9-8 機動
私は消えてしまうだろう。いや、消えてしまいたい。消えてしまうべきだ。
押しつぶされるような切り刻まれるようなつらい夜が過ぎていった。
翌日、ファトマが訪ねて来てくれた。
隊長は痛み止めを打って、少しだけ、ほんの少しだけ話ができたらしい。
病院の先生は奇跡だと言っていたって。
私が無事だと知ると「良かったな」と一言だけつぶやいたって。
涙は枯れているのに、また涙が溢れてきた。
枯れた涙とは違う涙。
温かい涙が止まらなかった。
それは頬を流れ、あごから胸に落ちた。
この温かい涙を抱きしめたら強くなれる。
自分の肩を掴むように抱きしめて思った。
私がやらなきゃいけないのは泣く事でも苦しむ事でもない。
隊長の突撃大隊のために私ができる事をやろう。
私だけが出来る事を。
隊長、勝手な事をしてごめんなさい。
でも、私もずっと訓練してきたの。
ティフガルの弱点を克服するために。
◇*◇*◇*◇*◇
クエーシトは次の狙いをレガーノ元帥に定め、イーネスを暗殺に差し向けた。
バルカ第2軍団のバルサム将軍は対ギルモア戦で戦死している。
そしてバルカ軍の勝利の鍵ともいうべき突撃大隊の隊長を倒した。
これについでバルカの精神と呼ばれる、第1軍団長のレガーノ元帥を倒せば、バルカ軍の弱体化は加速するだろう。
エルファはクエーシトの狙いがレガーノと予見し、第1軍団に同行を申し出た。
上官にすら伝えていない依頼をレガーノは受け入れる。
これが結果としてレガーノの命を救う事になる。
◇*◇*◇*◇*◇
レガーノ元帥の幕舎を目前に地に伏して窺うイーネス。
先ほど上空から連装ボウガンを撃ち込んですぐに身を隠した。
「私がいつも空から来ると思っているなら、レガーノの命も今日までだ」
しかし、すぐ近くに矢が飛んできた。
「そんなばかな!?」
バルカ兵は、数箇所の繁みに向けてボウガンを発射している。
しかも執拗に何本も撃ち込み続ける。
このままではいずれ矢を受けてしまうだろう。
動けば見つかる。
致し方ない、レガーノの暗殺は諦めて逃げるしかない。
イーネスが繁みから飛び出す。
「スツーカがいたぞ!ファルだ!」
その声に他の兵士達が反応するよりも早く、イーネスは飛び去った。
狙撃に失敗して苛立ちに染まるイーネスの目が、飛び立ったエルファを捉えた。
見つけた!
口の端が歪むように引き上がる。
同時に様々な感情が溢れて絡み合う。
以前からエルファの無気力な姿勢が気に入らなかった。
そして次に目の前に姿を見せたのはバルカ軍に身を投じたエルファだった。
しかもエルファの顔は充実と幸せに満ちていた。
苛立ちは憎しみへと変わった。
理由は分らないが、どうしても許せなかった。
だからずっと狙っていたのだ。
◇*◇*◇*◇*◇
「ふん、ティフのくせに私に勝てるとでも思っているのか?」
イーネスの武装は3×4連装ボウガン×2、3連装ロングボウガン×2、刀×2だ。
既に3×4連装ボウガンは地上のバルカ軍に向けて撃ちつくし、投棄している。
3連装ロングボウガンを片手で構えるのは、さすがハイエナルダというべきか。
白兵戦をも考慮した鎧が異彩を放っていた。
翼を保護する為に肩・背中・腰から斜め下へ2枚ずつ突き出した装甲板は、神話の竜人を彷彿とさせた。
対するエルファは3×3連装ボウガン×1、3連装ボウガン×1、ダガー×2。
3×3連装ボウガンは3×4連装ボウガンを3連装にして軽量化したもので、腕に固定せず肩に乗せて両手で扱う。矢の数や威力は低下するものの、下方向以外にも射撃が可能となっている。
しかし、エルファの鎧は身体のごく一部を覆っているにすぎない。胸部と腰部、膝下、これだけだ。
重量負担の軽減と身体の動きやすさを優先させるにしても極端すぎるし、鎧下すら着用しないのは不自然だった。
イーネスは戦場で見かけたエルファを“空の踊り子”と呼んで軽蔑した。
イーネスがいう踊り子とは、酒場などで踊り、客をとる娼婦の事だ。
イーネスは改めてエルファを見据えた。
ティフガルは空中機動において水平方向の動きに弱い。
だからこそグラシス隊長は4枚翼へ追加施術せざるを得なかったのだ。
それでも私の動きを超える事はない。
空中戦では私が一番優れているのだ。
ティフガルは鳥と同じだ。浮力と推進力を同じ翼から得ている。
そして、噴射を出来るだけ自分の身体に当てないようする為に姿勢が限定される。
その点、イーネスの空中機動は全く違う。
6枚の翼からあらゆる方向へ噴射する事で、直立姿勢を保ったままの移動が可能なのだ。
それは重力から解き放たれたような動きだった。
また、左右の翼を前後へ噴射する事で方向転換も早く、死角が少ない。
グラシスは追加した1対の翼を活用するだけでなく、翼の噴射量を微妙にコントロールする事で6枚翼に近い機動を発揮するが、2枚翼のエルファには到底真似できるものではない。