エピローグ③ サレモア
「お前は天使だと言ったな?では天国の記憶があるのだろうか」
グラシスの問いに返答は無かった。
ジェダンの天使。
この美しい少女は天使としての存在にのみ価値があるのではなかった。
“異能の持ち主”
エナルダの中でも際立った異能の存在。
北の戦乱でイーネスと激しい空中戦を繰り広げた、元クエーシト飛行大隊のエルファと同じく体表から強いエナル噴射が行えるものと思われた。
しかしその噴射力はエルファの比ではない。
掌だけで人間が立っていられない程の風を起こすのだ。
翼を持たないだけに飛行能力は“飛行型”に大きく劣るものの、身体を空中に静止させた時の安定性はむしろ優れている。これは借り物の翼ではなく、全ての体表から噴射できる事で完全な体勢の制御が可能なためだ。
宙に浮いた彼女は微動だにせず、ただそこに在った。
だからこそ、その姿は非現実的であり神々しいのだ。
また、気属性エナル係数の高さを裏付けるエナル伝達能力。
かすかな囁きをエナルに乗せて遠く離れた人間に伝える能力。
発する音自体は大きくないので、近くにいる者も遠く離れた者もほぼ同じ音の大きさに感じるだろう。遠く離れた天使の囁きが聞こえるという現象は、人々に神秘的なものを体感させるに十分だった。
そして、エナル装甲と手刀。
これが天使の“任務”の範囲を拡大させた。
しかしそれは、戦闘能力という点ではなく、神の御使いとしての不死。つまり神と教義の不変性を体現している。
天使を目撃した人々は思うだろう。
“神の御使いですらこれほどまでに美しく不動であり、そして不死なのだ。神とはどれほどの存在なのだろう”
ジルディオの神、天使、生涯神官のキルゼイ。
ブレシアの神が長年にわたって浸透していなかったら、瞬く間にラムカン、ブレシアを含むインティニア諸国の全てがジェダンに靡いたに違いない。
しかしグラシスは天使に驚きこそすれ畏れは感じなかった。
「なるほど、たしかに彼女は優れたエナルダだ。しかし、それ以上でもそれ以下でもない」と語り、それきりグラシスが天使について語る事はなかったという。
*-*-*-*-*-*
先のガンファー動乱ではジャナオン、セシリア、カルラが地上部隊として戦い、飛行大隊からはイーネスが派遣された。
イーネスは暗殺に失敗しているが、それはエナルダとしての能力が低かったせいではない。暗殺者としてのセンス、それがほんの少し足りなかったのだ。
しかし、“ジェダンの天使”ユイナ・ホルギッツァも手負いのカノヴァを取り逃がしたうえ、クエーシトのジャナオンに窮地を救われている。
カノヴァが生き延びたせいでジェダンはラムカンを手に入れる事はできなかったが、決してイーネスだけの失敗ではないのだ。しかし完璧主義のイーネスの心がそれで収まるはずもなかった
異国への派遣、検査と称して好奇の目に晒された。
任務の失敗。
そして自分を遥かに凌駕する能力の美しい少女。
早くグラシスの許に帰りたかった。
しかし、どんな顔で会えばよいのか分らない。任務や天使の事など報告したくなかった。
帰国したイーネスを迎えたグラシスは何も聞かなかった。
イーネスが無事に帰った事を短い言葉と食事の後の甘い菓子で祝っただけだ。
「我々は知る必要がある。出来る事と出来ない事がある事を」
「我々は努めねばならない。出来ない事の克服に」
「困難な任務において、結果と命の優先順位は自分で決めて良い。ただ、私はお前が無事に帰って来た事に感謝している」
イーネスの堪えていた感情は止めども無く溢れた。
食事の後に出されたのは、独特の香りと苦味があるサレモアという果物を甘いシロップで煮たお菓子だった。
「知人が良いサレモアが手に入ったといって届けてくれたのだ」
イーネスが聞く前にグラシスは説明していた。
男と女の間では喋った方が分が悪いというのはどの世界でも同じであるらしい。
こんな季節外れに良いサレモアが手に入るはずも無かった。恐らくはグラシスが手を尽くして探したのだろう。
イーネスの心から溢れたものが頬を濡らした。
私がサレモアを好きな事を憶えていてくれたのだ。
甘いサレモアに涙が混じった。
これが幸せの味なのだろうか。
幸せというものを味わったことがないイーネスには分からない。
これを幸せだと認識することに躊躇した。
イーネスは怖かった。
“私は幸せを感じるたびに弱くなっていく”
“かけがえの無いものを見つけるたびに、手に入れるたびに、私は弱くなっていく”
自分が弱々しい存在になっていくのが怖かった。
エルファが抱きしめた温かい涙をイーネスは抱きしめるだろうか。それともふり払うのだろうか。
震えるイーネスをグラシスの存在とその言葉が包み込んだ。
「イーネス、結果とは望み願うものであって約束されたものではない。だから過程というものに全力を尽くすがいい。結果を恐れるな。ゆっくりでいい、お前は強くなれる」
◇*◇*◇*◇*◇
クエーシト北東部の某所
「久しぶりに光の溢れる場所に出たというのに、インティニアは寒いな」
「はい、これから向かうジェダンは更に寒冷の地ゆえ、何卒ご辛抱を。王冠での生活はご不便も多かったでしょうが、博士がご無事で何よりです」
「私は楽しみなのだ。あの噂、ジェダンの天使の噂が本当ならばグラシスやイーネスを上回る能力を持っているだろう」
「はい。しかし私にはどうしても信じられません。グラシスと同じく空気中の成分をマスエナル化させる事は可能としても、発生させたマスエナルの層で剣を防御するなど・・・」
「研究とは、可能性を突き詰め、事実を積み上げる事の繰り返しだ。あの報告は可能性だ。ならば見せてもらおうではないか。ジェダンのエナルダ技術を」
「は、お供できる事に感謝しております。しかし、このジェダン行きも然る事ながら、博士の存在自体が最高機密事項ですのでご配慮ください」
「分かっている。リード、護衛を頼むぞ」
リードは身分こそ護衛隊の分団長だが、ジョシュの信頼も厚い戦闘系エナルダだ。
彼はかつてエナルダ融合施術で発生したオルグ駆除にあたっていたA級エナルダだった。
研究室でオルグ化した被験者を斬る日々に疑問を感じていたが、事故によって慕っていた上官がオルグに殺害されたのをきっかけに、上官の後を継ぐため自らハイエナルダ(エナルダ覚醒者を更にエナルダ融合させた者)となる決断をする。
施術は成功し、エクサー(戦闘系のエナルダの最高位、エクスエナルダ)に匹敵する力を手に入れた。
彼はハイエクサーと呼ばれ、その戦闘力はオロフォス隊(クエーシト特別遊撃隊と統合したクエーシトのエナルダ部隊)のルヴォーグ、ジャナオンに匹敵するという噂だ。
彼は稀代のエナル研究者ジョシュ・ティラントの護衛として東沿岸を北へ向かった。
*-*-*-*-*-*
ジョシュはジェダンとの技術交流の一環としてジェダンの天使、ユイナ・ホルギッツァと面談する機会を得た。
碧と鳶色の瞳、輝くような金色の髪、白く透明感のある肌、神々しさを放つその少女は瞳の奥に禍々しいものを湛えていた。
ジョシュに対する恐れと嫌悪。
聞けば子供のエナルダを集めたファルベル(楽園)と呼ばれる施設で育てられたらしい。
ファルベルとはジェダンのエナルダ育成機関なのは間違いないようだ。
しかし、このシステムは機能していない。
エナル技術と呼べるものは何も無く、単にエナルダを集めて洗脳しているだけだ。
様子を見ていれば分かる。
このエナルダはキルゼイの思想を狂信している。
この少女は全てをキルゼイに捧げている。
ジョシュははっきりと悟った。
ジェダンの天使とはシステムで生み出された存在ではない。あくまで突然変異の存在だ。本人はそれを本能的に認識している。
だからこそあれだけの能力を有しながら、誰かに依存しなければ自分を保てないのだ。
自分を保てずに生きていける人間などいない。
“天使”本人の自覚は無くとも、それは生きる為の依存だ。どれほど強い依存かはそれで理解できよう。
ジョシュは天使を“危険な存在”だと判断せざるをえなかった。
ジェダンはエナルダ技術においてクエーシトに勝る部分は無いと自覚しているのか、何も隠そうとはしなかった。
つまり認識しているのだ、楽園のシステムが機能していない事を。
だからこそ大げさにエナルダ研究を発表し、ファルベルの存在と、その成果である天使を明らかにした。随分と思い切った事をしたものだ。
双方が合意を目的としている協議では、交渉を打たない方がかえって交渉を有利に進める場合が多い。
しかし、クエーシトはジェダンのように全てを明らかにする訳にはいかなかった。
クエーシトにとってエナルダ技術は生命線なのだから。
北の戦乱で断絶されたクエーシトのエナル研究。
クエーシト管理機構によってクエーシト領内はくまなく調べられ、その消滅が証明されている。
しかし、目に見えない事は存在しない事を意味するのではない。
クエーシトのエナル研究は目に触れぬ場所でその命脈を保ったのだ。
その場所こそジルディオ山脈に建設された“王冠”だ。