1-2 秘密基地
10:30に林道の入り口に到着。昨日の予定より大分遅れている。
高速を降りた頃から感じていた頭痛が強くなってきた。
「またか・・・」
せっかくの気分に水を差されたようでイラつきながらもロキソニンを1錠飲む。
舗装されていない林道に入ると、薄暗くひんやりとしていた。
林道は右側が急な上り斜面で、左側には水が干上がりそうな沢に落ち葉がたまっているのが見える。
沢はこの先にいくにつれて岩が多くなり、水遊びができる程度に水が溜まった場所もあったはずだ。
15分も走ると見覚えのある待避所が見えた。
車がUターンできる程度のスペースがコンクリートで整地してある。
待避所にバイクを停め、すぐに左側の沢を渡り、斜面を登る。
ロキソニンが効いてきたのか頭痛はすっかり治まっていた。
まるで獣道のような管理道を手掛かりに沢沿いに進む。
小道は徐々に沢から離れ、一段ときつい上りになったところで急に左に曲がる。
這うようにして背の高いススキを抜けると、ぽっかりとした空き地に出た。
「ハッ、や、やっと・・・着いた・・・ハァハァ・・・」
息は上がったが懐かしい場所は記憶のまま残っていた。
錆だらけの道具が置かれた小屋。20年も経っているのに変わっていない。
小屋の横にある大きくて平らな石にリュックを降ろして見渡す。
懐かしい。あのままだ。
草の匂いも、虫の声も、夏の日差しも・・・
リュックからスポーツドリンクを取り出して半分飲み干す。
ボトルを片手に小屋の回りを歩いてみる。本当に何も変わらない。
草を引き抜いたり、落ちていた枝を振ったりしながらリュックを置いた石の所まで戻ると、残ったスポーツドリンクを飲み干す。
「4本パックは正解だったかな」
そう思いつつ伸びをして石に腰を下ろす。水分をとったせいか汗が急に流れる。
周りの林に比べて太陽が照りつけるこの場所はとても暑くて、急な山道を登ってきた心臓の鼓動も強く感じた。
山もいいが、やっぱり夏は海だな。
不意にサービスエリアの売店で会った、ツンな顔の女の子を思い出した。
そういえば名前くらい聞いても良かったかな・・・。
そう思いながら小屋をのぞいてみる。
小屋といっても農機具を置くだけの掘っ立て小屋だ。
小屋の中には錆びた鎌の他にも何に使うのか判らない道具が置いてあった。
秘密基地はあまりに小さくて、懐かしい事は懐かしいがすぐに手持ち無沙汰になってしまった。
辺りを見渡すと空き地の外れに石を積んだ井戸らしいものがある。
記憶にはないが、あれから20年も経っているし、後で作られたのだろう。
近づいてみると直径2mはありそうな大きな井戸にトタンで作った蓋が被せてある。
でかいな・・・農業用水か?
トタンの蓋を外して覗き込む。
「おっ、あぶねぇ!」
胸のポケットに入れていた携帯を落すところだった。
井戸の縁ふちに置いて覗き込む。
日差しが強いせいだろうか、何も見えない。
石でも落してみようと後ろに振り返った瞬間、視界の端で何かが動いた。
ハッと振り返るがそこには井戸があるだけだ。
(ドクンッ!!)心臓が鳴る。
瞬時に恐怖に包まれた。
夏の日差しが急に弱くなり気温が下がった。虫の声も聞こえない。
“何かいる”
周囲の藪に、小屋の中に、何かに見られている。
慌てて辺りを見渡す、目が回るようだ。
視線を上げると林から伸びる梢こずえと丸い空がぐるぐると回る。
何かが潜んでいる。禍々(まがまが)しいものが。
どこかで息をころして。
様子を窺っている。
落ち着きを失った俺の息が荒くなる。
完全なパニックだ。立っていられない。
“ブゥ~~ン”
突然、小屋の裏から草を刈る機械の音が聞こえた。
途端に緊張が解けた。日差しはその強さと熱さを取り戻す。
虫の鳴声も聞こえる。森にも小屋にも何の気配も感じられない。
ほっとしながら強張った顔を手で撫でる。
俺はひとりで照れてわざと声に出した。
「いやはや、何てこった」
小屋の裏、藪の向こうから聞こえる機械の音は、やや間の抜けた音を立て続けていた。
おそらく林野庁の下草刈りだろう。もしかするとすぐ裏は農地にでもなっているのかもしれない。
間の抜けた機械音よりも、すぐそばに人が居るという事が俺の心を落ち着かせた。
タバコでも吸うか・・・。リュックに手を伸ばす。
途端に衝撃が走る。
「どうやって来たんだ?・・・5歳の俺はどうやって来たんだ?」
バスが通る旧道から林道の入り口までは5km以上あるし、林道も30km/h程度とはいえ、10分以上走った。
それに、沢を越えた後の険しい山道。とても子供ひとりで来れるようなところじゃない。
鋭い痛みにも似た疑問。
夏の日差しが、虫の声が、現実感を失いつつある。
暑さに関係ない汗が出る。耳の奥で小さく高い音がする。
ここを離れたほうがいい。
また恐怖とパニックが足元を浸し始めたのを感じる。
すぐに帰ろう。今のうちに。
リュックを背負う。
はッ、携帯・・・!
井戸の縁ふちに置いたままだ。
井戸に近づく事に恐れを感じる。
あの中は暗闇だ。何があるかわからない。
わからないというのは恐怖の根源だ。
携帯に手を伸ばした途端、何か出てくるじゃないのか?
「バカな」声に出して言う。
井戸に近づき手を伸ばす。
自分から伸びている手が自分のものではないように見えた。映画の主人公視点みたいだ。
現実感の喪失。
その手が携帯を掴んだ。その瞬間、地面が揺れた。
地震か!?いや、違う。
思わず腰から後ろに倒れそうになる。「ヤバイ」と感じた。
立ち上がろうと足に力を入れた途端に、後ろから地面がせり上がる。
前へのめった俺の身体は井戸の入口へ。
「くっ!」
井戸の反対側の縁に手が掛かるが苔で滑る。
俺は井戸に転落してしまった。
「痛てぇ・・・」井戸の底で呻く。
見上げると7・8mぐらいの深さだった。丸い空が見える。
頭から落ちなくて良かった。井戸の内面にぶつかったし、底に積もった落ち葉がクッションにもなったようだ。
井戸の底はじめっとして、当然薄暗い。
ただ、立ち上がれば、6メートルほど上に空が見える。
どうする?
井戸の内側は苔コケが生えていて滑る。手や足をかけるところは見つからない。
一気に不安が押し寄せる。
「じょうだんじゃねぇぞ、おい」
誰か!・・・そうだ携帯!
井戸の底を手探りで探す。見つからない。
携帯さえあれば!小枝や落ち葉をよけながら探していると、上の方から着信音。
「クソォッ!!」
マジでヤバイ!
「誰か!!」
そうだ、草を刈っている人がいるはずだ。
「オーイ、オーイ!助けてくださーい!井戸に落ちましたー!!」
何度も呼んでみたが、機械の音にかき消されて聞こえないだろう。
でも叫ばずにはいられなかった。
「オーイ!オーイ!誰か助けてくれ!」
暫く叫び続けた。
恐怖と不安で、叫び続けずにはいられなかったのだ。
声は嗄れるが誰も来ない。
どうすりゃいいんだ・・・
ブゥ~~ン
機械音がする!近い!
やった!助かる!
「助けて下さーい!井戸に落ちました!誰かいませんか!」
機械音は響き続ける。どんどん音が大きくなる。近づいてきているのだ。
なおも叫ぶが、反応はない。機械の音に消されてしまうのだろうか。
それでも叫び続けた。叫ばずにはいられない。
くそっ、喉が痛ぇ、声がかすれる。
・・・と、機械音は井戸のすぐ近くで止んだ。
やった!本当に助かった!
声を上げようとした瞬間
(ガコン!)
井戸の蓋が閉められた。
声を上げようとしてむせた。
すぐに機械の音がするが、さっきよりかなり小さく聞こえる。
後はいくら叫ぼうが、機械音が小さくなっていくだけだった。
暗闇は俺から判断力も奪った。
嗄れた喉で叫び続けた。喉は完全につぶれてしまった。
井戸の底は闇と絶望に満たされた。
少し目が闇に慣れると、ごく淡い光が蓋の隙間から漏れている。
落ち着け、落ち着け・・・自分に懸命に言い聞かせた。
喉が痛い。忘れていた・・・飲み物・・・スポーツドリンクのボトルが手に触れた瞬間、激しい怒りが湧き上がった。
どうして、俺はものを投げて知らせなかった!?
ボトルでも、靴でも何でも良かったはずだ。助かるはずだったという思いが後悔と怒りを大きくした。
ダメ元で井戸の蓋にボトルを投げつけると、大きな音が響いたが、誰も来てはくれなかった。
◇*◇*◇*◇*◇
どれくらい経っただろう。
少しウトウトしてしまったようだ。かすかな光も消えて、井戸の中は文字通りの真っ暗闇だ。
涼しいどころか寒いくらいだ。恐らく夜だろう。
ボトルは1本を空にした。残り3本。
空のボトルに土を詰める。
明日だ。明日、また草を刈りに来くれば助かる。きっと助かる。
翌日は何の音もしなかった。ごく僅かに井戸に入る光で天候は快晴だと判る。
それでも俺はボトルを投げつける事を繰り返した。
何かしていないといられない。叫んでもみたが声が出ない。
このままかよ、出られなければ・・・俺は死ぬのか?しかも餓死だぞ、餓死!
産まれて初めてこんなにもはっきりと死に向かい合っている。
しかも、その死はゆっくりと、実にゆっくりと迫ってくる。
気が狂いそうだ。
頭が痛い。いつもの頭痛が始まった。
意識がボンヤリする。投げたボトルが井戸の蓋まで届かない。
また夜になったらしい。今日もボトルを1本消費した。
涼しくて湿度が高いせいか水分はギリギリに抑えられている。
背中が冷たい。枯葉をできるだけ一ヶ所に集めて座っていた。
井戸は大きいので横になれるが、底に積もった落ち葉の下の湿った土から水分がしみてくるのだ。
それに横になると頭痛が増す。くそっ、ロキソニンがあれば。
リュックに入れたはずのピルケースは見当たらなかった。
俺には、あとどれくらいの時間があるのか。
残された時間は恐怖と苦痛に苛なまれる時間だ。
携帯以外に時間を知る物を持たない事を後悔しつつ、冷えてきた空気でそれとわかる夜をどうやって過ごそうか考えた。
頭が痛い、食欲もない、どのみち食べるものはないが。
「死にてぇ」
思いがけず呟いた。