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第一章



 トイレはずいぶんと離れた場所にあった。家自体が広すぎるので仕方ないが、行くときはユキの言うとおりに進めばよかったので迷うことはなかった。しかし一度トイレに入り廊下に出ると右と左のどちらから来たのかわからなくなった。内装が統一さているうえ目印になるものはなにもない。ユキに言われたことを思い出そうとしたが、酒をノ水着他姓で頭が回らない。とりあえず右に進んでみようと歩き出してみた。



 自分の勘を頼りに歩いていると、いきなり誰かの悲鳴が聞こえた。正確には悲鳴というには少し短く、一度ではなく何度も区切るようにして聞こえた。その声が誰のものなのかはじめはわからなかったが、自分の知り合いの声にあてはめていくうちに答えは出た。足音が聞こえないようにゆっくりと声の聞こえたほうへ行く。次第に声は大きくなり、はっきりとではないが言葉も聞こえるところまで近づいた。声が聞こえてきたのは他の部屋と同じ扉の部屋からだ。



 

 アゲハの声だった。ただその悲鳴に近い声は幼稚舎のころから毎日一緒にいても一度も聞くことはなかった甘い声で、声だけ聞くと女と間違えそうになるほど高い声だった。アゲハ以外の声は聞こえないが、クロウがあいつを呼んでいたのは覚えている。この部屋の中で何が起きているのか想像するまでもなかった。



――愛、してる……ク、ロウ!



 アゲハの声はその言葉を最後に聞こえなくなった。さきほどまで頭の中を包んでいた白いもやはすっと消え、変わりに電気が走ったような衝撃を受け、俺の頭ははっきり思考できるようになった。やはり見間違いではなかったのだ。あのときあいつの胸元から首にかけて見えた龍のタトゥー。あれはクロウの首にあったものと同じデザインだった。



――彼の本命は別だし



 ユキの言葉が何度も頭の中で繰り返し再生され、次第にそれは脳全体を揺るがすように大きくなっていく。いつまでも昔のままでなんて考えていたのは自分だけだった。みんなとっくに違う道を歩んでいて、違う人と過ごすほうが大切になっていた。それでももう一度会えたら昔に戻れると、どこかで期待していた。もう、とっくにみんなは前に進んでいるのに。自分だけが中学生という時間に囚われたままだったのだ。急に今日までの自分が恥ずかしくなって、逃げるようにその部屋から離れていった。




 だが、そもそもトイレを出た時点で道を間違えていたのかたどり着いた部屋はまた別の部屋だった。歩くのも疲れ、再び頭をもやみたいなものに覆われはじめ、そのまま誰の部屋かもわからないドアを背にして座り、目を閉じた。




――あいつがモテるのは普通だろ。男にしてはきれいな顔だし、勉強も運動できる。だからといって格好つけたり、自分のことをほめたりしない。まあ、本人は自覚ないんだろうけど。むしろ嫌いになる理由の

ほうが少なだろう。



 中学一年生の秋。同じクラスの女子に告白されたのだとアゲハ本人から聞いたのは昨日のことだった。本人から聞いたときは驚きであまり詳しいことを聞けなかった。それで今日はナーガと一緒に俺の家でゲームをしながら昨日あいつのことについて聞いてみることにした。しかし彼もあまり詳しいことは知らないらしかった。




「まあ、あいつもあんまり恋愛に興味なさそうだしな」

お前のことは好きじゃないという理由で断ったというのは聞いていた。それはとても真っ当な理由だし、あいつが好きでもない女と付き合わないことはわかっていた。




 こいつはこいつで彼女なんていないし、俺もいない。正確に言えばお互い好きな人すらできたことがない。雑誌に乗っている女優やモデルを見て、この人が可愛いだのきれいだのと騒ぐことはある。一緒にアダルトビデオを見ようと、両親が旅行に行っている間に俺の家にナーガとアゲハを泊めたこともある。だからそれなりに人を好きなることもあるだろうし、いつか結婚する日が来るだろうと思っていた。




 だが、どうやら俺は恋愛感情というものがよくわかっていなかった。可愛い、きれいと思うことはあっても好きだと思うことはない。一緒にいて楽しいと思うことはあっても付き合いたいとは思わない。いやそれでも付き合えばそこそこ楽しくやっていけるのかもしれないが、それは恋愛とは違うのではないかと思っていた。





 恋愛と友愛の違いがわからない。わかりやすくいえば俺はそういう人間だった。仲よくなった相手に女も男もない。仲のいい友人という大きなくくりでまとめてしまうのだ。だから昔は毎日一緒にいたミリアとなぜ付き合わないのか、本当は付き合っているのではないかとうわさされていた。どうしてそんなうわさが回るのかわからなかったし、俺がミリアに対して恋愛感情を抱いたことなど一度もなかった。まあ、向こうもないと思うが。




「その女の子って、あいつと話したことあるのか」

「あるみたいだけど、俺はあいさつくらいしかしたことないな。ナリっていう女の子で黒髪のショートへの子。積極的にアゲハに話しかけていたし、彼女があいつを好きのはたぶんクラスでレイトとアゲハ本人以外全員気づいていたと思う」



 ナーガの言葉は俺にとっては信じられないものだった。俺が何も言えずにいるとナーガは続けた。

「あいつがモテるのは普通だろ。男にしてはきれいな顔だし、勉強も運動できる。だからといって格好つけたり、自分のことをほめたりしない。まあ、本人は自覚ないんだろうけどさ。むしろ嫌いになる理由のほうが少ないよ」




 言われて見ればたしかにそうだ。むしろあの顔でモテないほうがおかしい。とくに今の俺たちの年の子供は顔で人を好きになるやつが多いって母親が言っていた。けれど当のアゲハはそう言うのが嫌いなのだろう。




「ほかにもアゲハのこと好きっていう女の子けっこういるよ」


 いつの間にこいつはこんなにもクラスの恋愛事情に詳しくなったのか。それともアゲハとよく一緒にいるから女子のほうからナーガに相談を持ちかけているのかもしれない。何より気になったのはあいつもいつか告白してきた女子と付き合うときが来るのだろうかということだ。



 その疑問が頭の中でぐるぐると回っているうちにゲームでナーガに負け、思わずコントローラーをベッドに投げた。再戦することもなく少しの間ぼうっとしていると、隣から視線を感じ横目にナーガを見て、言いたいことがあるなら言えと目で訴えた。




「……レイトさ、アゲハのことになると何かこう、ちょっと違うよね」

 何を言われているのかわからず、俺は黙って続きを聞こうとした。

「まあ、でもさ、アゲハだって好きな子くらいできるだろうし、いつか彼女とか作ってデートとかお泊りに行くんだろうね……そのときに俺にも彼女がいたらいいなってさ」




 それはきっと遠い未来ではないと自分の中で確信していた。何もおかしなことではない。誰だって好きな人と付き合って別れて、また付き合って。それを繰り返している間に結婚したいと思える人に出会うのだろう。それはナーガもミリアも俺も、そしてあいつも同じことだ。それなのにどうしてこんなにも頭の中がもやもやするのかわからなかった。

「レイトは苦労しそうだね。なんとなくだけど」

 その日のゲームは全敗だった。




 目が覚めると俺がいたのは昨日と何も変わらず見慣れない家の廊下だった。まだもやのかかったままの頭を軽くふり、昨日何があったかを順序立てて思い出そうとしたが、一番に思い浮かんだのはアゲハの龍のタトゥーとあえぎ声だった。まだ生々しく耳の中であの高い声が鳴り続けていた。心臓のあたりを握り潰されそうな感覚に襲われ、一度新こきぅうする。




 飲みすぎたせいか頭痛はするし、吐き気もする。とにかくこの場から出ようと立ち上がり、大きく伸びをしてから歩き始めた。勘を頼りに廊下を真直ぐ進み右へ行ったり左へ行ったりする。玄関を目指して歩いていたが、その前にみんなで飲んでいたあの部屋に荷物があったことを思い出した。財布と携帯はポケットに入っているので問題ないが、式のときにもらった冊子や念のため持ってきた筆記用具などが入っているバッグが置いてある。さすがに他人の家に荷物を置いて帰るわけにもいかず、取りに行こうとした。




「あれ、レイト。お前どこにいたんだよ」どこかの部屋からか出来たのはTシャツ姿のアゲハだった。

「あ、ああ。ちょっと廊下で寝ちまって」

 早くこの場から立ち去ろうと、アゲハの横を通り過ぎたとき、首のあたりに小さな赤い痣のようなものが見えた。昨日のこいつの声が再び耳の奥で鳴っている。

「帰るのか?」

「……なあ、アゲハ」



 聞くつもりはなかった。聞かなくても十分わかっていることだ。けれども聞かずにはいられなかった。それで自分が傷つくとわかっていながらも、俺の口は勝手に開いていた。



「何だよ、気分でも悪いのか?」

「お前、あのクロウって男と付き合ってんのか?」


 おそるおそる振り返ると、アゲハはなんだそんなことか、と言いたそうな顔でこちらを見ていた。

「付き合ってねえよ」




 アゲハの口から返ってきた言葉は俺の予想とは違っていた。付き合っていない? ならどうしてセックスなんかするんだよ。デリホスだから? でもこいつとクロウは客とホストという感じではなかった。

「じゃあ、どういう……」

言ってから後悔した。そんなことこいつに聞いてどうなる。付き合っていなくてもこいつがクロウとヤったのは事実じゃねえか。




 アゲハはからからと笑いながら壁にもたれ、ズボンのポケットからたばことライターを取り出し火をつけた。

「あー、自分で言うのもあれだけど、俺はあいつの所有物なの」

「何、言ってんだよ。意味わかんねえ」

「出会ったとき、あいつがそう言ったんだ。持ちつ持たれつってやつ? 違うか」



 本当にアゲハの言葉の意味が理解できなかった。所有物? 付き合ってはいない? なんだよ、それ。お前いつから人のものになったんだ。

「付き合ってねえのに、あんなこと、するのか」

 さすがに驚いたのか、アゲハの目が大きく開いた。ゆっくりと口から煙を吐き、笑いながら俺に近づいてきた。


「何だよ、お前見てたの?」


 目の前にいるこの男はもう自分の知る友人ではない気がした。切れ長な目と筋の通った高い鼻、男にしては白い肌。いつ見てもきれいな顔なのに、何もかも変わってしまった。

「もしかして俺とヤりたかった? ユキさんやキリトたちもいいけど、お前もいいかもな」




 アゲハに至近距離で見下ろされ、鼓動が早くなる。昔は俺のほうが高かったのに今ではこいつのほうが背が高い。あと一歩踏み出せば唇があたりそうなほどの距離で、アゲハは口の中の煙をゆっくりと吐いてみせた「いいぜ、俺もお前に抱かれてみてえし」

 


 アゲハの手が腰のあたりに伸びてきたとき、俺は力いっぱいその手を振り払った。アゲハは一歩後ろに下がり、もう一度たばこをくわえる。


「なんでお前、そんなに変わったんだよ」

 

たばこ吸うアゲハに横に中学のころのアゲハが浮かんだ。


「俺がどうなろうと、お前に関係ねえだろ」


 そうだ、俺には関係ない。いやたとえあったとして、俺に何かを言う資格はない。誰がどうなろうが、関係ないと言われればそれまでだ。それも五年もあっていなかったやつに、いきなりそんなこと言われても困るだろう。それでも俺は。




「ああ、関係ねえよ。それでも俺は昔のお前が好きだった」

 俺はそれだけを言うとアゲハに背を向け、玄関に向かっていった。あのときからずっと俺の中にあった名前のない感情はようやく一つの言葉になった。



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