ぼくらの森へ還ろう
そこは、不思議な匂いが充満していた。
最初は、甘いにおいだと思った。甘いといっても、チョコレートのような甘ったるいだけのにおいではなく、草原の中で風にのって運ばれてくる花の香りのような、爽やかさを孕んだ甘いにおい。
そのにおいは彼女のにおいだった。抱きしめられると胸いっぱいにその匂いが広がって、とても心地よかったのを覚えている。
その部屋で眠るのは、ひとりの少女だった。
白で統一された室内は、立っていると指先から熱が奪われていくくらいに冷たい。音という音は何一つなく、きんと張りつめた空気が音も、ぬくもりも、全てを拒絶しているような気さえした。
その中で眠る彼女にそっと近づく。足音が思いのほか高く響いて、けれどその音でも彼女は目を覚まさなかった。
彼女は、部屋の中央に置かれた大きなベッドに、埋もれるようにして眠っていた。
白木の天蓋ベッドに眠る彼女は、ぼくの記憶と少しも変わらない。白いシーツに包まれて、薄い微笑を浮かべた彼女の頬にそっと手を添えると、胸の中に濃く彼女のにおいが広がった。
「――約束を、果たしにきたよ」
ベッドのふちに腰掛けて、頬に手を添えたまま囁く。けれど彼女の長い睫が動くことはなかった。
眠る彼女の身体をそっと抱き上げると、ふわりと羽のように軽かった。さらりと流れる色素の薄い髪も、白磁のような白い肌も、何一つあの頃と変わらない。
両腕で包み込むように抱きしめてベッドから立ち上がると、できるだけ彼女を揺らさないように注意しながらドアへと向かった。
部屋を出るとき、少しだけ――そう、ほんの少しだけ、腕の中の彼女が微笑んだ気がした。
☆ ☆ ☆
ぼくたちは、まだ幼い少年と少女だった。両親も家も何もなくて、けれどふたりきりの暮らしでとても幸せだった。
家は森の奥にあった小さな洞窟だった。枯れ草と藁のベッドと焚き火のぬくもりしかないそこで、ふたり寄り添うように生きていた。何もない生活だったけれど、生きるのが苦しいとか、辛いとかは思わなかった。それは少女がそばにいてくれたからかもしれない。
彼女はぼくより先に森で暮らしていた少女だった。くすんだ白のワンピースだけを纏い、素足に色素の薄い髪をまとめもせずにいた彼女は、ぼくを見ると微笑んで、受け入れてくれた。
彼女は不思議な少女だった。
少女は眠らなかった。食事も食べない。ただ水を飲んで、満月の夜には森の中心にある湖に一晩中入っていた。だからぼくは、彼女は人の形をしているけれど、きっと森の精なのだろうと、そう思っていた。それが恐いとか、そんなことは一片も思わない。それよりも、もし本当に彼女が森の精だったのなら、ぼくもいつか森の精になれないかな、と思っていた。ずっと一緒に彼女と暮らしていたら、きっとそうなれるだろうと、そう信じていた。
けれど、穏やかな日々は長く続かなかった。
「ぼうや、こんなところまで来たら危ないよ」
その日、ぼくはひとりで森の奥にある木の実を取りに行っていた。彼女とどっちが多く木の実をとれるかの競争をしていたから、両手にたくさん、木の実を抱えていたんだ。沢山取ったからもう帰ろうと思っていたところに来たのが、あの人たちだった。
彼らは、人間の大人たちだった。ぼくを見るなり少し驚いた顔で、優しくそう言った。
「この森はこれからなくなるんだ。もう夕方になるし、危ないから早く家にお帰り」
あの人たちはそう言ったけれど、ぼくは答えようがない。だって、ぼくの家は森の奥の洞窟だし、森で危ない目にあったことなんて一度もなかったから。だからそう言ったのに、彼らは急に難しい顔をして、そうかと思えば口を手で覆って、なにかを堪えるようにぼくの頭を強く撫でた。
「かわいそうになぁ。ぼうや、こんなところで暮らして、辛かっただろうに」
「怖かっただろう? 森に棲む魔女に喰われなくてよかったなぁ」
「今までよく頑張ったなぁ」
「これからはもう恐い思いをしなくたっていいんだからな」
彼らは口々にそういうけれど、ぼくにはなにひとつわからなかった。どうしてそんなことを言われるのだろう、と目をぱちくりするしかできなかった。
だって、ぼくは幸せだったんだ。彼女と暮らすことが楽しくて、ずっとずっと続けば良いと、そう願うくらい幸せで。
なのに彼らは、幸せに暮らせるように森を出るように言った。ぼくは嫌だって言ったのに、森を出たら彼女と会えなくなる気がして。
「なら、ぼうや。その子も一緒に行けばいいじゃないか」
「そうだ、どの道この森はなくなるんだし、その子もぼうやも森で暮らせなくなる。ならふたり一緒に行こう」
「それじゃあ、その子のところに案内してもらえるかな?」
彼らは優しくそういうけれど、なにかが怖かった。たとえるなら、そう、ぼくらの大切なものを壊しに来た悪い魔法使いのような、そんな怖さだった。
だからぼくは、彼らを彼女のところに連れて行くことがいやだった。
ここは彼女がすむ森で、ぼくらの家で、そしてぼくらの全てだったから。
離れたくなんて、なかったのに。でもそれを許してはくれなかった。
結局無理に案内させられた洞窟の前に、彼女は立っていた。両手いっぱいの木の実を持って、ぼくを見るといつもどおりに笑いかけて、それから「私の勝ちね」と笑った。その言葉で木の実拾いの競争をしていたことを思い出したけど、ぼくの手の中にはどんぐりの一つだってなかった。
「……魔女。やはりここにいたか」
「こんな子供を――喰らおうとしていたのか!」
ぼくの後ろに立っていた彼らは、彼女を見るなりそう叫んだ。驚いて後ろを振り向けば、そのまま脇から抱え上げられて、背に守られるように視界を遮られる。ちらりと見えた彼らの表情は、ひどく険しくて、それはただ真っ直ぐに彼女に、向けられていた。
なにが起こっているのか、全くぼくにはわからなかった。わかったことはたったひとつ――彼女が、とても哀しそうに笑った、ことだけ。
☆ ☆ ☆
それからぼくは、森の外へと、彼らの住む世界へと連れ戻された。
街の大きな教会に引き取られて、そこで教育を受けさせてもらった。暖かいベッドも、お腹がいっぱいになるほどのご飯も、柔らかくて暖かい服も、優しくぼくを抱きしめてくれる大人もいたけれど、でも――彼女だけが隣にいない。そんな日々を、ぼくはたったひとりで過ごした。
彼女があのあと、どうなったのかを知ったのは、もうぼくが大人になってからだった。
ぼくはその頃もう大人になって、働いていた。王宮の騎士として働くぼくは、宮殿の中にある寄宿舎に寝泊りしていた。騎士の称号を頂くと給料も上がって、殆どの同僚は街の中に家を持っていたけれど、ぼくはひとりで過ごすのがいやだったから、仲間たちと一緒に寄宿舎で暮らしていたんだ。
そんな時に聞いたのが、彼女の話だった。
話してくれたのは、随分古くから騎士をまとめる職についている人だった。ぼくが騎士になったばかりの頃にお世話になった人で、だからぼくには色々と世話を焼いてくれる、大切な上司。そんな彼がこっそり教えてくれた。
きっとそれは、ぼくが彼女を忘れられないと知っていたから。今でも時々、かつて森があったところを見つめているからで、だから彼はぼくに教えてくれたんだと、思う。
「あの塔に行ったことはあるか?」
彼は最初にそういった。ぼくは行ったことがないから首を振る。
彼が指したのは、王宮の奥に忘れられたように存在する塔だった。真っ白の外観だったけれど、その塔に窓はない。扉も、ない。かつてそこが扉だったんだろうと思われるところはコンクリートで塗り固められて、誰も通れないようにされていた。
どうしてそんなことを聞くのだろうとおもったら、彼はそこに魔女が――彼女がいるのだと、声低く言った。
ぼくが森から出てきたあの日、森が伐採された。でもそれは、そこに棲む人の子を喰らう魔女を討伐するためだったという。
けれど魔女の力は強く、人の身では彼女を滅ぼすことができなかった。だから、森から引き離し、力の源である森を焼き払い、そうして日のひかりも射さない塔に幽閉することで殺そうとしたのだという。
ぼくはどうしてそれを、ぼくに教えてくれるのかと問うた。
ぼくが、あの森で彼女と――魔女と、暮らしていたのを彼は知っている。いまだに彼女の行方を捜していることも。もうずっと探していたのにわからなくて、もう諦めようと、そう思い始めたその矢先になって、なんで教えるのかと問う。
でも彼は、なにも答えてくれなかった。ただ首をふって、塔へ行くようにと、それだけを言って去っていった。
ぼくはそのまま、走ってそこへ行く。何故だか嫌な予感がとまらなくて、心に浮かぶ悪い考えを打ち消すようにひたすら走った。
たどり着いた塔を見て、ぼくはその場に立ち尽くした。走ってきて心臓はどくどくいっているのに、流れ落ちる汗はひどく冷たい。指が震えているのも、声が出ないのも、全部他人事のような気さえして、しばらくぼくはその場に立ったままだった。
ぼくの目の前にあるのは、扉を固めていたコンクリートが破壊され、奥へと続く階段があらわになった、くすんだ灰色の塔だった。
おかしい、と思う。それまで確かにこの塔は白かったはずなのに。いやな汗が頬からあごへと伝う。震えるからだで、それでも前へと進んだ。
どこまでも続くかと思うほど長い螺旋階段をおそるおそる上り、やがてたどり着いたのは灰色の壁に不釣合いなほどに白い、木の扉だった。
手をかければ、それだけできぃと小さな音をたてて開いた。
ドアを開けた途端に広がるにおい。懐かしさで泣きたくなるほどのにおいに包まれて、ぼくは一歩を踏み出す。
白で統一された部屋の中央におかれたベッドに近づいた。薄いカーテンで覆われたベッドに、彼女は眠っていた。あの頃と全く変わらない姿で、ただ静かに眠っていた。
そっとベッドに腰掛ける。ぎしり、とベッドが音を立てて、ぼくはそっと彼女の頬に手を添えた。
(ねえ――)
触れた指先から、かつての記憶があふれる。ぬくもりもなにもない、柔らかな彼女の肌だったけれど、ようやく会えた。その想いに涙をこらえるのが精一杯だった。
(ねえ、いつか私が眠りについたのなら――)
そうだ、彼女がいつか言っていたんだ。
なんで君は眠らないのかと聞いたら、笑って君はそう言ったんだったね。
あの時から、君はわかっていたんだね。それでもなお、望んだのがそれなら――ぼくは。
「あの時の約束を、果たすよ」
もう一度優しく頬をなでて、そっと告げると彼女の体を抱き上げた。
ぼくの体はもう大きな大人に変わってしまっていて、抱き上げた彼女の体はちいさくてとても軽かった。
ねぇ、いつか私が眠りについたのなら――わたしを森へと還してね?
だから、さぁ。ぼくらの森へ還ろう。