17-6 お茶
バルカ軍においてお茶といえば、水にロキサムという薬草を入れて煮たものを指す。
これは水が腐らないように処置したものであってお茶ではないが、少々青臭くて不味いこの水を兵士達は皮肉を込めて“お茶”と呼んでいるのだ。
しかし、キキラサに出された器には “軍中のお茶”ではない茶色の液体が入っていた。
「・・・ジェルハ殿、これは?」
「はい、先日届いた支給品の中にエルトア産のお茶がありましたので、淹れてみました」
「物資も不足してきてな、寄せ集めって感じで入ってんだ。まぁ、これを揃えるにも相当苦労しているんだろうけど」
ジェルハとクラトがいうように、物資の備蓄量は心許なくなっていた。
軍が支給する“本当のお茶”は将校用なのだが、エルトア産のお茶が新たに調達できるはずもないから、備蓄されていた古いものには違いないだろう。
古いお茶は香りも薄いが、その独特の香りにキキラサは故郷を思い出した。
故郷の思い出とは、忘れつつある幸せと忘れられない苦痛だ。しかし、そんな心とは別に故郷の味は身体じゅうに沁みこんでいくようだった。
軍装を緩め、兜を脱いだキキラサは両手で器を持って簡易椅子に座ると軽く目を閉じた。
束の間の休息。
バルカに来てから身長も幾分伸びたが、90ミティ(約140㎝)には届かないだろう。
しかし、その小柄な体と幼げな顔からは想像もできない驚異的な身体能力を発揮する、サバール隊の西部分隊長だ。
話によると、サイモスはだいぶ忙しいようだ。南部戦線は勝ち戦らしいが、投入される敵戦力が半端ではないらしい。
キキラサも任務に忙しく、2人が会える時間はないだろう。
キキラサはお茶を2杯飲んで帰っていった。
「不思議な方ですね」
「ん?キキラサの事?」
「はい。あんな小柄で幼い顔をなさっているのに」
「まぁな、でもあの仕事はキキラサじゃなきゃできないよ」
「いや、任務もそうですが、なぜか女性としての魅力、そうですね色っぽさのようなものを感じます」
「お、ジェルハにしては珍しいな、ソッチの話かよ。ま、ああ見えて26だからな」
「正直驚きました」
「キキラサはさ、色々とあったんだよ。欲しいものは全て失って、欲しく無いものがいくつも身についちまったんだ。あまり詮索しないでくれよな」
「はい、そんなつもりはありません」
「頼むぜ」
「承知しています。何しろ、サバール隊とエルファ殿はバルカ情報網の要ですから」
「そうだな。エルファも頑張ってるな。クエーシトの飛行型エナルダとやり合う事がなければ大丈夫だろう。アイシャは?」
「銀狼隊ですが、戦闘部隊としては規模も戦力も小さすぎました。今では諜報や後方撹乱に従事しています。エルファ殿と連携する事も多いそうです」
「そうか、元気でやってるならそれでいいんだ」
「結局、アイシャ殿の能力を他の隊員は習得できませんでした」
「習得しようと思って出来る事じゃないんだろう。あのガルディもきっかけは元々備わっていた力の発見なんだ」
「あのオルグと暮らしているという?」
「そう、そのオルグはヴァイロンって奴だ。俺とジュノが同時に掛かっても分が悪かった」
「オルグ化した獣とはいえ恐ろしい戦闘力ですね。ガルディ殿もバイカルノ様やサイモス殿が高く評価した位ですから、優れた武人なのでしょう」
「まぁ、こう言っちゃなんだが察知能力としてはアイシャでも比較にならんだろうね。最もガルディはほぼ失明していてな、ぼんやりとしか見えないそうだ。だからかえって視力は邪魔になるらしい」
「ガルディ殿にはサイモス殿が何度か接触をしていたようですが、バルカに帰順しませんでしたね。もし実現していたら銀狼隊を戦闘部隊として運用できたでしょうか」
「無理だね。1人と1匹が増えたところでどうにもならんだろ。伝達できない技術ってのは組織化できない。つまり軍隊じゃないって事だな。むしろ今の任務を強化した方がいいね」
「優れた才能とは時として扱いづらいものですね」
「まぁ、な。っつーか、ヴァイロンは人を喰っちまうかもしれないからな」
「そ、それは困りますね」
「ははは、でも面白いヤツだったよ」
クラトはひとしきり笑った後、ため息のように呟いた。
「俺もこんなところに篭ってちゃなぁ」
「ここで敵の動きを封じるのも重要な任務です」
「そうなのかも知れんが、南部がかなりヤバそうじゃないか」
「恐らく本城に帰還させる師団を補強して南部へ送るのでしょう」
「そうか、それにレガーノとランクスだからな。大丈夫だとは思うけど」
「そうです。あのお2人なら師団が増えても指揮が衰える事はないでしょう。それに、我々もアティーレのイグナスに備えなければならないのですから、厳しい事に変わりはありません」
しかし、その後の北西・西の戦線のギルモア軍は全く動きを見せなかった。
ギルモアは持久戦に持ち込む構えのようだ。
つまり主力は違うところにあるという事だが、北西部のイグナスを除けば、ギルモア軍が主力の戦場は無い。
まさか・・・?
まさか、国家の利益も軍のメンツもない戦いを行うだろうか。
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ジルキニア戦争の全体的な戦況
ギルモア軍
バルカ北西部に接するアティーレ行政区35,000(ラティカ軍団5,000含む)
バルカ西部へ侵入した砦を拠点とするギルモア本国軍22,000(⇒20,000)
トレヴェント軍10,000(敗走・召還⇒0)
タルキア傭兵3,000(壊滅⇒0)
ジルディオ同盟軍
ラムカン軍40,000(クロフェナ軍2,000含む)
クエーシト軍15,000(エナルダ部隊含む)
ジーク同盟軍 (バルカ)
バルカ北西部 警戒ライン・工作部隊として1,500。
バルカ西部 クラト第5軍団4,000。
バルカ本城 ジュノ第2軍団3,000、第1軍団の1個師団1,000、予備兵2,000。
バルカ南東部 レガーノ第1軍団4,000、ランクス第4軍団3,000、後方に予備兵1,000。
バルカ南部 アヴァン第3軍団(遊撃隊)4,000。
ジーク同盟軍 (グリファ)
グリファ南部タルキア国境20,000
グリファ北部クエーシト国境5,000
グリファ南西部バルカ国境15,000
サンプリオス軍
タルキア傭兵3,000(壊滅⇒0)
サイカニア山岳兵団5,000(⇒2,000)
サンプリオス本国軍(増援)25,000
ゼリアニア軍
ゼリアニア義勇兵30,000(⇒15,000)
ゼリアニア正規軍5,000(グリエス隊含む)
ゼリアニア義勇兵(増援)25,000
サンプリオスとゼリアニアが侵入した戦線はバルゴー高原を南東部戦線、メツェル湖周辺を南部戦線と呼んでいる。
メツェル支城からラシェットが送った2個師団と合流したランクス第4軍団は何倍もの敵に大きな損害を与えながら後退を続けた。そこへ北西部から駆けつけたレガーノが敵の東側面、アヴァンが西側から包囲し、敵は総崩れとなった。この時点で敵の損害は20,000に達したという。
しかし敵は新たに50,000もの兵力を投入してきた。
戦いは主戦場ではないと考えられていた南部こそ熾烈であった。
緒戦では優勢に戦いを進めたバルカ軍も大兵力の前に徐々に消耗していく。
サンプリオス軍に編入されているザレヴィア軍は異常な軍だった。
動きは単純かつ直線的。戦術を駆使する事もなく、ただ前進してくる。
それは思考を持たぬ虫の群れが作物を食い荒らすように、平原を埋めた兵団が押し寄せてくるのだ。
その光景は異常であり、バルカの兵士は何かこれまでと違うものが動き出したことを肌で感じた。
それは異界の人外に対して抱くような恐怖にも似て、後にこの戦場は次のように述懐される事となる。
“戦場から武人も精神も政治も姿を消し、殺戮だけが残った”
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ここでラシェットは悟った。
イグナスはジェダン対策だったのだ。
ジェダンがジルディオ同盟を結ぼうと、“戦わなければ”イグナスのアティーレ行政区軍だけで抑え込むことができる。
ラシェットは唇を噛んだ。
「私はセシウスに及ばなかった!デュロンにも!」
結果だけ捉えれば互角だったといえるこの3国の軍師。
ラシェットが痛哭したのは、その立場を考慮したものだ。
セシウスに比べ、ラシェットは主席軍師として存分に力を発揮できる地位にいたし、デュロンのように監視されていたわけでもない。
かつてバイカルノは自らの策がフィアレスより理解しやすいと各大臣から評価された事を己の無能と嘆いたが、ラシェットは更に策に堅実さを求め、結果として主導権を握る状況を作り出す事が出来なかった。
彼の多彩な能力は常人を凌駕したが、閃きという点ではバイカルノに劣り、フィアレスとは比べようもなかったのである。