1-3 走馬灯
井戸の底。
湿った暗闇の中で2回目の夜は俺から色々なものを奪っていった。
ボトルを投げるのも止めてしまった。
身体がだるい。思考がまとまらない。
ウトウトして目が覚める事を繰り返し、ふと淡い光に気付く。どうやら夜が明けたようだ。
ぼんやりした思考の中、不意に震動を感じた。
地震か?
いや、違う。井戸に落ちた時と同じ揺れだ。
震動が大きくなってきたと感じた瞬間、井戸の底が崩れた。
思わず手を伸ばすと、井戸の底に張り出していたらしい木の根を掴んだ。
足元は完全に抜け落ちているらしく、足を動かしてみるが何も触れない。
落ちた土が何かにぶつかる音はしなかった。
相当深いようだ。枯れた地下水の空間か?
落ちたら助かるまい。
手が早くも痺れてくる。あと数分もつか。
頭が痛い。力を入れると脈打つように痛い。
どうせいずれは落ちる。でも手を離せなかった。
苦しくても死ぬ瞬間まで生きようともがくものなのか。
しかし、その瞬間は不意に訪れる。
右手を握り直そうとして左手が滑った。
あっ、と思った時にはもう両手は空を掻いていた。
その時、フラッシュをまともに見たように視界が真っ白になって脳裏に情景が浮かんだ。
パーキングの売店の女の子、母親からの電話、一昨日会社から帰る風景、去年の正月、入社式、間隔を広げつつフィルムのように目まぐるしく変わる。
高校時代の部活、中学の文化祭、小学の運動会、暑い昼下がりにアイスを食べた事、写真でしか知らない風景、その中で幼い俺は笑っていた。
ベビーベットで天井を見上げて笑っている。
小さい手を握ったまま眠っている俺・・・。
これが走馬灯というやつか?
ふと母親が見えた。
顔からは汗が噴き出し、苦痛に歪んでいる。
髪が幾筋も顔に張り付いている。
病気か?
苦しそうで見ていられない。
ふと、視界が真っ暗になり、すぐに眩しい光に包まれる。
そして母親が目に入った。
さっき苦しんでいた母親が俺に両手を伸ばしている。
髪は乱れ疲労と汗にまみれた顔は喜びに溢れていた。
目には愛情を湛たたえ、俺を抱きしめた。
「ありがとう」といって涙を流した。
俺は気付いた。俺は愛されていた。必要とされていた。
たった今、気づいた。
「母さん!!」嗄れた喉から子供のような声が響く。
俺は愛されていた。
ふと上を見ると、さっき掴んでいた木の根が見える。
1mも離れていない。そんな瞬間的な出来事だった。
脳裏のフィルムは回り続ける。
たらいの風呂、ベットの足につかまりながら立って笑う。
記憶には無い誕生祝い、七五三・・・情景は加速して変わる。
そして、秘密基地で遊ぶ幼い俺。
俺の隣には父さんが居た。
5歳の記憶なのにどうして忘れてしまったのか不思議だった。
今、判った。忘れようとしたからだ。
俺が記憶を持ち続ける事が苦しくて捨てたんだ。
俺は、ここに父さんと来た。
気が付いたら父さんの姿が消えていた。
あの小屋で一人ぼっちの不安な夜を過ごした。
母さんとパトカーに乗った。
父さんの記憶は忘れたんじゃない。捨てたんだ。
父さんが居なくなった後、子供の俺が父さんの事を聞いた時、母さんは痩せた横顔を無理に微笑ませて「わからないわぁ」と言った。
それから俺は父さんの事を聞かなくなった。
父さんは大きくて強くて何でも知ってる。何でもできる。大好きだった。
だから幼い俺は耐えられなかったんだ。
巻き戻されたフィルムが現在に向かって回り続ける。
暑い日のアイス、運動会・・・。
俺は安らかな気持ちになった。全てを受け入れられる。
最後に母さんと父さんに会えたような気がした。
「もう・・・いいか・・・」
最後に脳裏に映ったのは、井戸の底から見上げた丸い青空だった。
それまで落下している事に気付かなかったが、急に空を切って体が落ちているのを感じた。
途端に背中に衝撃。思わず声が出る。
「うぉ、うわわわあぁ」
何かにぶつかりながら落ちている。ひときわ大きな衝撃。
ガラガラ、ザザッザー
体が転がり落ちる様な衝撃が続く。
痛い、目が回る。体は堅い何かにぶつかって止まった。
声が出ない。
「ぐぐ・・・」
息を止めて痛みに耐える。心臓の鼓動にあわせて痛みが全身に走る。
痛みに顔を歪めながら、この場所が非常に寒い事に気付いた。
地面は滑らかな岩のような感じでとても冷たかった。
何とか身を起こして座り込む。
「生きてる・・・のか」「まぁ、この痛みは・・・生きてるんだろうな」
どうやら大きな怪我はしていないようだ。
覚悟させといて、ひでぇ話だ・・・。でも、助かった。
痛みが俺を覚醒させる。
命が助かったという喜びが過ぎると不安が押し寄せた。
完全な暗闇だ。上を見ても微かな光すら見えない。
手探りで這ってみると横幅1mくらいの溝になっていて、両側はかなりの急勾配で壁になっている。
この斜面を滑り落ちてきたのか・・・まともに落ちたらアウトだったな。
溝も僅かに傾斜しているようだ。
俺は溝に沿って緩やかな傾斜を上に進み始めた。
目前に何かあるような感覚におどおどしながらも這って進んだ。
暫く進んでいると、寒さに耐えられなくなってきた。
身体は歯の根が合わない程震える。
這うスピードは自然と上がる。
しばらく進むと疲れと共に凍えが治まり、代わりに膝が痛くなってきた。
そうこうしているうちに、ふと前方に淡い明かりが見えた。
太陽の光ではない事は確かだが、救われた気持ちで急いだ。
明かりは溝の横の岩にあった。
六角形で熾火のような淡い光を放っている。
何だろうこれは。
恐る恐る触ってみると、特に温度も感じないがつるりとした手触りだった。
何かは分らないが、かかげてみると、おぼろげながら辺りが見える。
「よし!」
どうやら俺が歩いているのは幅1mくらいの溝で緩やかな登りになっていた。
俺がいるのが地下だとすれば登るのが正解のはずだ。
登るならこの溝を進むのがよさそうだ。
明かりも手に入って、勇気を得た俺の耳に、足者から微かな音、水が流れる音が聞こえた。
見るとまさに水が流れている。
さらさらという音が次第に大きくなり水量が増えてきた。
「水か!ありがたい!」
流れる水に手を入れて反射的に引き戻した。
信じられないくらい冷たい。
手が痺れている。氷水だってこんなに冷たくない。
考えているうちに水量は急激に増えてくるぶしまで浸る。
「痛ぇ!」
冷たいという言葉が出ないほどの冷たさだ。
辺りを見渡すと右側の斜面に岩が突き出していて登れそうだ。
足が痺れる。急がなくては。
水はふくらはぎまで達している。更にひときわ大きな水の音が聞こえる。
凍えて痺れる足で何とか岩を登る。
みるみる水量は増え、水深は1.5m位になった。
登れない場所だったら間違いなく死んでいただろう。
水量は更に増している。
登る場所を探す。左の方なら進めそうだ。
だが、左手に光る石を持っていては岩を掴めない。
右手も両足も岩にしがみつくだけで精一杯だ。
しかし、俺はオレンジ色に光る六角形の石を捨てようとは思わなかった。
上がる水面が足を浸し始めた。それでも離さなかった。
左手をかざして上の方を見た。2mほど上は平らな岩棚になっているようだ。
あの岩棚まで行ければ・・・。
更に左手をかざした瞬間。
六角形の物体は溶けた。いや溶けたように見えた。
オレンジ色の光を放ったまま腕を伝って流れていった。
流れた腕には激しい熱さを感じる。
一瞬の後に辺りは暗闇に包まれ、腕の熱さも消えていた。
俺は喪失感の中、自由になった左手で岩を掴み、痺れる足を踏ん張りながら岩棚を目指す。
水はどんどん増えているようだ。音はもう激流と言ってよいだろう。
何とか岩棚まで登りきると、あとは手探りで少しでも高い場所を探して這っていった。
しばらくすると水の音も小さくなり、寒さが和らいできた。足の痺れも治まっている。
「助かった」
しかし、状況が変わった訳ではない。相変わらず俺は暗闇の地下にいるのだ。
俺は進み続けた。
高みを目指して進むとまた溝のようなところを進んでいるようだった。幅は両手を広げた位だ。
ふらつきながら立ち上がる。
手を上に伸ばしてみると意外にも天井に当たった。
高さは2mと少しあるだろうか。
左手を壁に、右手を前方に差し出して歩く。
歩き続けるにつれ、寒さを感じなくなった。
足元にも土が混じり始めた。
土の匂いに勇気が湧く。どんどん進む。
徐々にトンネルが細くなり始め、少し不安を感じた時、微かな光が見えた。
光に向かって急ぐ。
トンネルは直径1mくらいまで細くなり、急に上へ45度位の傾斜になった。
その先に光が漏れていた。
間違いなく太陽の光だ。もう嬉しくて涙が出てきた。
狭いトンネルの先の岩と岩の隙間から光が差し込んでいる。
体をねじって腕を伸ばし、光が漏れる穴に指を入れると穴はこぶし位の大きさになった。
眩しい。草の匂いがする。嬉しすぎて逆にパニックになりそうだ。
一旦下がって改めて見るとトンネルは直径60cm位まで狭くなっている。
トンネルの上には大きな岩が重なり、左右はこぶし大からサッカーボール大の石が積み重なって隙間を土やコケが埋めている。
少しずつでも石を外して後ろの広いトンネルに出していくしかないか・・・よしッ。
何個か石を動かしてみると意外と簡単に外れる。
外しては下がって後ろへ石を転がす。
そして、何度目か石を外している時、頭上の岩が動いた。
「ヤバイ!」
思った時には背中に激しい圧力。
と、脳裏にオレンジ色の光が弾け、いくつもの岩が崩れるようにトンネルを転がり落ちていった。
「危ねぇ。でも、助かったぜ」
岩があった空間に体を滑り込ませる。
あちこちから光の筋が入ってくる。
地表を覆っているのは苔、木の根と苔が絡まり合い、下にあった岩が無くなっても崩れずにいるようだ。
冒険の果てに発見した宝物箱を開けるような気持ちでコケを崩すと、一気に光が満ちた。