ロスト⑦
「最近、酒が過ぎるんじゃないのか?シーズンは長い。それにお前の人生はもっと長い」
監督はベテランを嗜めた。
「でも、試合の前に飲むような事はしてませんし、結果は出してます」
「分かってる。ただ、新聞は持ち上げた後は落とす材料を探すものだ」
*-*-*-*-*
オープン戦での結果を見ろ。何に文句があるって言うんだ!?
肩は完全に仕上がってるし、120球投げても何でもない。確かに異常だと思う。
あの原因不明の頭痛があってから日に日に体に力が漲ってくる。
今では力を抑えなければスピードが出過ぎてしまう。セーブしなければ恐らく180キロを優に越えてしまうだろう。もしそうなったどうなる?
メジャー最速記録ですら170キロに満たない。
世界最速投手?ヒーロー?メジャー移籍?とんでもない。
メジャーが、世界のトップが170で争っている時に180だと?
誰も認めやしない。ロートルの日本人投手だ。調べられるに違いない。徹底的に。そうなったら俺すら知らない何かが出てくる。
なぜなら・・・これは本来の力ではないから。俺自身が分かっている。
しかし何だっていい。
あのナイター照明で輝くマウンド、何万もの観衆の視線を一身に集め、バッターを打ち取る快感。あれを味わえるんなら鬼でも悪魔でも何でもいい。
一番大事なものを差し出したっていい。
だから慎重に使わなければならない。この力を。
◇*◇*◇*◇*◇
俺が若い頃の最高速は152キロ。直球勝負の速球派ピッチャーだった。
しかし、変化球とテクニックがなければ多少スピードがあっても簡単に打ち込まれてしまう。
プロはそんなに甘い世界ではないのだ。
ファームに何度も落ちた。どうすれば勝てるのか分からなかった。4球団を渡り歩いて、去年は以前に世話になったコーチが監督を務めるチームにやっと拾ってもらった。しかし、成績は振るわなかった。
監督から来シーズンが最後といわれた。年棒も最低ラインだ。
オフは自主トレをみっちりやると宣言して山にも篭ってみた。
そんな事で変わる訳がないんだよ。でも、何かをやってるって見せなきゃって思ったんだ。
この時点で十分に負け犬だった。
山篭りは慣れないテント生活で疲れただけだった。
夜は硬いマットと虫で寝られなかった。
・・・そして、あの夜。
不思議な光が漂っていた。目をつぶったまま一晩中震えていた。
朝になると荷物もそのままに山を下りた。
それから数日後だった。頭痛が始まったのは。
折角の正月。プロ野球選手としての最後となるかもしれない正月。俺は寝て過ごした。
熱にうなされた俺は、夢を見ていた。
渾身の一球を打たれて死ぬ夢だ。繰り返し何度も見た。熱が下がると同時に夢は見なくなった。夢の話をすると妻は顔をしかめた。
「冗談でも死ぬなんて言わないでよ、もう」
「俺はピッチャーだせ、バットで死ぬなら本望だよ」
休みの間に出かけられず、息子には悪い事をしたが、1月半ばには練習を開始できるようになっていた。
あの驚きは今でもはっきりと覚えている。
体が軽い。ふわふわする感じだ。まだ治りきっていないのか?
はっきりと分かったのはキャッチボールの時だ。
「最初から飛ばさんといて下さいよ~」
若手が皮肉のこもった声を出す。
コーチが近づいてくる。
「ベテランが頑張っているとチームの気合も上がるよ、うん」「だが、あまり無理はするな。今年が大事な1年だって事は解るが、故障しては元も子もないからな。ランニングでも張り切っていたようだが、徐々にでいい」
このコーチも俺を見限っている。どうせ今期限りと考えているだろう。
「ちょっとブルペン入っていいですか?」
「何を言ってるんだ、まだ早いだろう。それに体だって温まってない」
「いえ、自主トレで調整してますんで。肩も温まってます」
俺の目を見た途端、コーチはたじろぎ、「ならキャッチボールの後でやってみろ」と吐き捨てた。
若手に混じってブルペンに入る。
俺を見て失笑したヤツを見逃さなかった。
俺は笑顔で声を掛けた。
「今年はどうだい?少しはできそうか?」
俺に声を掛けられた若手はムッとしたようだった。
「まぁまぁいけると思いますよ。早いうちに2勝はしたいですね」
2勝・・・俺の去年の勝ち星だ。なめやがって。
「キャッチャー!最初からとばして行くぞ!」
声を上げると、隣の若手はグラブで口元を隠した。笑っている。いや、笑っているとアピールしている。
誰もが笑ってるんだろう。
「ふん、笑ってろ・・・一球で黙らせてやる」
その一球でブルペンは静まり返った。
キャッチャーが後逸した球は恐らく150キロ半ばだろう。
その後は投げる度に周りのヤツ等の顔色が変わっていく。
驚きは増し、最後は呆けたような顔をしていた。
監督はサングラスの下でどんな目をしてるのだろう。
取材陣は静まり返った後、急に慌しくなった。
球数が30を超えるに及んで、コーチが慌てて止めた。
「いつでも投げられますよ、いくらでも。これはまだ8分くらいですかね」
翌日のスポーツ新聞には一面に俺が載っていた。
キャンプの取材は連日の大盛況。目当ては俺だ。
“再起を賭けた山篭り”“いきなり155キロ”“全盛期を超える球威”新聞の見出しに俺の記事が踊る。
息子も妻も喜んでいる。最近はいいところを見せられなかったからな。
しかし、なぜだろう。
息子が慕うのも妻が喜ぶのも煩わしいだけだった。
「コイツラハ無能ナクセニ、ノウノウト生キテイル」
◇*◇*◇*◇*◇
妻と口論になる事が多くなった。息子はあまり寄り付かなくなった。
ダメ投手でも支えてくれた妻と慕ってくれた息子は、エースになると同時に離れていった。
酒をいくら飲んでも翌日の登板に支障はなかった。練習は形だけ、調整もしない。それでも勝てるのだ。
家には帰らなくなっていた。練習もろくにせずに酒を飲んでは女を拾う。それでも登板すれば勝ち投手だ。
そんな俺を世の中は“最後の豪傑”“遅れてきた怪男児”などと持てはやした。
その日、俺はたまたま1人で飲みに行った。1軒目で暫く飲んでから、場所を変えようと外に出た。
いままで気付かなかった路地を入ると小さなバーの看板が風に揺られている。背後から聞こえる街の喧騒が現実味を失っていった。