競走
「競争をしよう」と言ったのは、野暮ったい三つ編みを揺らしたあいつだった。
最初唖然とした僕の表情は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔だっただろう。思わず箸で掴んでいた芋の煮っ転がしを取り落としてしまう。それはもう、間抜けな表情だったはずだ。何しろ僕は陸上部で短距離のエース。そして、あいつ……柏原茜は、陸上部のお荷物と呼ばれていたからだ。
「馬鹿か?」
昼飯時の学校。二年生の教室の喧騒は陸上部のエースに、独擅場である土俵で喧嘩を売った馬鹿の一言に静まり返っている。その水面に僕の言葉が波紋を広げる。
教室内は未だに静かだ。
「馬鹿じゃないわ、正直なだけ」
当然のように胸を張る柏原。そんな風に言われても僕は一向にどうすれば良いのか分からない。これが冗談であればどれほど楽だっただろう。今すぐにでも種明かしをして、友人間の罰ゲームでした。と言ってもらえれば本当に救われる。正直に言えば僕は今すぐにでもこの自慢の脚力で此処から逃げ出してしまいたい。
「あのな、こっちの事も考えてくれないか?」
「お断り」
満面の笑みの柏原。嫌なほどに昔から変わらない。
回りは未だに静まり返っていて、誰も動けない異様な空間が形成されている。言わばこの柏原の妙な存在感に全員が萎縮しているのだ。さながら蛇と蛙。それが僕の嫌な汗に拍車をかけていた。
「放課後に校庭ね」
「嫌だ」
「拒否権があると?」
「僕にも人権がある」
「え、嘘」
「そこから否定しますか」
盛大に吐いたため息がなんとも虚しく感じられる。そして僕の隣に居た男子生徒が、そそくさと場を離れるのを見たとき、もう一度ため息を吐きそうになった。
「勇次、頼む、行くな」
その肩をむんずと掴むと、眼鏡をかけたその短髪男子生徒はむっつりとした顔で振り返った。
「いや、後は若いお二人に」
「お見合いしてる訳じゃないぞ」
結局ここ2分の間にため息を二回吐く運びとなった。これが幸せのバロメーターとして減っていくなら、今僕の幸せは最低値を大きく割っている事だろう。
勇次はむっつり顔のまま、しょうがないとばかりに一定の距離を保って昼食にありついている。そこで、ああそういえば昼食はまだだった。最初に好物の芋の煮っ転がしを口に運ぼうとして柏原が来たんだ。と、ふと思い出す。
「で」
だがそんな事お構いなく、ぐいっと顔を近づける柏原。それに気圧されるように僕はずいっと顔を引いた。
「いつ?」
本当に僕に人権は無いらしい。
「いつ?じゃないだろ、拒否する」
「却下」
短い一言が静寂の教室に響く。即答だ。0.3秒の早業だ。これはもう世界記録だろう。
柏原は腕を組むと、一枚の白紙をたたきつけた。
「ここに、要望を書いてもらえる?」
「僕はできれば今すぐ弁当を食べたい。さらに詳しく言えば芋の煮っ転がしが欲しいな」
答えた次の瞬間にはチョップが俺の頭に叩きつけられた。女子の膂力から放たれるチョップなど高が知れているが、正直言って痛い。
「私は要望時間を聞いたの、それで、その上でもう一回言ってもらえる?」
そして、この一言と満面の笑顔だ。ちなみに右腕がグーの形で待機している。お願いではなく脅迫という意思表示だろう。何故こんなに高慢ちきに育ってしまったんだろうか。
視線で背後の勇次に助けを求める。
(おい、親友。助けろ)
心からのメッセージ。それはもうこれほどまでにこの悪友に助けを求めた事があっただろうかというほどに真心を込めて。そしてそんな友人のアイコンタクト返答は―――――
(諦めろ、親友)
わざわざサムズアップしてまで、分かりやすい返答をしてくれた。絶対にいつか仕返ししてやる。
今度は目線をクラス内に移す。誰かに助けを請うために必死だ。しかし、誰一人目を合わせない。無理矢理合わせようとすると、あらぬ方向に目線を向ける始末だ。どこまで薄情なクラスなんだろう。
「っち……放課後だ、放課後相手してやる」
「あーりがと」
仕方なく折れると、今度は先ほどまでとはうって変わった柔らかな笑み。何だってこんなに表裏激しくすりかえられるんだろう。女というのは考えがたい。
「コースは決まってるのか?」
「一応ね、でも、秘密」
人差し指を唇に当てる仕草で茶化すと、柏原は尻尾のような三つ編みを揺らして本当に嬉しそうに授業中よりも静かな教室から出て行った。嵐が去ったという言葉が良く似合う状況だ。
「おい親友」
「なんだ下衆野郎」
ようやく過ぎ去った台風に脱力した僕の肩へ、急に重みが掛る。振り返ると、むっつりとした表情の勇次。
「柏原、どうしたんだ?」
「別にどうって事ねえよ」
僕はようやくありつける弁当に舌鼓をうちつつ、適当に言葉を返す。台風が過ぎ去った事を認識した教室は、いつもの喧騒を取り戻していた。
「柏原って言えば、運動以外は凄いって評判の才女だろ?」
「逆に言えば運動音痴なトロ女だな」
肉じゃがは今日も美味い。先ほどの珍事など洗い流してくれる程の旨みだ。出来れば先ほどの珍事の後遺症も癒して欲しい。
僕は全てを忘れるべく、えらくハイスピードに飯をほおばる。だが、それを知っていて尚、この元親友は追い討ちをかける。
「じゃああの噂は本当だったんだな」
「キ、キノセイダ」
頬張る手を止めると、ぎこちなく下衆野郎の方へ顔を向け、自分でも呆れるほどの片言で否定する。箸がぽろりと手から落ちて、情けなく埃まみれの床を転がった。
僕――諸星栄治の当たり障りなくがモットーの人生において、大きな人助けをした事が一度だけある。
話せば長くなってしまうのだが。実は、その助けた相手と言うのが、あの柏原茜だ。
見ず知らず、というわけではない。それなりに親しかった。だが、それだけだ。それに、保育園に居た頃の話。僕自身も曖昧にしか覚えていないし、そのときは一心不乱だった。
だから、その時何を言ったとか。何をしたなんてあまり覚えていなかった。
僕らがかよっていた保育園には、小さな遊具付きの庭がある。そこは通常外部からの侵入者がほいほいと入らないように、少し高い柵と金網が張ってあった。元々保育園の園児数も少なかったので、そこはあまり手入れもされておらず、最低限の草刈と遊具の手入れだけがされていた。
草が覆い茂る場所……隅っこ等は子供たちにとって恐怖でもあり、同時に勇ましい探検への入り口でもあった。
だが、ある日僕を含めた4人の園児がその覆い茂る草の中へ足を踏み入れるとその場所だけ、金網と柵がなくなっているのを見た。
「出てみよう」と誰かが言った。「そうしよう」賛同して、誰かが言った。僕は、「勝手に出たら怒られるよ」としりごみしたが、「お前怖いのか?」と言われ、結局とても幼くちっぽけなプライドを守るべく、金網と柵という安全な境界をくぐってしまった。その後知った事だが、その中の男の子についてきていた勝気そうな顔の女の子が居て、それがあの柏原茜だったようだ。
僕達はずんずんと藪の中を進む。もう周りは暗く、ゲームに出てくるモンスターでも飛び出してきそうな雰囲気に圧倒されながらも。
実際には藪に入って5分とちょっとしか経っていないにも関わらず。急に、もう戻れない奥底まできてしまった感じがしていた。男の子の一人が、泣き出しそうな声で「帰ろう」と言い出す。しかし、リーダーシップを取っていた男の子がそれを無視してずんずんと進み続けた。
流石に引き返した方が良いと思い始めた頃、「水の音がする!」そう言ったのはリーダーシップを取っていた男の子だった。急に走り出すものだから否応無しに僕と柏原と泣き出しそうな男の子も走ってついていった。
そこには、とても綺麗な川が流れていた。街で見るような、泥水の川じゃない。ちゃんと、臭いの無い澄んだ透明色の綺麗な川だ。
太陽の光に反射した石がキラキラと光る。そこからか鳥の鳴き声がして、軽く耳に響いた。そんな見たことも無い光景に、僕たち四人はしばらく一人も声が出せなかった。
ところが、その静寂を獰猛な一声が引き裂く。
「バウバウッ!!」
「ひゃっ!?」
先ほどまで泣き出しそうだった男の子の悲鳴、そして獰猛な何かの一声に、振り返る。
黒い何かだった。それは今思えば単なるみすぼらしい野犬だったのだが、幼かった僕らには黒いモンスターにしか見えず。大人ですら簡単に食い殺してしまう恐ろしい怪物として認識した。
幼い防衛本能を全力で働かせた僕らは、何も考えずに来た道を全力で走った。それがいかなる結果を生むかは少し考えれば明白だ。
「アォォォォォォォン!!」
悪魔の叫びと共に、黒い獣が風のように追いすがる。
草木が先ほどの三倍ほどのスピードで駆け巡った。息を継ぐ暇もなく、次の景色が開ける。当時から足の早かった僕はすぐに四人の中でも先頭に立った。それでも背後からは悪夢から這い出したような獣の息遣いが聞こえる。だが、もう少しで出口でもあった。
逃げ切れる!
そう確信するのと同時に「イヤァァァ!!」という甲高い悲鳴が僕の耳を打った。
思わず踵を返してブレーキをかけて足を止める。その僕を避けるようにして二人の男の子が我先にと駆け抜けた。そして、二人が駆け抜けた後、数メートル後ろには座ったまま後ずさりする柏原。そして、じりじりと追い詰める獣。転んでしまったのか、柏原の顔に擦り傷が見える。
どうする!?
思考は一瞬だけだった。手に持った木の棒を片手に、その後は先ほども言ったように、あまり覚えていない。
いつの間にか助かっていた僕と柏原は、園長先生に保護されて、親が来るまで見事に絞られていた。その後ずっと自分の助けた『はず』の女の子の事は忘れていて、結局小学校に上がる頃には出来事は覚えていても、その女の子の事は完璧に忘れていた。それで、柏原との話は終わりだ。
「終り、だった筈なんだけどなぁ」
ふと昔のぼやく僕に、勇次が気だるげな視線を向けてくる。そこには一種の嘲笑と、同情がない交ぜになっているのが分かる。それほどに、ムカつく視線だった。
「まぁ、同情する。痴呆に成る程悩むとは」
「同情するなら金をくれ、あと痴呆ってのはどういうことだ下衆野郎」
僕は最後の一口を頬張ると、すぐに席を立った。教室の喧騒はいまだ盛況で、収まる事を知らない。
勇次は僕を一瞥すると、すぐに肩をすくめる。
「で?本当なのか?あの噂は」
「勝手な噂だ」
僕は手をヒラヒラとすると、弁当をかばんに仕舞って、無言のまま教室を出た。
そのまま自動販売機でペットボトルのスポーツ飲料を二本買うと、校庭へと足を運んだ。
噂、というのは。僕が一年生の頃たった噂だ。
曰く、『諸星を走り競争で負かした女子は、好きな人と付き合うことが出来る』
「なんじゃそりゃああああああああ」と、噂を耳にしたときは思わず叫んだ。何しろ女子の間で流行るような占いやおまじないを、個人名義で、しかも当事者として参加させられているのだ。当時噂を流したと思われる張本人の先輩をきつく問いただしたのも昨日のように覚えている。
だが、それでも信じる子はいるもので、一年生の頃はのべ四十人ほど相手にして、全勝してきた。
いやはや、その度に女の子の恨みがましい視線の痛いこと痛いこと。そうなるなら挑まなければ良いものを、だれしも一度は挑戦したいのか?はたまた無謀と知りつつもかなえたい恋路なのか?どちらにせよ、僕に挑む勇気があるならば告白したらどうなんだといいたくなるばかりの勢いだった。
二年生になってからは一番の挑戦者だった三年生が引退した事でその数も極端に少なくなり、特に申し込まれる事もなくなった。
だが、そこに要らぬ一石を投じた馬鹿が居た。2ヶ月前の全校集会のさなか、生徒からの連絡コーナーで大声を張り上げた女子が一人。
『諸星!絶対に負かす!!』
そいつは同じ陸上部で、しかも保育園以来の顔見知り。しかし実力は天と地ほどの差。その馬鹿はそれだけ言うと満足気にマイクを集会役員に渡すと、胸を張って自分のクラスへと帰っていった。
『生誕以来その身の純潔を守ってきたアイアンメイデンがついに恋!?』の噂はすぐに校内に広がる。もはや奴は処刑用具として見られていたらしい。
そして、いつかは来るだろうと思っていた本人からの申し込み。あの悲鳴を上げた少女は何処へやら、強引に約束を取り付けると、クラスに嵐の爪あとを残して上機嫌に帰っていった、という次第だ。
「昔は可愛かったんだけどなぁ」
またもやぼやくように言うと、僕は体をほぐし始める。
いくら女子が相手とは言え、手を抜くのは失礼だというのが僕のモットーだ。そして、彼女ならなおさら――――
「ま、手を抜いたら殺されるかもしれないし」
というわけで、僕は体をベストコンディションに近づけるため、昼休みの貴重な時間をウォーミングアップに費やす次第となった。
放課後、ジャージ姿で校庭に出た時には、既に同じような格好の柏原が居た。しかし、いつもと違うのは、野暮ったい三つ編みを解いて、ポニーテールに結ってある。
「逃げずに来たようね!」
「亀が何を抜かすのか」
挨拶代わりの言葉のジャブ。本当にジャブが飛んできたので慌てて回避した。
「ゴールはあの丘!」
柏原が指差したのは、学校から見て東にある小高い丘だ。良く見える一本木があるので、どこにあるのかが分かりやすい。街の中を少し走るから、大体1200M程だろうか。
「さて、始めますか!」
どこからそんな元気が出ているのか、僕は少々疑問に思いながらも頷いて、スタートラインについた。何度もやってきたクラウチングスタート。対するは、まるで小学生のようなスタンディングスタート。
「仮にも陸上部だろ」
「文句つけんな」
パン!
陸上部の後輩によるスタートの合図が出された。
僕は出来るだけ前に出ようと地面を思い切り蹴る。隣の柏原も好調なスタートのようで、上手く僕にすりついている。
ほう、と思わず息を飲んだ。クラウチングスタートと違って、スタンディングスタートはスタートダッシュが難しい。だが、柏原はそれを気にさせないほどに、見事なスタートダッシュを見せた。
曲がりなりにも陸上部とでもいうのか、スタートしてすぐに引き離される事はなく、何とか僕にくらいついてくる。短距離が得意な僕に食いついてくるのは意外だった。
「結構速いな」
ぼそりと呟く僕に、柏原はにやりと笑顔を見せると、また少しだけスピードを上げる。本当に、予想以上に速かった。校門を抜けて市街地に来ても、未だに食いついてくる。この数日間何を訓練すればこうも早くなるのか?短距離では下から数えた方が早い今までとは見違えるほどに急成長している。
だが、疲れの色は隠せないのか、すぐに顔色が赤くなってきた。どうやら体力は一朝一夕で身に付かなかったようだ。
すでに市街地を抜けて林道に入り始めている。勝負は中盤。ここで引き離すために僕は少しだけペースアップした。
「こんのぅっ!」
顔を赤くしたままの柏原は、それでもくらいつこうと必死になる。
林道の道は凹凸が多く、どうしても体力を消費してしまう。僕は身長に走るコースを見定めて、体力の消費を最小限に抑えて、ラストスパートに備えた。
そして、ラストスパートはすぐに来た。
少し急な坂。一年生の頃なら、僕が勝負を挑まれた時、そのコースのラストスパート付近には観衆がいたものだが、もはや勝負は分かりきってるのか、今となっては観衆の一人も居ない。気楽になるだけだから別に問題は無いし、気にもかけていないが。
僕はペースを三段階も上げると、少し乱れた息を整えながら坂を駆け上る。だが、後ろからの息遣いで、柏原もいると分かる。
いつの間にか、僕は柏原から逃げるような体勢になっていた。
僕は思い切り坂を駆け上がる。
柏原はそれに追いすがる。
気を抜けばすぐに抜かれてしまいそうだ。その思いと慣れない長距離に、僕は事更に息を乱す。
一本木の影が大きく見える。
残り五十Mも無い。だが、勝負は分からない。
「うぁぁぁぁぁああああ!!」
柏原の声。ゴールまで後十M
ヤバイ、抜かれる!
僕は更に足を踏み込む。
ゴールまで?
誰が前にいる?
僕か?柏原か?
最後の一歩。その一瞬だけ視界が白くなって、すぐに僕も柏原もその場に倒れこんだ。
「はぁ……はぁ……」
「柏原……そんな早かったけか?」
僕の問いに、柏原は息も絶え絶えにヒラヒラと手を振った。
「今回のは……はぁ、はぁ……気合よ、もう。一生こんな走りしたくないわ」
苦しげな、しかし満足げな柏原の声に僕は「そうか」とだけ言うと、一本木に寄りかかって、息を整える。思えば、この競争に掛っていたのは柏原の恋路だ。それなら、こんなに頑張れるのかもしれない。
僕はそう納得すると、ジャージのポケットに突っ込んでいた二本の水筒を取り出す。
「げ、そんな……もん持ってたの?」
「ああ」
「げえええ、勝っても駄目だった訳……」
心底残念そうに膝をつく。柏原は地面を何度か叩くと、こっちをにらみつけた。
「意地悪」
「どうとでも言ってくれ。ほれ」
その柏原を尻目に、僕は水筒の片方を投げ渡した。
受け取る柏原は、きょとんとした表情で水筒を見ている。
「え?」
「まぁ、なんだ、その。ご褒美」
「なにそれ」
じとっとした目でこちらを見る柏原。だがすぐに水筒を開けると、喘ぐようにして一気にスポーツ飲料を流し込んだ。ぷはぁっと、いった風にこちらが気持ちよくなるほどすがすがしくさらに威勢良く口から離すと、柏原はこちらを見る。
「……ありがと」
「どういたしまして」
それから……また、少しの沈黙が流れる。もうすぐ空は茜色に染まるだろう。そうなったら、また、いつかの時間だ。
「柏原」
それを考えたら、思わず僕は口に出していた。
「保育園の頃、覚えてるか?」
昔々の話。
ピクリと反応した柏原が、こちらを向く。
「僕はなんでお前を助けたのかな?」
あの時、僕の体からは勇気が駆け巡っていた気がする。当たり障りの無い、とかどうでも良くて。目の前の柏原を助けたかった。
「……わからないよ」
少し、沈黙して帰って来たのは、そんな返事。そうか、そうだよな。だって、僕にも分からないんだから。
僕は、そうだよな、と、少し悔しそうに笑って……
「でもね、あの時の諸星はかっこよかった」
それから、柏原の笑顔。
何で笑ってるのかは分からなかった。でも、それはとても綺麗だと思えて……助けた理由になるんじゃないかって、こじつけた。
それが、今日一日の終り。後は特に何もなくって。ただ、彼女の笑顔だけが心に残った。
本当は、全部言うつもりだった。
諸星に、全部打ち明けるつもりだった。
『離れろぉぉぉおおおお』
荒っぽい大声の後、棒切れを持って野犬から助けてくれた男の子は、私の憧れになった。そして、憧れはいつからか恋心になって、違う小学校に行ってからも、ずうっと心の中にあった。
覚えていたのは名前だけ。だから、ずっとずっと適わない恋。だったはずなのに、高校に入学したその日。私は二度と見ることのないと思っていた顔を見る事になった。
そのときの私の喜びようは、過去に類を見ないだろう。静かな、しかしはじけるような歓びが、四肢を伝わって、体の芯を揺らした。
だけど、同時に不安だった。私は覚えていたのに、彼が覚えていなかったら、と。
私は積極的に彼に関わる事にした。昔から運動が苦手だったけど、陸上部に入った。そして振って沸いた話。諸星に勝てば恋路が実るという噂。
勝ってやろう。と決めた二ヶ月は、比較になら無い程練習に明け暮れた。運動音痴の私でもやってやろう、勝ってやろうと。
そして、今日その結果を出した。結局私の負け。でも、彼が覚えている事が分かった。
でも、私は何も言わなかった。
どうして?といわれれば返答に困る。
ただ、一つだけいえるのは。
……まだ、あの日の事を、私だけの大切な宝物にしたかったから。
「離れろぉぉぉおおおお」
どこからともなく声がした。
目の前の獣が、その大声にビクリと反応する。
はやてのようなソレは、私の目の前に立ちふさがると、小さいながら大きな背中を見せた。
少し長めの棒切れを構えた彼は、震える体に力を込める。
「ま、守るから!」
「え?」
突然の言葉に、私は混乱した。
「ぼ、僕が守るから……大丈夫だから!」
なんの根拠も無い言葉だった。子供空言。そうしなければならないという、虚勢だ。
「う、うん」
でも私は頷いた。いつの間にか体の震えが止まっているのが分かった。目の前の男の子が、確かに守ってくれると、信じた。そして、幼い心に思った。この日、この事を焼き付けようと。
少年がじりじりと前に出る。
野犬がその気迫に押される。
そして、世界は動き出す。かちりと歯車を噛み合わせて。私の物語(恋路)が始まった。
終り
軽いスランプかもしれませんねぇ
読んでいただき、光栄です。




