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ロスト⑤

誰かに呼ばれたような気がして振り返ると髪が頬にかかった。

指ですくって耳にかけると、誰もいない事を確認して溜息をつく。

年が明けて2ヶ月が経ち、学年末考査を間近に控えていた。


夏海は2学期に入ると同時に受験勉強を開始したようで、学校以外で会う機会は減ってしまった。

塾ではなく家庭教師が数名ついているあたりはさすがにお嬢様だが、なかなか息抜きができないと珍しくぼやいている。


コータは夏海が何気なく・・・・言った「一緒に大学行こうよ」という言葉に触発され、猛勉強に励んでいる。

先月の校内テストでは、それまで最低レベルだった順位を中間ぐらいまで上げて皆を驚かせた。

リョウスケは「あと半年でトップ10入りする計算だな」といって皆を笑わせたが、リョウスケは本気で言っていたし、私もそうなるだろうと思った。

今年の夏には私とリョウスケ以外の誰もが驚いて思うのだろう「どうして?」と。

努力をしたからに決まってる。

そして、どうして努力をしたのかはコータだけが知っていれば良い事だ。


「伊藤くん頑張ってるね」

そういう夏海は常に10位以内だ。

でも上位3位に入った事はない。私達の学年には“ホルダー”と呼ばれる、とんでもなく出来る人達がいるのだ。

その3人は男女2:1ニーイチで一種のグループになっている。

よくいる勉強だけって人達ではないようだけど、その存在はどこか超然としていて、早い話が“浮いて”いた。

リーダー格の篠原くんのお父さんは脳神経内科の有名な先生なんだそうだ。


思い返すと、夏休みが終わってから忙しくてバタバタと時間が過ぎていった。

“あの場所”には何度か行ってみたが、もちろん何も無かったし、蔵人さんのお母さんにも同僚の加藤さんにも会うことは無かった。


◇*◇*◇*◇*◇


玄関の前に立つと急にドアが開いて弟が飛び出していった。

開いたドアの向こうから女の人の声が聞こえる。

「こら!秋人あきと!もぉー」


走っていく弟の背中を見送りながらつぶやく様に言う。

「ただいま」


「あら、千夏ちゃん。おかえり~」


この人は私の母だ。

私とは違うおっとりとした優しい目をしている。


母との繋がりに不安を感じはじめたのはいつからだろう。

お母さんが握っているはずのヒモを辿っていったら、プツリと切れていたような気持ち。


今でもはっきりと覚えている思い出。

4歳だった私は昼ご飯の後、まだ1歳だった弟のベビーベッドの横で寝てしまった。

目を覚ました私は激しい孤独感に襲われた。

泣いている私をお母さんは抱きしめて「どうしたの?千夏ちゃん」と訊いた。

私はその時「私のお母さんはどこ?」と言ったのだ。

お母さんは私を抱きしめたまま「ごめんね」と繰り返して泣いていた。

なぜ、あんな事を言ったんだろう。ひどく悪い事をしたと思った。


いつからだろう。“千夏ちゃん”と呼ばれる事がとても嫌だった。

それは子供っぽい呼ばれ方とか言葉の問題ではなく感覚的なものだ。

弟を呼ぶ声と私を呼ぶ声が違うように感じていた。


そしてある時、私は気付いたのだ。


その日は夏海が初めて遊びに来ていた。

「お母さん、この娘が同じクラブの夏海だよ」

「初めまして、夏海です」

「いらっしゃい。“夏海ちゃん”」

その後の母の言葉は覚えていない。

“千夏ちゃん”と“夏海ちゃん”がシンクロして私の頭の中に響いた。


よその子と同じなんだ・・・。

長年の不安と疑問は、ごく僅かな事実を残して融け、私の体の隅々へ重く沁み込んでいった。

僅かな事実とは、この直感に対する裏付けだ。


そして病気の伯母さんのお見舞いに行った時、その裏付けも融けたのだ。


病室は伯母さんと私だけだった。

私はこの伯母さんが好きだった。

その伯母さんは病気と違う苦しそうな顔で私に言った。

「千夏ちゃん、私はもう長くないの」

「伯母さん、そんなこと・・・」

「いいのよ、分ってる事だから。それに闘病って結構しんどいのよ」

「・・・あなたにはいつか伝えようと思っていた事があるの。もっと後で話すつもりだったんだけど・・・私の時間が無いわ」


「あなたはお母さんにそっくりなのよ。まるで生き写しのよう」

伯母さんは私が気付いているのかを探るように言った。

「わかってました。なんとなくだけど・・・」

本当にお母さんじゃなかったんだ。涙がつっと流れた。


「あなたは全てを知る必要があるわ。その上でお母さんに感謝しなさい。お母さんと呼んであげなさい。そして甘えなさい」


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