18-1 猪と魔物
サンプリオス軍を撃退したバルカ南西部に設置された警戒線、通称メツェルライン。
哨戒にあたるバルカ兵の間である噂が広まった。
国境の森に白い魔物がいる
森で狩りを行っていた兵士が巨大な白い獣を目撃したというのだ。
その兵士は森に罠を掛けて猪を狙っていた。
しかし軍においての現地調達とは現地での徴発を指す。
そもそも数千もの兵士の食欲を満たす食料が森から調達できるはずもないのだ。
兵士が猪を狙ったのも、所属する大隊(といっても100名ほどに消耗している)の糧秣を補うためというより、景気付けといった意味合いが強い。
大きい猪なら2頭も獲れれば十分だろう。
彼は同じ小隊の仲間と仕掛けた罠を見て回った。
仕掛けた罠はいわゆる“くくり罠”で、設置した餌に近づいた猪が仕掛けた板に乗ると板が落ちてロープが猪の脚を締め付ける仕組みだ。
罠は全部で6箇所に仕掛けた。
2つ目の罠に大きな猪がかかっており、幸先は良いぞとばかりに早速2人が運んで行った。
小隊長を含む4人は次の罠へ向かった。
残る4つの罠のうち3つまで成果が無く諦めかけた時、最後の罠の方から猪の鳴声が聞こえた。
駆けつけてみると、巨大な猪が興奮した様子でもがいていた。
「よし、止めを刺そう」
通常なら頭を叩いて昏倒させるのだが、この獲物はあまりに大きく近づくことに危険を感じたので、兵士達は矢を射った。
何本もの矢を身に立てながらも暫く暴れていた猪はやがて倒れた。
近づいてみて驚いた。
普通の猪の2倍ほど、恐らく300リグノ(約150㎏)はあるだろう。
これだけ大きいと、槍を担ぎ棒にして運ぶのも苦労するだろう。1人を報告に帰らせて、残る3人はこの場で猪を解体する事にした。
「これは大物だ、皆が喜ぶぞ」
喜色をあらわにした小隊長が猪の脚に絡んだロープを解いた、その時だった。
死んだと思われた猪が突然走り出した。
体当たりされて倒れた小隊長が叫ぶ。
「逃がすな!」
2人は槍を手に追いかけた。
幸いにも傷を負った猪の走る速度は思ったほど速くもなく、やがて弱って捕らえる事ができるだろうと思われた。
大物だと聞いて駆けつけた大隊の兵士達は、罠の近くで軽傷を負った小隊長を見つけた。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ、心配ない。しかし我ながら不覚を取ったよ。猪ごときにやられるとは恥ずかしい話だ」
小隊長はさばさばと言って笑うと、腰の辺りを押さえながら立ち上がった。
「猪は小隊の2人が追いかけている。あの猪を持って行けば、少しは言い訳にもなるだろう」
応援の兵士達はとりあえず猪が逃げたという方向を探すことにした。しかし探し始めてすぐに2人の兵士が逃げるように走ってくるのが見えた。
「おい、猪はどうした?お前らの隊長の面目を保つ獲物は?」
しかし、2人はそんな冗談に答える余裕もないほど怯えており、とりあえず野営地に戻ることにした。
2人の話では、2ファロ(約800m)ほど追いかけたとき、薮から白い巨大な生き物が飛び出してきたかと思うと、あの巨大な猪を咥えて跳び去ったというのだ。
体長はゆうに150ミティ(約2.4m)はあったという。
「馬鹿な」
猪だって体長は80ミティ(約1.3m)、体重も300リグノ(約150kg)は下らないという大物だ。
それを瞬時に咥えて跳び去るなど、ベナプトルでもなかなかできるものではない。
それに、この辺りではベナプトルなど見かけた事もなではないか。
結局、猪が薮に飛び込んだのを見間違えたのだろうという結論に落ち着いた。
その後も同じような目撃が他の兵士からも寄せられたが、いずれも白い獣らしきものという情報以外は何の痕跡も見つからなかった。その動きは速く、一瞬しか捉える事ができないというのだ。
「白い物体はエナルスか、もしかするとハイエナルではないでしょうか」
エナルに詳しい兵士が大隊長に上申した。
「なんだお前は」
「は、私は学生の時にエナル研究を行っておりました。あのカピアーノ博士の研究室で働いた事もあります」
「ほ、それは大した経歴だな、ならばなぜ兵士になった?」
「私の故郷はカペリアなのです。北の戦乱でカペリアが壊滅した際、家族は全て死んでしまいました。もっとも死体すら発見されてはいませんので墓もありませんが」
「そうだったのか」
「私の父も母も私が研究者になる事を喜んでくれました。それは私がエナル研究を続ける理由でした。しかし、もう理由もないのです。私にできる事といえば家族の国、バルカを守る事だけです」
さすがに誰も声がなかった。
「すみません。国を守るとは大げさすぎましたね、ただ一兵士として戦うだけです」
「いや、俺達も同じように思っている。そう思っていなければ戦う事などできまい」
「ありがとうございます。ところで、もし白い物体がハイエナルで猪がリアエナル化した場合、間違いなくオルグとなるでしょう。各地に残る怪物伝説の多くがオルグだと言われていますが、それほど人間にとっては脅威の存在だといえます。非常に低い確率ではありますが、注意した方が良いかもしれません」
しかし、目撃した兵士はその話を聞いて、むしろ白い生物がオルグなのではないかと思った。
*-*-*-*-*-*
同じような噂はサンプリオス軍およびゼリアニア兵の間にも語られていた。
特にゼリアニア兵の間では“白銀に輝く神々しくも美しき獣”と伝えられた事から神の御使いとされ、戦勝の前兆された。
「白き獣神がバルカの黒き悪魔を打ち倒す事だろう」
祈りの時間にはこのような一句が添えられたりもした。
兵士がそのような噂や説教に耳を傾けている一方、サンプリオス軍の軍師はさすがに醒めていた。そして着々と準備を重ねていたのだ。
作戦名は「魔女狩り」
バルカ女王ティエラを狙った作戦だ。
◇*◇*◇*◇*◇
先にクラトと共に戦勝を得たティエラは度々出陣するようになっていた。
出陣すれば必ず勝つので、市民は女王の出陣を願った。
ティエラもその願いにすがるように戦場に身を置き、動かし難い運命を忘れようとしているようだった。
しかし、ティエラの赤騎隊もクラトのシヴァ師団もルシルヴァの突撃大隊も徐々に消耗し、生き残った兵士もその多くは傷つき疲れ果てていた。
兵士だけではない大隊長、師団長など将校も疲れ切っていた。
疲れた人間の行動は必ずパターン化する。
即ち同じ方法、同じ行程、同じ経路、をなぞるようになる。
移動速度が速い赤騎隊は真っ直ぐ城には戻らず哨戒線を確認しながら帰還するのが常だったが、そこをサンプリオス軍の軍師が突いた。
やや小高い丘の上に赤備えの騎馬50騎ほどが孤立している。
気がつけば赤騎隊の周囲は敵で埋まっていた。
伏兵に次ぐ伏兵で網に追われる魚のように徐々に追い込まれ、ついにはこの丘に追い詰められてしまったのだった。
◇*◇*◇*◇*◇
赤騎隊がサンプリオス軍に包囲された時、戦いを終えたクラト麾下の第5軍団はバルカ城に向けて移動中だった。
突撃大隊を含む第5軍団が先発、その後にシヴァ師団が続く。
そのシヴァ師団がメツェル哨戒ラインからバルカ城への定期報告に向かう兵士と出合ったのはほんの偶然であり、その兵士がクラトと面識があったのは更なる偶然であった。
「あれ、あいつ等は何だ?」
クラトが指を差した先には背に黄色い旗を立てた兵士が3騎、馬を走らせていた。
傍らのアンサルが答える。
「あれはメツェルラインの伝令ですね」
「何かあったのか?」
「いえ、定期報告でしょう。事変報告ならあれほどゆるりとはしていないでしょうから」
「そうか」
次第に距離が縮まると、伝令の1人がしきりにクラトの方を見ている。
「何だあいつ、俺に用でもあるのかな」
「クラト軍団長は兵士に人気がありますからね。望んで配属された俺は幸せ者ですよ」
「生きるか死ぬかって毎日だけどな」
「それはどこでも同じですよ。って、あれぇ、あいつまだ見てますね」
「あ、あいつ知ってるぜ。北の戦乱で大怪我して除隊になった奴だ。ちょっと話してくるから先に行ってくれ」
「了解です。でも、あまり遅れないで下さいよ」
「分かってるって」
クラトは手綱を捌いて隊から離れていった。