ロスト⑥
伯母さんは時折考え込むように息を整えながら知っている事を全て話してくれた。
私のお母さんは私が1歳の頃に失踪したらしい。
すぐに警察に届けられたが、何も分らなかったようだ。
本当の母、いや、神代奈央は理由も痕跡も何も残さずに消えてしまったのだという。
母親の失踪の後、暫くの間は伯母さんが私の面倒を見てくれたようだ。
お父さんは1年も経たずに再婚した。それが今のお母さんだ。
2人のお母さんは友達同士でお父さんと同じ会社に勤めていた。
今のお母さんは、決まっていた縁談を断ってお父さんと結婚した。
当然親御さんは激怒して、ほとんど勘当状態らしい。
伯母さんは感謝していると言った。
お父さんと私の為にお母さんは全てを捨ててやってきたのだ。
そういえば実家の話はほとんど聞いた事がないし、お母さんが実家を訪ねるという事も無かった。
何もないんだ、お母さんには。わたしたち家族しか。
涙が溢れた。
心の中で何度も繰り返した。「お母さん、ごめんなさい」
おばさんは私が落ち着くのを優しい顔で待ち、私に話をした事を、明日お父さんに伝えると言って締めくくった。
だいぶ疲れた様子だ。
「伯母さん、ありがとう」
「あなたには辛い話だったわね・・・」
「いえ、本当に感謝しています。知る辛さよりも知らない苦しさの方が大きいもの」
「本当に大人になったわねぇ、私も大きな荷物を降ろした気持ちよ。後は明日、小さい荷物、恒彦に今日の事を話さなくちゃ」
伯母さんは安心したように笑顔を見せ、「本当にありがとう」と言って目を閉じた。
◇*◇*◇*◇*◇
私は帰る前に心を落ち着けようと待合室の椅子に座った。
テレビからはプロ野球選手のインタビューが流れている。
低迷が続き、年齢的にももうダメと言われていたピッチャーが全盛期をも超える奇跡的な復活をとげたらしい。
私は席を立ってロビーに向かった。
明日の夜、お父さんと話をしよう。
今まで通りに、いや、今まで以上に家族であろう。
でも、伯母さんが小さな荷物を降ろす事は無かった。
◇*◇*◇*◇*◇
伯母さんから聞いた事をお父さんにも言わなきゃ。
伯母さんは荷物を降ろせなかったけど、私が受け取ったようなものだ。
伯母さんのお葬式の後、お父さんは頭痛がすると言って暫く会社を休んだ。
◇*◇*◇*◇*◇
伯母さんのお葬式から2週間が過ぎ、年度末考査も終わった。
お母さんは秋人の進学指導で学校へ行っている。
タイミングとしては今しかないと思った。
「お父さん、私、伯母さんからお母さんの事を聞いたの」
お父さんは新聞を畳むと一言だけ「そうか、すまなかったな」と言った。
お父さんが何にすまないと言っているのかは分らなかったが、私は今まで通りだし、何も気にしていないと伝えた。
お父さんは黙ったままで、私は気まずかった。
気まずさは私に余計な事まで喋らせた。
「でも、すぐに再婚したのは意外だったな」
「それがどうだと言うんだ」
「えっ」
お父さんの顔が変わった。
「お前のためだった。何を聞いたか知らんが、姉さんが言った事は全て事実だ」
お父さんの口から牙のようなものが見えた。
お父さんの瞳が滲んで眼球に広がったように見えた。
「お前のためだった!望まぬ結婚も!好きだった仕事を変えたのも!」
私は少しも動けなかった。
お父さんは暫く俯いていた。
恐ろしさの中、こう思うようにした。
私が無神経だったのだ。お父さんの苦労や心を考えなかった。
お父さんは息が落ち着くと「済まなかった。このところ体調が悪くてな」と言って席を立った。
しかし、何かを隠すように一度も私の目を見なかった。
◇*◇*◇*◇*◇
夜、喉が渇いて目が覚めた。
台所に行くと、窓から差す月明りの中に人影があった。
一瞬、ハッとしたが、それはお父さんだった。
お父さんがテーブルに俯いて座っていた。
肘をついた右手は額に当てられている。
明かりを点けて声をかける。
「お父さん大丈夫?」
「・・・」
「お薬、飲む?」
「・・・」
「お父さん?本当に大丈夫?」
「・・・ダイジョウブ」