19-9 ジェベント
光の矢を名乗る少年が現れて1ヶ月が経った。
少年は最初の10日間を資料室に篭ったまま過ごした。
次の10日間は教会の施設と所有地を見てまわった。教会は人々から布施を受けるが、土地の提供も多く、それらは農園として運営されるのだが、農園の収穫は教会で消費される以外に市場で売られ、教会の大事な資金源となっている。それだけに教会が本部に隠した蓄財、早い話が不正の温床になりやすいのだ。ゆえに審査官ならば特に詳細に調査しなければならないのが農園なのだ。
次の10日間は教会が管轄する地区を見て回った。これは教会の評判を知るためだった。例え評判が良くとも、それが商人や貴族に偏ってはいないか、また施しは教会の会計の範囲内か、あまりに出費の多い教会は資金の出所を疑われるのだ。
彼ら2人が足を伸ばしたのは街だけではなく、およそ人など住んでいないだろうと思われる森や荒地にまで及んだ。
従者はおずおずと口を開いた。
「エリオス様」
「なんでしょう?」
美しい少年は従者にも丁寧に応じる。
「これまでの調査で僅かではありますが、教会の不正がありましたが」
「農産物売上の転用の事でしょうか」
「はい」
「あれは西の荒野に礼拝堂を作るために利用されたのです」
「存じております。しかし礼拝堂の設置は教会の範疇外ではありませんか」
「あの礼拝堂が無ければ、西の荒野に住む者が祈りを捧げる場所がないでしょう」
「ですから自宅で祈りが捧げられるよう教会では礼拝札を発行しているではありませんか」
「どんなに辺境の者であろうと、どんなに貧しい者であろうと、アルエスの神を信じ祈りを捧げる機会を奪ってはなりません。それは人が生きる事と同じく平等な権利なのですから」
「しかし、教会規約に反しています」
「あなたが言っている事は正しい。しかし正しいだけだ。規則の正しさだけでは何も生み出されはしない」
「私は教会の為に在ろうとする心によって、教会の規則を守り自らの任務を遂行しております。それが何も生み出さないのでしょうか」
「勘違いをせずに聞いて下さい。麦は収穫されて教会の倉庫に納められます。これは農夫に与えられた任務です。しかし麦は全てが教会に納められていますか?」
「正しい農夫は全てを教会に納めているでしょう。彼らは教会を信じ、規則を守りって、任務を遂行しているでしょう」
「そうです。あなたの言葉は正しい。では、あなたが言う正しさとは何なのか明日見に行きましょう」
翌日、麦の刈り取りが行われている農地に2人の姿があった。
農夫は鎌を振るい、切り取られた穂は直ちに脱穀されて袋に詰められる。
2人の少年は朝からその様子を見ていた。
「あんたら旅の方かね、随分とお若いようだが」
農夫に声を掛けられた。
「はい。一生懸命に働く姿は見ていて清々しいです」
「そうかね。ここはアルエス様の農地でな」
アルエス様とはアルエス教会を指す。地方、特に田舎の農民はアルエス教会をアルエス様と呼ぶのだ。
「わしらはサイカニアから移って来たのさ。サイカニアには農地が少なく貧しかった。そんな時にサイカニアのアルエス様から移住の話を頂いたんだ」
「そうですか。それは幸福でありましたね」
「そうさ、俺は幸せ者さ。ところで喉が渇いてはいないか、お茶でもどうかね」
「お気遣いありがとうございます。我等は水筒を持っておりますので、そのお気持ちだけ頂いておきます」
「そうかね、欲しくなったらいつでも言っておくれよ」
「はい、ありがとうございます」
やがて収穫を終えた農夫は馬車に麦の袋を積むと手を振って去っていった。
農夫達が去った途端に小さな鳥が集まってきた。
「御覧なさい、あの鳥達を」
「ただのスホール(スズメのようは小鳥)に見えますが」
「あの鳥達は何を啄ばんでいるのですか」
「それは、麦の粒でしょう」
エリオスは従者が気付かぬ事に心の中で溜息をつきながらも、努めて丁寧に言った。
「スホールが啄ばむ麦の粒は本来教会に納められるものではないのですか」
従者は少々驚いた顔を見せた。
エリオスは続ける。
「それでもこぼれた麦の粒は小さな命に恵みを与えているのです」
従者の表情は変わらなかった。
その表情の中に理解できない色を見たエリオスは失望を感じた。
この者は教会から使わされた従者にもかかわらず、数字や規則にだけ縛られて、愛しみや施しを知らない。生命が生きるという事は神の慈しみ無くして成り立たないというのに。
「いずれ解る時が来るでしょう。農産物の売上転用の件は不問とします。今後、今件には触れないようにしてください」
従者は俯いておずおずと言った。
「申し訳ありませんでした。私は祈りが足りないようです。これまでずっと調べ、数え、報告するという仕事をしてきました。私はいつの間にか何かを失っていたのかもしれません。しかし気付いてよかった」
エリオスはにっこりと微笑んだ。
「あなたは正しいのです。しかしそれが数字だけの正しさであってはなりません。私達は教会から使わされた使徒なのですから」
「はい」
従者はやっとという感じで小さく応えた。
◇*◇*◇*◇*◇
エリオスが教会を訪れて1ヶ月が過ぎたころ、エリオスはすでに教会の一員と認識されていた。
端正な顔立ちと教会への忠誠心、忍耐強い肉体と篤い信仰心、礼儀正しく純粋かつ誠実、エリオスは誰からも愛された。
しかし、神父は容易にエリオスを信用しなかった。もちろん表面上は慈悲深くエリオスを歓迎する神父を演じていた。彼にとってエリオスは不安と恐怖の元だったのだ。
そのエリオスがやっている事といえば書類と蔵書の整理、教会内の設備の点検と補修、担当地区の巡回だ。
特審官でもなければ査察官ですらない。やっているのは巡回補佐官のような事ばかりだ。
それならそれで良いが、彼はオルドゥカを持つ。
何者かが分かれば少なくとも対処の使用はある。しかしエリオスが何者なのかが分からない。明確な敵よりも敵か味方か判らない者の方が厄介なのだ。
更に1ヵ月後、エリオスと従者が数日間の巡回に出ていた時、教会本部から神父に通知が届いた。
「汝、司教の考査に備えよ」
神父は狂喜した。
これはいうなれば司教への推薦だ。もちろん審査はあるが、その結果に関わらず小司教の地位に上る事ができる。
小司教とは司祭(神父)と同じ仕事を行うが、司教に欠員が出た際には優先的に司教に昇進できる立場にある。
アルエス教の勢力は拡大の一途を辿っており、司教の欠員などすぐに発生するだろう。
神父にとって自分が司教に推薦される事が、あり得ない事のような、当然のような、不思議な感覚に酔った。
何にせよ、あのオルドゥカを持つ少年が、この吉報の原因である事は容易に知れた。彼は神父の審査のためにやってたのだろうと思われた。
この2ヶ月間、恐怖や不安と戦いながら教会の忠実な僕として職務を全うし、信者として務めに励んだ甲斐があったというものだ。
エリオスと従者が巡回から戻った時、牧師はすでに考査を受けるために旅立っていた。
神父は不在の期間、教会をエリオスに託す事を本部に申し出ていた。
教会の誰もがそれを適切な判断だと喜んだ。誰もがエリオスを愛したからだ。
そして半月後、教会本部から通知が届いた。
その通知には神父が司教の考査に合格し、グリファ行政区の一司教として赴任した事が記されていた。
また、後任には新しい神父が派遣されるが、それまでの間はエリオスが引続き神父を代行すべしとされていた。
丁度その頃、盗賊の動きが活発になっていた。
タガンザク山脈の麓を根城にした盗賊は、ごく短期間に強大な戦闘集団へと変貌し、その勢力範囲をひろげていたのだ。
その兵力、装備、指揮能力、明らかに軍事経験者が存在すると思われ、近々大規模な討伐が行われるのではないかと戦災を恐れる声も聞かれ始めていた。
*-*-*-*-*-*
神父が司教に昇進し、盗賊が動き出した事によって、従者は光の矢の任務が始まった事を知った。
しかし何という事だろう。
教会から光の矢として送り込まれたというのに。あの少年は無能だった。
純粋という意味では余りにも美しすぎる。
純粋とはどこかで愚かさを内包するものなのだ。
小鳥が啄ばむ麦の粒と農夫が収穫する麦を混同して明らかな資金転用を可と判断した。
資金転用を可としたのは良い。それは能力はなく権限の判断なのだから。
しかしその説明に落穂を持ち出すとは呆れてものが言えない。それならば全ての農夫に不正を問わねばならなくなるではないか。
あの少年は純粋だ、美しいほどに。
しかし愚かだ。どんな能力を持っていようと任務は失敗するに違い無い。
教会本部はなぜあの少年を選んだ?
光の矢を監視する任務を与えられた従者は、ここまで考えて送り出される時の言葉を思い出した。
「光の矢を監視するお前は影の矢だ。そして光が消えた時、影も消える運命にある。後に残るのは闇だ」
ジェベント、闇の者または先導する者という意味の名前を持つ従者は本当の任務を理解した。