年って。
「コハク少年ー」
「……ん? うげっ」
私に気づいたコハク少年はあからさまに嫌な顔をする。お構い無しに近寄ると、今度は逃げたそうにそわそわし出したが、私を無視するわけにもいかないので何か用ですかとぶっきらぼうに言った。
「コハク少年って、ヤトマ国から来たんだよね?」
「……移民って言いてえのか……っ、ですか」
コハク少年は敬語が苦手らしい。
敬語(敬う気のない相手に対しての言葉遣い)が、苦手らしいので、よく思われていない私は避けられていた。
「違うわ。あのね、ヤトマ国ってこういう料理とかあったりするか教えて欲しくて」
私はいくつかの和食をそれっぽく不自然に思われない程度に濁して、似たようなものがないかを聞いてみた。初めは怪訝な表情をしていたコハク少年だったが、その顔は徐々に光が差したように明るくなり始める。
「ふーん、意外。お嬢様、ヤトマ料理知ってんだ……ですか」
「えっ、あるの!?」
「なんだよ、お嬢様が今言ったじゃん……ですか。作り方とかまんまヤトマ料理だ……ですし」
「……ねえ、そんなに無理に敬語使わなくていいよ」
その敬語になっているようでなっていない言い方をされるぐらいなら、軽口で構わない。だって聞き取りづらいし、今の私には貴族の変なプライドとかもないのだから。
「は? 馬鹿じゃん、貴族が何言って……あっ」
「私のこと嫌いだから、敬語使いづらいんでしょ。なら敬わなくてもいいよ。その代わりに朝食はヤトマ料理をコハク少年に作って貰いたいの」
「……っ、お、俺が料理を? お嬢様に? 嘘だろっ」
「嘘じゃないけど、嫌ならレシピだけ教えてくれれば自分で……」
「お嬢様が作れるわけねーじゃん! ヤトマ料理は繊細なんだよ! 素人が簡単に作れるわけないじゃんか! ――――見てろよ!」
次の日の朝、コハク少年は立派な日本の朝ごはんのような朝食を作ってくれた。材料は違うはずなのに、どこからどう見ても鯖の味噌煮定食であった。
「おいしい!」
「へんっ、ヤトマ料理を毎日食べてりゃ、お嬢様も少しは小さくなるだろ!」
うん、そうだね。
やっぱりダイエットには最適だよ。
でもねコハク少年、世の中には怖い貴族の人間もいるから、その口の聞き方を少しは直そうね。私は構わないから、せめてTPOを守ろうね。
ほら、シヴァを除いた食堂にいる使用人たちが私たちの会話を聞いて蒼くなっているから。
ダイエットを初めて五日目、領地視察に赴いていたお父様が一週間ぶりに屋敷に戻ってきた。
使用人たちから私の様子を聞いたのか、お父様は帰って早々書斎に私を呼び付ける。
「おかえりなさい、お父様」
「……どういうことだ、マルフィル」
威厳を放ったお父様は、脈略もなくそう言い放つ。
「どう、とは?」
「使用人たちから最近のお前の様子は聞いた」
「……はい、その、痩せようと思いまして」
「何を企んでいる」
全く信用のない私は、お父様に新たな悪巧みをしているのだと勘違いされてしまった。こればかりは私の行いのせいなのでしかたない。
婚約破棄されてからの三ヶ月はどうにか私を真っ当な人間に正そうとしていたみたいだが、今は完全に呆れられ放置にされていた。それでもたまに顔を合わせる食事の席で小言を言ってくれていたので、ぎりぎり見捨てられていなかったのだ。
「お父様、ファルムント家に泥を塗ったこの娘を、今日まで見捨てずに置いてくれて本当に感謝しています。ですから私は、これから改心したく手始めにこの怠けた体を変えようと思ったのです」
中腰にして誠意を見せる私に、お父様は信じられない物を見ているような顔をしていた。未だに眉間の皺をきつく結んでいる。
そう簡単に信じてもらえないのは重々承知のうえだ。けれど、私は変わらなければいけない。
……どうやら今の私は、こんな性格になっても世話を焼いてくれていたファルムントの人達が大切らしい。図々しいながら家族のような情を感じていた。
これまでしてきたことが帳消しになるわけではないけれど、この数日私は屋敷の中を歩いて使用人全員に深く謝罪をした。私がクビにしてしまった人には申し訳なかったと手紙を送った。相手にとったら迷惑極まりないかもしれない。だけど誠意を見せるにはそれ以外の方法が思いつかなかった。
「……そこまで言うならば、結果で示しなさい。それまで私はお前を認めることはできない。助力する気もない」
「はい。話を聞いていただけただけで、十分です」
お父様は私を許すとは言わなかったが、止めることもしなかった。コレでもう後戻りはできなくなった。する気もないけれど。
この日から、私はより一層ダイエットに励むようになったのだった。
ダイエット開始して二週間が経過した。
早朝、私は中庭で軽い運動がてらにヨガの姿勢をとっていた。肉のせいで不細工な格好ではあるが、朝起きて敷地内をウォーキングする前は日課としていつも行っている。初め日の当たりの良いところでやっていたら、メイド数人に悲鳴をあげられたので、慣れるまでは隠れたところでやることにした。木陰の下で風を感じながらのヨガも気持ちが良い。
「何か目標を決めてはいかがでしょう」
ヨガが終わったタイミングでどこからともなく現れたシヴァは、私に白湯を渡しながらそう言った。
前世のにわかダイエット知識をフル活用する私は、朝に白湯も飲むようにしている。効果はよく知らないが、体温が上がってウォーキング前にはちょうど良い。
「目標ー……何キロ痩せるとか?」
「それでも良いとは思いますが、そうですね。次のアルバート殿下の誕生祝賀パーティーまで、などはどうでしょうか」
「ぶっ」
シヴァの口から出た名前に白湯を吹き出してしまった。
私の従兄にあたる関係であり、元婚約者という関係でもあった二つ歳上のアルバートはグランツ王国の王子で第一王位継承権を持っており、何事もなければ彼がこの国を背負っていく立場になるだろう。
金色の髪と透き通る蒼色の瞳は、王都のみならず他国の姫君も魅了し、民からの人望も厚く、期待の次期国王陛下と囁かれている。
婚約破棄をされてからこの二年間、私はアルバートと一度も顔を合わせていなかった。屋敷に軟禁状態なのだ。彼が私の元に訪れない限りどうしたって会うことなどできない。
二年前の私はアルバートに好意を寄せていた。
思えばただならぬ醜い執着だった。
前世を思い出す前の私は二年経っても懲りずにアルバートに未練たらたらだったようだが、前世を思い出してようやく完全となった今のマルフィルとしてはどうだろう。
(気まずい)
今はもう、それだけ。
顔を曇らせる私に、シヴァは意外そうな顔をした。
「おや、お嬢様は常日頃アルバート殿下のご様子だけには興味を示していたと、使用人たちから聞いていたのですが」
「そ、そうだっけ!? ……あ、そうだったけど、今はそれどころじゃないし。それに私はアルバートに婚約破棄をされた身なんだから」
ひとまず私は健康な体型になってこのニート生活とおさらばしたいからね! 色恋なんて次の次。
そうシヴァに熱弁していれば、彼は面白そうに微笑んだ。絶対今の楽しんでただろう。
「お嬢様の恋心が未だあるか否かを抜きにしても、今年開かれる殿下の誕生祝賀パーティーは、公爵家の人間として出席なさった方がよろしいのではないでしょうか」
いや、だけど王命で改心するまでは屋敷から出てはいけないって話だから。
そう思うも、シヴァの言うことも一理あった。
王子の生誕祭というのは、毎年国中が大賑わいになるのだが、今年はアルバートが二十歳というめでたく成人を迎えるため規模がより大きい。他国からも参列者が集い、彼の成人を祝う。国を背負っていく王子の生誕祭というのは本当に大切な行事なのだ。
そんな大事なパーティーに、グランツ王国の公爵家の長女が出席しないのは些か問題だった。私の場合は事情が特殊なので免除されるのかもしれないが……。
(そっか、もう二十歳になるんだね、アルバート)
生まれた時から隣にいたアルバートが成人するというのは、なんだか感慨深い。ただの幼馴染として祝いたい気持ちならあるけれど、だからといって叔父上やお父様になんの断りもなく出席したら別の意味で問題になりそうだ。
「お嬢様、陛下は何も一生屋敷に軟禁しようとしているわけではございません。お嬢様が改心するまでというお話だったではありませんか。幸いなことに、パーティーまでは半年以上の猶予がございます。身も心も変わられた姿で現れたお嬢様に周囲はどう見るでしょう」
「ああ!」
シヴァの言いたいことが理解できた私は、嬉しくなって彼に笑顔を向ける。むしろどうして気がつかなかったのか。
今回のパーティーはいつも以上に大々的で、国中の民も、他国の人間も注目することだろう。私が改心したと知らしめるには又と無い場所。
「シヴァって天才だね!」
「勿体なきお言葉にございます」
白湯を飲み終わり、シヴァにカップを渡す。
となればますますダイエットを頑張らなければいけない。パーティーに出席するためお父様や叔父上に掛け合わなければいけないが、それはもう少し脂肪を落としてからにしよう。
「ではお嬢様、まずはこのお召し物を目指して頑張りましょう」
またまたシヴァはどこからともなく清楚なワンピースのようなドレスを取り出した。今の私の体型より一回り小さくしたくらい。
「お嬢様の今の体重、体型から順調にいきますと、2ヶ月以内にはご着用いただけます」
「……あの、シヴァ」
「はい」
「もしかして私の体重とか、スリーサイズとか、把握してたりする?」
シヴァはゆったりと微笑をこぼすと、はっきり私に言ったのだ。
「ええ、勿論でございます」
当たり前のように言うものだから、私は思わず「あ、そうですか」と返してしまった。
立ち上がって早歩きのウォーキングを始めた。ファルムント家の敷地は広いので、一周しただけでも凄い運動量になる。
私を見送ったあと、シヴァは屋敷の中へと戻っていった。
(……体重ならまだしも、スリーサイズって! どうやって!?)
二週間経ってもシヴァに関しては謎である。
ただ私に忠実に仕えてくれているのは確かで、サポートもバッチリだし本当に助かっているんだけれど。
シヴァには頭が上がらないな、と表情を緩めながら私はウォーキングに励んだ。
私の豹変に初めは戸惑っていた多くのファルムント家の使用人たちも、毎日顔を合わせるようになって数ヶ月もするとその変化を受け入れ始めてくれた。
私のことを幼少から知るベテランの使用人たちからは涙を流された。
『あの頃のお嬢様がお戻りになった』
誰かがそう言った。
私にも素直だった頃があったらしい。
◇
ダイエット当初するすると落ちていた体重も、順調に減り始めると体が危機を感じて落ちづらくなってしまう。停滞期だ。
気分が下がる私のために、シヴァは一緒にウォーキングできればと子犬のような見た目の使い魔を出してくれた。
「こんにちは、私はマルフィル。よろしくね」
「まるー!」
「え」
マルというあだ名を付けられた。名前から付けたのか見た目から付けたのか謎だが、つぶらな瞳の子犬は無邪気でとても癒された。
それを目撃したコハク少年からは「マルお嬢ー」と呼ばれるようになった。あなたそれ、今の私だから許せるんだからね! 他の貴族の令嬢に言ったらダメだかんね!
その後、停滞期を打破した私はダイエットを続けてさらにサイズダウンしたドレスもすんなり入るようになっていた。
青汁粉が無くなりそうになると、定期的にルーファが城から送ってくる。あの緑の粉のおかげで肉割れなしの体と美肌を手に入れた。優秀すぎるよ青汁粉。
朝食にヤトマ料理を作ってくれるコハク少年も協力的で、生意気な口調ながらも栄養の行き届いた食事を考えてくれていた。彼はヤトマ料理を多くの人間に知ってもらいたくて、そのために海を越えてグランツ王国に来たそうだ。
シヴァの使い魔である子犬のビジョンも、私のダイエットに尽力してくれた一人だろう。後半はあの丸い綿毛のような尻尾を追いかけるように、屋敷の中をウォーキングしていたのだから。
それから、アルバートの生誕祝賀パーティーが行われる月を迎えた。
「おめでとうございますマルフィルお嬢様。素晴らしく均整のとれたお体にございます」
シヴァが提示した最後のドレスを身に包む。
ひび割れた姿見の前で、私は何度も自分の体を確認した。鏡の中にいる細身の少女が、目を見開いて私を見ている。
「やっ……たあーー!」
「タァー!」
大きく両手を挙げてその喜びを最大限に表した。
足元をちょろちょろ動き回っていたビジョンも真似して短い足をぴょんぴょん動かす。
スカートの裾がはらりと靡いた。
「うわあああ! 痩せたー! やったあ!!」
「まるー! やった!」
「こほん、お嬢様」
小さなビジョンの体を持ち上げてくるくると踊っていると、シヴァは一つ咳をした。
「執務室で旦那様がお呼びです」
「ええ……」
◇
ドレスを着たまま急いで廊下を走る。
あの頃とは違う、体が羽のように軽くて疲れも感じなかった。
「お父様、失礼致します」
執務室に入ると、お父様はこちらに背を向け窓の外を眺めていた。
そういえばあの日以来お父様とは狙ったように顔を合わせていなかった。おそらく狙ってだろう。
「お帰りになっていたんですね。気付かずにすみません。あの……お父様?」
未だ私の方を向かないお父様にもう一度声をかけると、お父様は深く息を吐いて振り返った。
目が合うと、お父様は今まで見たこともない表情を見せる。
「……マルフィル」
「はい」
「マルフィル」
「はい」
「……マルフィルなのか?」
「はい!?」
ふざけているわけではなく、目頭を押さえるお父様は本気で言っているようだった。私はもう少しだけ前に出ると執務机を挟んでお父様と対峙した。
「はい、マルフィルです。お父様」
スカートをつまんでスッと頭を下げると、さらりとした髪が前に流れる。
傷んでいた髪も、この数ヶ月大事に扱って艶もあり天使の輪が出来ていた。
「……屋敷を空けていても、シヴァからお前の近況は聞いていた。使用人たちとは交流を深め、勉学にも励んでいたそうだな」
「は、はい。私が放棄した二年はそう簡単に埋まらないですが、多くのことを学びたいと、今はそう強く思っています」
「……」
言葉を切ると、沈黙が訪れた。
緊張感があたりを漂っている。呼吸音すら鮮明に聞こえそうで、私はそっと息を潜める。
「お前のこれまでの所業は目に余るものだった。公爵家の名を語り、街の人間達に権力を振りかざした」
「……はい」
「殿下から婚約破棄を言い渡され、それでも改心のないお前は、私はもう駄目かと思っていたが……」
そう言って一目こちらを見たお父様は、突然頭を下げてきた。
「お父様!?」
「お前の言葉を疑っていたことを、許して欲しい」
「頭を上げてください! 元はと言えば私が悪いんです。私が周りに迷惑をかけてばかりだから……」
威厳溢れる父の背中が、その時だけ私には弱々しく見えた。慌ててお父様に近寄って肩に触れると、そこでようやくお父様は私の方を向いてくれた。
「……お前のことは、フィーデルには私から伝えておいた」
「叔父上にですか?」
「ああ、そうだ。そしてこれを渡して欲しいと預かっている」
王家の紋章が押された便箋には、叔父上のサインが書いてある。受け取って中身を確認すると、短な文章で『許可する』と書かれていた。
「あの、お父様……これは」
「マルフィル、フィーデルはお前のパーティーへの出席を認めるそうだ」
お父様は軟禁生活について触れられてはいなかったが、生誕祭へと出席は許されたらしい。まだ屋敷の外を自由に出歩けないということだろうか。
だが、今は許可されたことが嬉しくてそれどころじゃなかった。
「ありがとう、ございます」
無意識に言葉が漏れた。
叔父上の手紙を胸にそっと当てる。
この手紙は私にとっての大きな一歩だ。部屋に戻ったら額縁に入れて飾っておこう。
「本当に、お前は変わったのだな」
感激に震える私の様子を見て、お父様は優しく呟いた。
そうなんです。私は変わったんです。
死にものぐるいでダイエットも頑張りました。
その頑張りが少しは報われたかと思うと、目の奥で熱くくるものがある。
「よく頑張ったな、マルフィル」
「はい、ありがとうございます……!」
「だが、気を抜いてはいられないぞ。お前にはまだ大事な仕事が残っているだろう」
「はい!……はい?」
思わず返事をしてしまったが、すぐに言葉の意味が分からなくなって眉をひそめると、お父様も同じような顔をした。
「あの、仕事って? 何かあるのですか?」
「……そのために、今までお前は調整していたのではないのか?」
意外そうにしたお父様に、何のことかと問いただすと。
「生誕祭に行われる誓いの儀……宣言後にアルバート殿下の肩にローブをお掛けする重大な役目を、お前がやることになったんだ」
「――はあ!?」
「それを狙っているのだと、私もフィーデルも考えていたのだが……違うと?」
「違います! そんな大切な役目を任されたいだなんて微塵も思ってはいません! どう考えてもそれはエレノーラ様のお役目じゃないですかっ!」
王家の人間が成人を迎える際には、やらなければいけないことがある。
それは自分の生誕の日、聖堂の壇上に立ち、国民に向けて成人を迎えられたことの感謝と、成人として最初の挨拶を。国を背負う立場である人間としての軽いスピーチを行うのだ。
そのスピーチを『宣言』、すべての流れを称して『誓いの儀』と呼ぶ。そして誓いの儀の最後には宣言をした者に王家の紋章入りのローブを肩に掛けてやらなければいけない。そうしないとすべての儀が完了にならないからだ。
ローブを掛ける役目は代々グランツ王家の女人、または王家筋の淑女が務めるのがしきたりである。
現在王家の子供は第一王子アルバートと、第二王子ユーラシオの二人。女性はエレノーラ王妃だけなので、ローブを掛ける役目はどう考えてもエレノーラ様のはずなのに。
「もう決まったって、エレノーラ様は良いと言っているのですか」
「是非にというお言葉をいただいたぞ」
(なにそれ!? 次期国王の息子にローブを掛ける役目を、息子が婚約破棄した女にやらせるって……なにそれぇ!?)
パーティーに出席するだけが目的だったのに、そんな大それた仕事が待ち受けていたなんて思ってもみなかった。誓いの儀すら忘れかけていたからだ。何か粗相したらそれこそ終わりだし、もうこれ以上家に泥を塗りたくないのに。
「私で、いいんですか。もし失敗なんかしてしまったら……」
お母様は王都にいないので、順番でいったら確かに王妃のエレノーラ様の次は私の名前がくるけれど、どうして叔父上もエレノーラ様もそれを許可したのだろう。
「――――失敗が、許されないからだろう」
私の疑問は、お父様のその一言で吹き飛んでいった。
もしかしたらこれが、叔父上からの最後のチャンスなのかもしれない。二年間も体たらくを続けていたのだから、むしろよくこんなに長く待ってくれていたと思う。
失敗は許されない。
きっとそれは私の今後にも影響してくるだろう。
こうなったら、辞退するわけにはいかないじゃないの。
「マルフィル、決めるのはお前だ。私は口を挟むつもりはない。好きにしなさい」
「……っ、分かりました、お引き受けします!」
ちょっとだけ投げやりに言ってしまった私を前に、お父様は満足そうに頷いたのだった。
◇
それから二週間後。
アルバート生誕祝賀パーティーの日、私は昼前に行われる『誓いの儀』に向けての準備をしていた。
「とてもお美しゅうございます……! マルフィルお嬢様!」
「そ、そう?」
ドレスに始まり、全身の装飾品、化粧とされるがままだった私は重大な役目を前に既にクタクタだった。
「もう、そろそろだね」
窓に目を向けると、何度か色の付いた花火が打ち上がっていた。朝から王都はお祭り騒ぎである。みんなアルバートのことを心から祝っているのだろう。
「マルフィルお嬢様、お時間でございます」
部屋に入って来たシヴァは馬車の用意が出来たと知らせてくれた。
「うん、分かった」
何度か深呼吸を繰り返し、覚悟を決めた私はファルムント家の使用人たちに見送られながら馬車へと乗り込む。
「行ってらっしゃいませ、マルフィル様」
「お嬢様ならきっと大丈夫です!」
「まあ、頑張れよ」
「まるー!」
「お嬢様の好物をご用意して帰りをお待ちしております!」
生意気なその声はコハク少年だな。
それにビジョンも。
「みんな、ありがとう。行ってきます」
優しさに触れ、少しだけ緊張が和らいだ気がした。
二年ぶりの屋敷の外、懐かしくも新鮮味のある王都の景色に私は息を呑む。
大通りではパレードが開かれ、どこもかしこもお祭り騒ぎとなっており、アルバートの人徳が手に取るように分かった。
アルバートは近年、多くの諸外国を視察訪問していた。私が軟禁されていた二年間は特に、王都に滞在していた日数の方が圧倒的に少ないだろう。
それもすべては政の参加を正式に許される歳……成人を迎える今日の日のためだ。
その勉強熱心さには本当に舌を巻く。しかもアルバートは三日前に視察していた北の公国から王都へ戻ってきたばかりだそうだ。成人を迎えるまでに多くの国を自分の目で見て、知っておきたかったからと言っても過密スケジュール過ぎやしないか。
まあ、そんなわけだから久しぶりの王子殿下の帰還も相まって国民たちの熱狂も凄まじいのだろう……誓いの儀も、多くの人達に注目されるに決まっている。
「……すぅ、はぁー」
「そう緊張なさらずとも大丈夫ですよ。今のお嬢様は誰にも劣らない淑女でございますから」
「シヴァ、本当にそう思う?」
「ええ、きっと誓いの儀で多くの殿方がお嬢様に目を奪われることでしょう」
相も変わらずシヴァは涼しげな微笑を浮かべて断言した。今日のドレスはシヴァが選んでくれた一着なのだが、馬子にも衣装になっていないか心配で心配で……ちょっと胸開けすぎじゃない? 透け透けしてるんだけど。
ドレスの種類は自分で決めて良いことになっている。色は白だと決められているが、デザインは自由だ。私は美しく見える歩き方や立ち方、ローブを肩に掛ける際の段取りを頭に叩き込むのに必死で、ドレスや装飾品に関しては全部シヴァに任せていた。
着させてくれた侍女たちの評判は上々であったけれど、今更になって色々不安になってきてしまった。
(こ、こここ転んだらどうしよう。というか改心したと分かって貰えるかな。一番の勝負は夜会での挨拶周りだけど、裾を引っ掛けてアルバートに突っ込んだりでもしたら……わーあーあーあー)
「マルフィルお嬢様」
「はい!?」
びくりと体が跳ね上がった。
ハッとしてシヴァを見れば、彼は眉を八の字にさせて小さく笑う。
「せっかく二年ぶりに屋敷の外に出られたのですから、王都の街の景色を眺めてはいかがでしょう。ほら、街全体が美しく飾られていますよ」
「え……」
いつの間にか下がりっぱなしだった視線を、もう一度馬車の窓の外に戻した私は、わっと声をあげた。
「……綺麗。花びらが、踊ってるみたいだね」
色とりどりの小さな花弁が、風に運ばれて舞っている。まるで意思でもあるかのように、集まっては形を変えて人々を楽しませていた。
「風を扱える魔族の仕業のようですねぇ」
先ほどまで喉から出そうだった不安が浄化されるようだった。思っていたより私は単純らしい。外の景色に夢中になっている間に、城へと到着してしまったのだから。
でもそのおかげで、改めて二年ぶりの王都の街を楽しむことができたのだった。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
城へと辿り着き、私はシヴァにエスコートされながら建物の中へと入った。
もう誓いの儀は始まっているらしい。
私の役目は誓いの儀の終盤なので、もう少し時間があるのだが、慌てた様子でグランツ王家の臣下と数名の騎士がこちらへと走ってきた。
あまりにも臣下が鬼気迫る様子で走ってくるものだから、シヴァは咄嗟に前へと出て私を庇う。
「お待ちしておりました。すでに誓いの儀は始まっておりますのでお急ぎくださりますよう」
「案内をお願い致します」
「……そちらが、贈呈役の方ですね? 陛下のご署名をお見せ頂けますかな」
シヴァの後ろに隠れたように立つ私を不思議に思ったのか、そう要求してくる臣下に、私はシヴァの前へと出て姿勢を正した。
「お久しぶりでございます。ミュート様」
ゆったり微笑んで手紙を差し出すと、ミュート様は怪訝な顔をして私を見つめる。その後ろの騎士からはゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえてきた。
ミュート様はグランツ王家の忠実な臣下であり、小さい時からの顔見知りである。城に出入りしていた時は何度も顔を合わせていたが、どうやら私だと気づいていないらしい。
「陛下のご署名、確かに……大変失礼を申しますが、貴方様は……」
ミュート様から再び戻ってきた手紙をシヴァに預けた私は、軽く膝を折って中腰の形をとった後、ドレスのスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「ファルムント公爵家長女、マルフィル・ファルムントでございます。またお会いできて嬉しいです、ミュート様」
「……はっ!?」
その刹那、ミュート様の表情がガラリと変わる。
後ろに控えていた騎士達も、まるで幽霊でも見てしまったかのような顔で私を凝視していた。
どうやら私が贈呈役だということを知らされていないらしい。この反応が何よりの証拠である。
「マル、フィル様? 貴方がマルフィル様だと……申されるのですかな!?」
「ええ……二年前は、大変な迷惑をお掛けしまして、申し訳ございません」
相変わらず迫力のある顔のミュート様に気圧されつつ、より深く頭を下げた。
しかし、口をあんぐりと開けっぱなしのミュート様に私の声が聞こえているのか定かではない。
「お嬢様、そろそろ移動なされたほうが」
懐中時計を確認したシヴァは、コソッと私の耳元に口を寄せて言った。時間に猶予があるからとはいえ、いつまでもこの場にいてはいけないものね。
未だ惚けているミュート様に声をかけて聖堂に案内してくれるようお願いすると、硬い人形みたいな手足の動きで奥へと進んで行った。一番後ろからついて歩く騎士の視線がひしひしと背中に伝わってくる。
……はあ、シヴァが近くにいてくれて良かった。
静けさが包んだ城の廊下は、薄らとなりつつある記憶を徐々に呼び起こしていく。
(あの東屋……まだ小さい頃にアルバートとよく座ってお喋りしてたっけ)
城と隣接した聖堂へと向かう途中、廊下の外から見えた建造物に目がいった。まだ私が純粋だった頃、城の使用人と鬼ごっこをして、最後には必ずアルバートと一緒に隠れていた場所である。
「お嬢様?」
「ううん、なんでもないよ」
思わず足を止めそうになった私を、後ろからシヴァが声をかける。
私はすぐに顔を横へと振って歩みを早めた。
「こちらで、お待ちを……」
聖堂の上段、脇のスペースへと誘導された。
途中でシヴァとは別れてしまった。下段の方にいるから緊急事態になったら名前を呼んでと言っていたけれど、シヴァなら本当に名前を呼べば飛んでくるのだろう。そう思うと心に余裕が生まれる。
脇のスペースには数人の騎士と侍女が一人だけがおり、彼女の手にはアルバートに掛けるローブがあった。
(この人、オリビアさん?)
ローブを手にした女性は、王妃エレノーラ様お付の侍女だった。
先ほどのミュート様同様に私だと気づいていない様子だが、私の姿に表情を硬くしている。
贈呈役はしきたりにより王家の女性か王家筋の女性のみに限られるため、見慣れない人間を訝しく思っているのだろう。
「……こちらを」
「は、はい」
上質な生地のローブが私の手に渡った。
あまりの触り心地の良さに鳥肌が立ってしまうほどである。
ローブを両手に乗せたまま、そっと脇から聖堂の覗くと、天井を支える何本もの大理石の柱が見えた。下の方には招待客や関係者が着席していて、壇上のすぐそばには叔父上とお妃、第二王子ユーラシオ、そしてお父様と我が弟ルーファの姿も確認できた。
(カルマお兄様!)
お父様と、ルーファの間にはこの半年顔を合わせていなかった兄、カルマお兄様の姿があり、驚いてまじまじと見つめてしまう。
アルバートの護衛騎士であるカルマお兄様は、当たり前だが諸外国を視察していたアルバートと共にグランツ王国を離れていた。
帰ってきてもまたすぐに別の国を回っていたアルバートなので、当然カルマお兄様も王都にいる日数は短く、半年以上も家には帰っていない。
前世を思い出してから顔を見たのは初めてだったので、私も興味津々になって「氷の貴公子」と名高い兄の姿を眺める。
(ほおお……氷の貴公子)
その佇まいだけでも何となく分かってしまうクールな雰囲気。腰には剣を差して、その切れ長い瞳はただ一点を見つめている。騎士であるカルマお兄様は今も神経を尖らせて護衛にあたっているのかもしれない。
そのお兄様の視線の先に見えたのが、壇上の前に立つアルバートの姿で……トンッと小さく胸音が鳴った気がした。
(アルバート、何だか大人っぽくなってる)
記憶の中にいた彼は立派な男性へと変わっていた。
あの頃より少し髪が伸びている。まだ少しの幼さが残っていた二年前よりも大人な雰囲気を纏わせたアルバートに、なぜだか私の目は吸い寄せられてしまう。
「――――を、アルバート・ミシェイラ・グランツはここに宣言致します」
気づくと聖堂内がワァッと拍手喝采に包まれていた。まずい、いつの間にかアルバートの宣言が終わってしまったようだ。
「……」
(大丈夫、大丈夫。名前を呼ばれたらさっと歩いてローブをさっとアルバートに掛ければミッションクリアよ。そこでアルバートと王家の参列者、招待客の方へ順々に頭を下げて壇上の横に控えるだけだから)
緊張の汗が一筋頬に伝う。
すると、その場所に優しく何かが触れた。
「……っは、あの?」
「勝手な真似を致しまして申し訳ありません。せっかくのお召し物に落ちては勿体のうございますので」
私の頬に触れたのは、傍に控えていたオリビアさんが取り出したハンカチだった。汗を拭ってくれたのだと分かって、ほっと一息つく。
「ありがとうございます、オリビアさん」
「わたしの名をご存知で……?」
「最後に、ローブ贈呈――――ファルムント公爵家令嬢 マルフィル・ファルムント。こちらへ参れ」
……目を瞠るオリビアさんの発言は、聖堂に響き渡った叔父上の声に掻き消されてしまった。
ざわりと。
聖堂の中で戸惑いが広がり始める。
「マ、ルフィル、様……?」
「はい、そうです。汗を拭ってくださってありがとう。オリビアさん」
驚愕のあまり肩を震わせたオリビアさんに向かってそう言った私は、ざわつく壇上へと足を踏み出した。
「あの女性が、マルフィルだと……?」
「そうですよ兄様」
「……ルーファ、お前、知っていたのか?」
「あの姿を拝見するのは初めてです」
「そうじゃないだろう。なぜマルフィルがここに……父上、これは一体どういうことでしょうか」
カルマお兄様はピクリと眉を動かしてお父様に何やら言っていた。ここからでは聞こえないけれど、聞こえなくても分かる。
どうして軟禁状態の私が、この場に現れたのか。
カルマお兄様だけではなく、今動揺を見せている出席者の誰もが思っているに違いない。
「……皆、静粛に」
だんだんと広まっていく騒ぎを、叔父上は一言で静めてみせた。
叔父上と目が合う。
何を考えているのか理解できない顔をしているけれど、私に向かって深く頷いていた。
コツ、コツ、コツ、と。
静まり返った聖堂は私の靴音だけが聞こえる。
姿勢を正し、堂々と胸を張って、ただ前だけを向いてアルバートの元へと歩を進めた。
「……」
アルバートは床に片膝を突き、頭を下げ壇上の前に跪いていた。
私の名前を呼ばれてからずっとこの体勢だったのだろう。自分の胸に当てた彼の手は固く握られていて、その様子は本当に私がいるのか疑っているようにも見えた。
「面を上げよ」
跪いたアルバートの前に佇む私を確認して、叔父上はそう言った。
「――――はい」
溜めるように顔を上げるアルバート。
透き通るその蒼色と、視線が交わる。
「……っ」
薄く唇を開け何かを言いかけたアルバートに、私は前のめりになって大きな背にそっとローブを掛けていく。
アルバートの顔がすぐ横に迫った。
はらりと流れてしまった私の髪が、彼の肩に降りる。
「……マル、フィル」
ローブを掛け終わって体を起こそうとする私の耳元で、アルバートが咄嗟に囁いた。
(うわ、わ……)
耳に響いた声音に動揺しつつ、私はもう一度アルバートと目を合わせた。
美しい蒼の瞳が、ゆらゆらと波打っている。
困惑したようでいて、まるで縋るように私を見上げるアルバートは、二年前よりもずっと立派になった大人の男性だけれど……でも、それでもアルバートだった。
「おめでとう」
ぽろりと出たのは、その言葉だった。
自分はこれから改心していくのだと知って欲しくて、今日まで必死に頑張ってきた。
贈呈役になって役目を全う出来たからといって、私が酷いことをしてしまった人達全員から許される保証などどこにもない。
でも、これ以上迷惑をかけたくなくて、肉玉ニート令嬢になりたくなくて必死だった。
ようやく今日、再出発地点に立ったのだ。
これからが頑張り時なのである。
……その決心は変わらない、けれど。
本当はこの瞬間を、ずっと待ち望んでいたのかもしれない。
婚約破棄されたけれど、失望させてしまったけれど、正直気まずいし会うのも躊躇っていたけれど。
なぜか、これだけは伝えなければと、思ってしまった。
「お誕生日おめでとう、アルバート」
私は彼にようやく、二年越しの祝の言葉を贈った。