19-13 ティエラ
ティエラの容態は日に日に悪くなっていった。
数日前まではベットに身を横たえながらも冗談に興じていたのに。
ジェライナの診察の後、キキラサとアイシャが身の回りの仕度をして、やっとクラトは入室を許される。
それ以外での入室はティエラが頑として許さないのだ。
後で分かった事だが、ジェライナが処置していたのは痛み止めの薬だった。
既に治療という点では何の意味もなさず、もはや痛みを和らげる事しかできなかったのだ。
誰もがそう遠くなく訪れるであろう不幸を覚悟した。
「負け戦でもな、負け方ってもんがある。早々に崩れて潰走するのと、最後の一兵まで戦って負けるのでは雲泥の差だ」
「同じ負けなのに、同じように死んでいくのに。それでも最後まで立ち向かって負けたのなら、せめて精神は守れるだろう。何者であろうとその精神だけは誰にも侵されるものじゃない」
「負けで結構。でも簡単に勝たせやしないぜ、なぁ、ティエラ」
クラトの言葉にティエラは戦場で見せるような顔で微笑んだ。
数日後にはティエラの意識が混濁し始めた。
うわごとのようにクラトを呼ぶ。
「なにをしておるか、そんな事では兵に示しがつかんぞ」
「レガーノは西の敵を抑えておれ、正面の敵を撃破してすぐに戻る。突撃大隊は共に・・・共に参れ、クラト」
「おぉ、よくやったぞ、次の敵だ、離れるなよ、私から・・・」
「行ってはならん、バルカはクラトを必要としているのだ・・・私は・・・」
「私は望んでも良いのか、この心のままに・・・良いのか・・・ラヴィス・・・」
ふと、目が覚めた。
私は何を・・・ここはどこだ?
堅牢な城壁と屈強な兵士に守られたバルカ城のさらに奥、見事な調度品が置かれた部屋。
レースが張られた大きなベッドで目が覚めた。
私は何をしていた?
・・・そうだ、戦っていたのだ。クラトやラヴィスと共に戦っていたのだ。
なぜ奥室にいる?
・・・そうか、負傷したか。情けない事だ。
少し眠っていたようだ。
戦線離脱か・・・致し方ない。
しかし私が戦場に出ずとも安心だ。あの者達さえおれば。
早く傷を治してまた共に戦おう。
傷を治して戦場へ、皆が待っている戦場へ。
ティエラの心は意欲という名の充実感で満ちていった。
“あっ”
ティエラは思わず声をあげそうになった。
ベットの横でクラトが椅子に佇んでいる。
ティエラの手を握って、祈るように目を瞑っている。
思わず手を引こうとした。しかし身体が動かなかった。。
なぜクラトが私の奥室に・・・。
敵はどうした・・・いや、敵を放って私の許に来るような男ではあるまい。
敵は撤退したか。いや、撃退したのだろう。
撃退して駆けつけたのか・・・私のために。
急に左手に伝わる体温が意識された。
身体が熱くなった。もうクラトの顔さえ見れない。
寝たふりをしよう。そしてこの手をつないでいよう。
ふふふ。
クラトのあの心配そうな顔はなんだ。
大丈夫だクラト。
こうして休めば傷など治る。
クラト、私は大丈夫だ。
ふいに景色が戻った。
どこだ・・・ここは?
すすけた天井と古ぼけた壁。
残酷なほど意識がはっきりしていた。
一瞬にして思い出した。
全てを。鮮明に。
私はもうじき死ぬ。
辺境の地の小さな小屋で。
もはや共に戦うことも、笑い興じることも、できはしない。
そのような事ができたら・・・以前なら当たり前の事ができたら・・・
それは夢のようにさえ思えた。
突然、ティエラの心の底が崩れそうになった。
崩れた底から何かが噴き出しそうになった。
『何の為に・・・私は何の為に!』
その先は何も考えまいとした。
何を言っても、それはこの世界に対する冒涜であるような気がしたから。
それに、全てが間違っていても構わない。全てが罪であったとしても構わない。
全てが夢でも、全てが無駄でも。
今、私の手を握るクラトだけは本物なのだから。
苦しそうにしていたティエラは、手を握って見つめるクラトに笑みを見せて言った。
「私は幸せだった」
*-*-*-*-*-*
その後の病状は小康を得ては危くなることを繰り返した。
どうしてこれほど苦しまねばならないのか。誰にもわからない。
恐らく理由など無いのだろう。本当の苦しみに理由などないのだから。
久しぶりにティエラが目を開いた。
少し水を飲むと、小さく長い息を吐いた。
さまよっていた視線がクラトを捉え、目で微笑みを伝える。
「クラトが二人に見える。あぁ、二人いてくれれば、な・・・よかったのに」
「わ、わたしは・・・」
ティエラは沈黙した。
それは言葉を続ける事ができなかったのか、それとも自ら止めたのか分からなかった。
クラト、わたしは・・・
何の風が吹いたのだろう。
クラトは、確かにゴゥっという風の音を聞いた。
その日からティエラの意識は完全に途切れた。
もう苦しみもしない、浅い呼吸が繰り返されているだけだ。
いまだ生命を保っている状態をジェライナは奇跡だと言った。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。窓から差し込む柔らかい光は夕方が近いことを知らせている。
ティエラの脈を診ていたジェライナの顔には空しさが満ち、立ち上がると目配せをした。
皆はクラトを残し、無言で部屋を出る。
部屋を出たジェライナは皆に告げた。
「生きているのが不思議なくらいだ。いや、もはや肉体は死んでいるのかもしれん。最後はクラトに看取らせよう。ティエラ様はそう望んでいるようだ」
ティエラの手をクラトの手が包むように添えられている。
力は全く感じないが、ティエラが必死に握ろうとしているのが分かった。
ティエラがこの世界と繋がっているのはもうこの左手しかない。
必死にこの世界にとどまろうとしている。
この世界から離れまいとしている。
この世界とは何だろう。
かつてその気高い精神と強力な戦闘力によって敵国すら賞賛を惜しまなかったバルカ。
伝説の時代から脈々と続いたバルカは既に無い。
国を失った女王に何が残っているというのだ。
領土と民、城と兵士、そして戦場、全てを失った。
いま残っているのはクラトの手だけだ。
離れていくだろうと思っていた男だけが最後まで傍にいた。
少しでも力を抜けばこの手は離れてしまう。
全身の力をふり絞り、途方も無い努力を払って、やっとこの男の体温を感じる事ができる。
ここはどこなのだろう。
時間の流れも昼も夜もなく浮かぶような感覚。
その場所は微かな光もない暗闇、寒くて不安だった。
その中で左手が触れる愛する男の体温だけにすがった。
*-*-*-*-*-*
キキラサが枕元にある花瓶の花を替えた。
キキラサは知る由もないが、摘んできた花は、かつてティエラとクラトが赤騎隊の巡回を待っている時に見つけた花だ。
ティエラは美しい時だからこそ摘まれる事を望む花もあると言った。あの時クラトは何も出来なかった。
クラトがブレシアから送った手紙に添えた押し花もこの花だった。
窓の柔らかい光は赤くなって徐々に弱まり、いつの間にか部屋にはランプが焚かれていた。
静寂の中、ランプの芯が燃える音だけが聞こえる。
クラトはただ乗せられているティエラの手から意識を感じていた。
力など全くない。ただ、重ねられたティエラの右手は微かに命の存在を放っていた。
やがて再び窓が光に輝きはじめた。新しく透明感のある光だ。
光は窓から溢れ、ベッドの足元から部屋を塗り替えるように満ちていった。
やがて光はティエラの頬と花瓶の花を照らす。
ふいに花瓶の花びらが一つ散った。
それは、時間が止まった空間を揺れるように、ほろりと落ちた。
その時クラトの手から何かが零れ落ちた。
これまで留めていたものが溢れ、クラトの中で何かが動きを止めた。
◇*◇*◇*◇*◇
谷の上から遠くを見れば小さな村の集落が見える。
家々からはかまどの煙が細く空に伸びていた。
イオリアとラエリアは赤騎隊を率いて去っていった。
ティエラの双刀はイオリアとラエリアに遺された。
クラトに残ったのは黒い大剣とラヴィスの遺刀だ。
「クラトさん、私達も行きましょう。いつまでもここに留まるわけにはいきません」
「ああ、分かった」
そう言いつつも動こうとはしなかった。
こんな調子がもう5日も続いている。
ばしッ
いきなりアイシャがクラトを蹴った。
「ティエラ様の代わりに私が蹴ります。私が代わりになれるのはこれ位しかないけど」
クラトが力のない笑顔をアイシャに向けた時、キキラサの拳が脇腹に入った。
「うぉ・・・」
「アイシャだけでは足りないようだから私が殴ってやろう。しかしアイシャと違って心は無いぞ」
「ぐぐ、こ、これって暗殺体術なんじゃ・・・」
「当たり。普通なら死んでる感じ?あんたは全然平気だろうけどね」
「へ、平気じゃねぇよ、おぉぉ・・・」
「クラトさん、良かったですね」
「いい訳ねぇよ」
「いえ、ここにルシルヴァ殿が居たら、もう一発追加されたところですから」
「た、確かに今あれを喰らったら死ぬな」
「みんな、悪かったな。もう大丈夫だ、行くか」
「で、どこへ?」
「あ、決めてねぇや。とりあえず街で飯を食いながら考えよう」
「ははは、そろそろお腹も空いてきたようですね」
キキラサはやれやれという顔を見せ、アイシャは久し振りに明るく微笑んだ。
クラト達は風に吹かれてどこへ往くのか。
いや風そのものとなって往くのだろう。
◇*◇*◇*◇*◇
今日もこの世界には太陽が昇り、風が吹く。
雨が降って地を潤し、川となって海に注ぐ。
人々は地を耕し、家畜の乳を絞る。
男は畑に森に海に、そして戦場へ出かけていく。
女は子を育て、パンを焼いて男の帰りを待つのだ。
人々の生活は続くだろう。
当たり前の事が当たり前でいる時代は。
この世界にエナルが満ちている時代は。