エピローグ④ 王冠
クエーシトとジェダンの国境ジルディオ山脈。
この山脈を越えるルートはわずかに2つ。
そのルートですらエナルダか山岳訓練を積んだ者でなければ越境は困難とされており、物流はもちろん軍事的なルートにも到底なりえなかった。
2つのルートの間にある一際高い山脈は、およそ20~25ファロ(約8,000~10,000m)もの標高とルートが設定できないほどの過酷な斜面を有する事から登攀不可能とされている。
しかし、その中心には直径30ファロ(約12km)ほどの低地が存在していたのだ。
その低地の標高はクエーシト北部やジェダンの平均的な平地より若干高い5ファロ(約2,000m)。
いうなれば高さ6,000mもの壁に囲まれているようなものであり、外界とは全く違った環境によって独特の生物環が形成されていた。
それはタガンザク山脈にまつわる神話に登場する“天空の王冠”を彷彿とさせるもので、発見されてから“王冠”と呼ばれている。
内側の斜度は平均で60度。一日の日照時間は僅か2時間(地球の4時間程度)しかなく、1年のうち1ヶ月間は日光が届かない。
その内部に立って見渡せば、険しい山々が王冠のサークレットのように周囲を囲んでいた。
また王冠には大きな樹木は一切なく、植物といえば湿地に生える高さ1リティ(約80㎝)ほどの草と水草くらいしかない。
外周の山脈のせいで雨や雪はほとんど降らないが、山岳氷河の雪解け水が外周斜面から流れ込み、平地のほとんどは湿地と化している。
一見過酷な環境に思えるが、地熱が高いため気温は温暖で、冬季はクエーシト北部やジェダンに比べても過ごしやすいほどだ。
この場所は22年前、クエーシト経済府マスエナル採集隊によって発見された。
クエーシトは国家政策の1つとしてマスエナルの輸出を行っており、マスエナルを採集するマスエナル採集隊を活発に活動させていた。
その中の一隊が涸れた川の洞窟を探検してたどり着いたのがこの王冠だ。つまり山脈を越えずに地下から到達したのだ。
同行していたオロフォス隊によって直ちに当時の主席軍師に報告されるや、軍師は直ちに緘口令を敷き、王族にすら極秘のまま開発を進めると決めた。
最初に発見したマスエナル採集隊の6名は主席軍師が派遣した30名からなる開発先遣隊を案内した後に殺され、採集活動中の消息不明として処理された。
こうして主席軍師と軍師直属の一部を除いて誰にも存在を知られることはなかった。
開発にはクエーシト領内でも最も過酷とされる東部沿岸出身の奴隷が使役された。
彼らは厳寒強風の環境の下、オルグの襲来に悩まされながら漁労や護岸工事に従事していたので、温暖で安全な王冠での生活を大変喜び、出身地に帰される事を恐れる程だったという。
これは奴隷の逃亡防止に非常に役立った。
開発はまず雪解け水によって全域を覆う湿地の灌漑工事から着手された。
手始めとして、王冠への進入口となっている東側および日射量が多く居住に適している北側部分の乾燥化が計画された。
雪解け水はここへの進入路と同じような地下河川によって外界に流出しており、その地下河川は4箇所、全て平地の外周に確認された。
まず雪解け水を地下河川に直接流し、湿地の水もそこから排出する工事が実施された。
北側は日射量が多い分、雪解け水も多く工事は難航したが、北部の雪解け水は中央部にある湿地の原因にもなっていたようで、灌漑設備の完成によって北部だけでなく中央部まで乾燥化が実現している。これは思わぬ効果といえた。
また、進入路の地下河川は外界との連絡通路として整備し、王冠側の約半分は馬車も運行できるまでになった。これによって開発が加速される事になる。
開発から20年以上が過ぎた現在、雪解け水は平地の外周に作られた人口河川を通じて地下河川に流され、生活用水や農業用水は人工河川から貯水池に引き込んでから利用される。
これは雪解け水が非常に冷たいので貯水池に蓄え地熱によって常温まで暖める為の工夫である。また生活排水は余剰の水と一緒に地下河川へと流される。
これら灌漑工事と並行して行われたのが土壌の改良だ。王冠内の土地は非常に痩せており、外部から肥沃な土が大量に運び込んで数種類の樹木が実験的に植えられた。
また、湿地の植物が枯れて折り重なってできた泥炭を乾燥させて燃料として使う事ができたが、この灰も土壌の改良に大きく貢献した。
これらの努力の結果、現在では数種類の穀物と葉菜類、根菜類が栽培可能となっている。
一方、最も力を入れた牧畜は上手くいかなかった。
王冠内は湿度が非常に高く、乾燥を好むアマルカ(地球のヤギに似た家畜)などの家畜はすぐに病気になってしまうのだ。
また、ヌビア(地球の豚に似た家畜)も湿地に群生していた植物の成分が合わないらしく、期待していたほどの繁殖はできなかった。
そのような理由により、食用肉といえば、湿地に棲息している“クオノビア”が利用された。
繁殖期になるとヌビアに似た声で鳴くことから、水豚という意味の名前をつけられたこの生物は、全長2リティ(約160㎝)にもなる大型の両生類で、地球のサンショウウオに似た外観を持ち、魚を常食としている。
その肉質は白身で柔らかく、味は淡白だという。
後にこの肉を口にしたジェダンの使節団は全く味がしない肉と評しているが、それはアマルカなど獣臭の強い肉を好む北部の人間の意見であって、クエーシトの人々は非常に美味と評している。
また魚は地下河川を通じて入り込んだのか、大小さまざまな種類が生息しており、獣肉の不足を補うに十分なほど豊富だ。
居住区は湿度を避ける為、比較的高い土地に石の土台を積み上げ、10リティ(約8m)もの高さにつくられている。
王冠を上空から見ると、外周に人工河川が流れ、その内側、北部に居住区、中央部に耕作地となっており、西側と南側はクオノビアの生息地として湿地や池が残されている。
東側には外界との通路があり、ここには兵舎を置いて外敵に備えると共に人間の出入りを厳しく監視していた。
しかし、王冠内での生活は平穏であり、奴隷の脱走記録は僅か1件を数えるのみだ。それは若い兵士と奴隷の少女が恋に落ち、脱走を試みたという事件だった。
通路からの脱出を阻止され、追い詰められた2人は排水用の地下河川の入口に身を投げたという。
事件が起きたのは8年前。簡単な記録しか残されていないが、少々脚色されたロマンスが今でも語り草となっている。
*-*-*-*-*-*
王冠の開発が始まって15年目、管理を引き継いだデュロン・シェラーダンは開発を一気に加速させ、北の戦乱勃発時には計画していた設備がほぼ整った。
そして北の戦乱敗戦の直前、ジョシュ・ティラント博士およびエナル研究所の職員の一部をここへ避難させたのだ。その事実を知っているのもデュロンを除けばエナルダ部隊の上層部のみだ。
元々は王族の避難地として想定されてはいたが、北の戦乱は王族が王冠に避難した時点でクエーシトは国家として存続できない状況だった。
デュロンは王族よりも国家を優先させる。
デュロンは確かに国を動かすに必要な才覚を持っていたといえよう。
それは国王すら国家の駒として考えることができる冷徹な判断力だ。
エナルダ国家であるクエーシトにおいてデュロンはエナルダ部隊を完全に掌握していた。
クエーシト国王ベイソル・ハイラは北の戦乱後も国王に留められたが、既に精神的に弱り切っていた。
元々自らがエナルダでない事を理由に王位継承を否定的であったし、軍事府に引きずられるように北の戦乱を勃発させ敗北、壊滅的な損害を招いた。それに、弟であるサイヴェルの行った、非人道的な実験に対する批判も大きな負担となったようだ。
彼は常識を持ち誠実ではあったが、それだけの男だったのだ。
精神的に完全に参ってしまっていたベイソルはジェダンとの連合を歓迎した。
いずれ統一国家となればジェダンに任せて自分は身を引くことが出来るという事を考えたようだ。そんな絵空事に縋らねば精神を保てないのか、彼は祖国の歴史と市民の誇りをも代償として己の平穏を望むだけの若き老人になってしまっていた。
ジェダンとの軍事同盟を宣言したと同時にデュロンは独賢官に就任している。
ベイソル国王の体調不良に伴う政務の停滞を補うためという理由だが、ベイソルが政務に復帰する見込みは無い。
クエーシトの実権を握っているのは、主席軍師兼独賢官、デュロン・シェラーダンなのだ。
◇*◇*◇*◇*◇
ジョシュは執務室で資料に囲まれながら新たな研究について検討していた。
それはサイヴェルのエナル研究室から押収した資料に記されていた、エナルダの無力化の研究。
それは断片的な記述でしかなく、研究の進捗状況どころか、そもそもそのような研究が行われていたのかすら不明なのだ。
しかし、サイヴェルの研究資料の多くは無傷で持ち出されている事が判明している。
地下の通路はグリファとの国境の深い森に繋がっていた。
ジョシュの頭の中では研究資料とサンプリオスが繋がりつつあった。
“サンプリオスが実験器具を大量に発注している”
それはタルキアから派遣されたクエーシト管理機構職員からの情報だ。
しかもその実験器具はクエーシトと同じ規格であるという。
これまでサンプリオスがそのような器具を購入したことは無かった。何かあったと見るべきだろう。
エナルダの無力化とは、エナル濃度の低下、またはエナル認識の阻害、どちらかになるに違いない。
エナル濃度を低下させるのは事実上不可能なので、エナル認識の阻害の研究ではあろうが・・・これはエナルの研究ではなく人間の脳神経の研究だ。
もしそのような技術を確立し実戦配備されれば大陸の勢力図は塗り変わるだろう。
それはクエーシトが消えていく存在である事を示すのだ。