16-7 鶏の籠
キキラサにとってこの男達はまさに奇跡だった。
9日間、たった9日だ。
この男達はただ強かった。
誰だって、笑い、怒り、泣く。
重要なのは強さゆえか弱さゆえかという事だ。
この男達は強さゆえに苦しかろうと笑い、不義に怒り、人の痛みに泣いた。
もし、あと数日過ごしたら、もうこの男を殺す事はできなかっただろう。
キキラサは闘っていた。恨みと傾慕がせめぎあっていた。
この9日間のような日々が続いたなら。こんな人間と共に生きていく事ができたら。
しかし、それは甘美な幻想だ。幻想とは現実ではありえない事を指すのだ。
歯を食いしばり、目をつぶって小さく震えるキキラサ。
その目がカッと見開かれ、右手をぐいと引いた。
「くぅッ!!」
迷った刀は弱い。
喉笛を切り裂くほどではなく、しかし動脈を傷つけ大量の血が噴き出す。
「ほんとうにやりやがった!!」
飛び出してきたのはサイモスだ。
「貴様ぁッ!!」
「やめろ。俺は借りを払っただけだ。こいつを殺すな・・・こいつは役に立・・・」
バイカルノの顔は見る見る生気を失い、血と一緒に命が流れ出したように死んでいった。
「頭!頭!!」
サイモスらしくない。バイカルは明らかに死んでいる。死者に呼びかけるなど無駄だ。
それでもサイモスは呼び続けた。
その傍らでキキラサが放心したように座り込んでいる。
クラトとジュノが駆けつける。
「信じられない・・・バイカルノ殿がこんな・・・」
鈍い音がして立ち尽くした2人の前を赤い何かが飛んでいった。
地に落ちたのはサイモスに蹴られたキキラサだった。
「はぁっあぁっ・・・」
口から血を流してのたうつキキラサ。
サイモスは信じられないスピードで近づいてもう一度蹴る。
キキラサが口から赤い糸を引きながら空に舞った。
素早く受け止めたクラトが低い声をサイモスに向ける。
「ここまでだ。次は死ぬ。それはバイカルノが許可しなかった」
「くぅっ、はぁっぁ、くっそぁぁぁ!!」
サイモスは吼えて膝を折った。地面を何度も何度も拳で打った。
ジュノは無言のままクラトからキキラサを抱き受けると、サイモスに近づいた。
「キキラサはあなたに預けます」
「ちょ、おい待て!ジュノ!」
「クラトさんは黙っていてください。これは何と言われようと譲れません。後で考えてもらえれば理解してもらえると思います」
気が付くと物凄い目つきでサイモスが2人を見ていた。いや3人か。
その目は怒り、焦り、不安、混乱、そういったものが凝縮して今にも人間ではない何かに変わってしまいそうな目だった。
サイモスは暫くクラトとジュノに視線を向けていたが、キキラサの襟首を掴んで引きずっていった。
「大丈夫かよ」
「大丈夫です。サイモス殿はキキラサを殺せません」
「でもよ・・・」
「キキラサの生きていける場所は限られています。あれだけの能力を持ちながら生きていける場所は僅かしか無いのです。そしてそれはサイモス殿も同様です」
「私達はバイカルノ殿の遺体と共に帰りましょう」「これはバルカという国家の問題です」
◇*◇*◇*◇*◇
サイモスはキキラサを、鶏を運ぶ籠に入れ、馬車の後ろに据え付けたまま移動を続けた。
何も与えない。声も掛けない。
何も与えられず、糞尿も垂れ流したまま3日間放置された。
そして4日目の朝、サイモスは籠から出した。
「水を飲め」
貪るように飲んで荒い息をつくキキラサの目の前に短剣が置かれた。
バイカルノを殺した仕込ナイフだ。
「自由にして構わない。ただし去るなら、これで俺を殺してから行くがいい。我等の元に留まるのならバルカに向かえ。頭目と一緒にいた男達を頼るがいい」
キキラサは短剣の刃に目を向けていたが、鞘に収めて懐へ入れた。
最後にサイモスを見た目は強い光を宿していた。それはサイモスが狼狽えてしまうほど真っ直ぐな瞳だった。
そして、その時二人は悟ったのだ。同種である事を。常人を凌駕する能力を持ちながら、居場所が限られる脆い存在だという事を。
◇*◇*◇*◇*◇
バルカ城南門の外側にある城外第4練兵所。
指揮所の後方に小さな丘で3人の男が兵士の訓練を見ていた。
練兵場では急遽の合同訓練が行われている。
3人の男の目は兵士が行う模擬戦に向けられていたが、その会話は訓練とは全く関係がないものだった。
「これは危機と言って良いだろう」
ジュノの手紙を持ち帰ったサイモスによれば、バイカルノは死んだ。
盗賊をしていた時の敵討ちに遭ったのだという。
それにしても、ジュノとクラトがついていて討たれるとは。
サイモスも手が出せなかったようだ。
事実を知っているのはヴェルーノ、ラシェット、レガーノだけだ。
「しかもバイカルノを殺した娘を仲間に加えるとは・・・」
「キキラサという名前でしたね、バイカルノ殿が死に際に言ったようです。“役に立つから殺すな”と」
「外見は10歳程度の少女、中身はエナルダ覚醒した優秀なレノか」
「確かに思い切ったことをしました。しかし諸刃の剣といえるでしょう、それはサイモス殿も同じ事ですが・・・」
「うむ、しかしヤツは正式なバルカ軍ではない」
「かと言って、勝手にしろとも言えまい。あの才は惜しい」
こうなったらサイモスもいつまでも陰の人間では居れまい。
サイモスは優れている、それが故に難しい。
優れた武器が持ち主を選ぶように、サイモスの才もまた扱う者を選ぶだろう。
サイモスとサバール隊はバルカの組織には組み込まれてはいなかった。あくまでバイカルノの私兵的な存在だ。
本来なら王直府で特務隊とするか、レガーノ元帥旗下の別働隊という事になるだろう。
しかし・・・
サイモスがバイカルノに求めていたものは何だ?
サイモスの存在意義とその存在を輝かせてくれるのがバイカルノだった。
バイカルノはサイモスの能力を怖れなかった。
むしろサイモス自身が己の力を怖れていた。使いこなせない自らの力に押しつぶされようとしていたのだ。
そんなサイモスの力をバイカルノは怖れもせず有効に使ったのだ。しかし、サイモスの為には何もしなかった。
サイモスはバイカルノの指示さえ守っていれば自分を保つことができた。
バイカルノの指示は厳しかった。過酷な任務であるほどサイモスは輝くのだ。
サイモスの能力を知らずに使う事はできず、能力を知れば怖れずにはおれない。
サイモスは我々とは違うところに身を置く者だが、サイモスを使う者はこちら側の人間でなければならない。
誰が居る?サイモスを怖れず使いこなせる者が?
クラトはサイモスを怖れはしない。サイモスもそれは気付いているようで、不器用な親近感を持っている。しかしクラトにサイモスを使う才は無い。
ラシェットはため息をついた。
サイモスは不器用な男だった。
時間も身体も、命さえ使ってバイカルノに従っていたように見える。事実、そうだった。
サイモスの不器用さ。
与えるか奪うか、どちらかしか出来ない。
補い合い、助け合い、喜びも苦労も分かち合う。
サイモスにはそれが出来なかった。
むしろ、それが出来ないからサイモスの能力が発揮されるのかもしれない。
◇*◇*◇*◇*◇
キキラサは全てを失ってしまった。
父も母も家も、あるべき肉体も、輝くはずだった少女の時代も。
そしてバイカルノを殺した時、仇を討つという生きる目標すら失ってしまった。
人間は何かに縋らねば生きてはいけないのだ。
キキラサはバイカルノを殺した事に罪悪感を持った。こんな事は初めてだった。
これまでは、わずかな糧の為に人間の首を刈る事にすら罪悪を感じた事などなかった。
鳥の籠に閉じ込められた数日間と開放されバルカを目指した日々。
何もかも失ったキキラサが唯一持っていたのは小さな罪悪感だった。この罪悪感がサイモスに向けられたのは当然の事だった。
バイカルノをこの世で一番必要としていたのはサイモスだからだ。
私はサイモスの一番大事なものを奪ったのだ。
自分に残されたのはこの僅かな罪悪感だけだ。この罪悪感は人として当たり前の感情なのかもしれない。
ならばせめて人間に少しでも近づこう。
この罪悪感を抱いて生き、そして死のう。
暫くするとキキラサはサイモスと暮らすようになった。
サイモスは苦い顔をしながらも追い払うことはしなかった。
同種の人間ではあっても両者の違いは大きい。
とても釣り合いが取れるとは思えなかった。
大きな空虚を抱えた男と、ほんの僅かな罪悪感以外は何も持たない女。
それはまるで池に小石を投げ込むようなものだ。とても埋め切れはしない。
サイモスは相変わらずサバール隊を率いて活動している。バイカルノによって構築されたバルカの警戒ラインの保持と諜報が主な活動だ。
レノとしての才能ではサイモスにも劣らないキキラサは逆にいつも家に残っていた。
洗濯と掃除。夕方には食事を作ってサイモスを待つ。
サイモスはごくまれにしか帰ってこなかった。
帰ってきても酒を飲んで帰ることが多くキキラサの食事はほとんど口にしなかった。
それでもキキラサは洗濯と掃除をして食事を作る事を繰り返した。
それはまるで修行のようにも見えた。
*-*-*-*-*-*
「よお、キキラサ」
クラトがやってきた。
たまに来ては食べ物や生活用品などを置いていくのだ。
いつもは1人なのに、今日はアイシャとエルファ、それに猪を担いだヴィクトールを連れている。
「そろそろ薪を作っておかないとな」
キキラサはこの男が好きではなかった。
この男の明るさは、何もかも照らし出してしまいそうだから。
何も隠さないこの男は、誰にでも何も隠さない事を求めるのだ。
全てをさらけ出すには、キキラサの闇は深すぎた。
アイシャとエルファ。
元奴隷のアイシャ。その背中には無数の鞭の傷跡が残る。
彼女はそれを隠さず明るい場所で生きる事を望んだ。
エルファもそうだ。何度も捨てられ、獣の翼を移植された少女。
彼女もその事実を明らかにして輝く空を飛ぶ事を選んだのだ。
この少女達もあまり好きではない。
明るく騒がしく、それでいて帰った後に大きな寂しさが残るから。
“失うくらいなら持たない方がいい”キキラサが人生から学んだ事だ。
失うんじゃないぜ、返すんだ。
人間なんて死んだら、金も土地も手放すしかないだろ。
人間が得るものなんて全て借り物なのさ。
誰から借りてるかって?
知らねぇよ、この世界だろ。誰からだって関係ねぇよ。
生まれてから借りっ放しなんだ人間は。そりゃ肩も凝るわな。
死んだらそれを返して・・・その後どうなるのかは知らないけど・・・死んだ事無いからな。
ま、とにかく死んだら返さなきゃならないのさ。
だってよ、人間が死んで土に還っても金も土地も城も剣も残るんだぜ、死んだ後も持ち続けた奴は誰もいないよ。
だからやっぱり借り物なんだ。生きてる時は俺のもんだっていばってるんだろうけどね。
でも、そう考えたら、精神ってのは借り物じゃないのかもな。死んだ後も残ってないもんな。
戦じゃバルカの兵士もたくさん死んだよ。
でも、そいつらは持っていったんだろう。何かを守ったり想ったりした心を。
死んだ後も持ち続けてるんだろう。
そんな話を聞いた日、キキラサはこの男が何も欲しがらないのは、その考え方によるものなのか、それとも物欲が無いだけなのか、分からなくなった。
この男は強い。
なぜなら嘘と欲が無いからだ。そして懸命だからだ。
いや、むしろ弱さとは嘘と欲から発するのだといえば良いのかもしれない。
今のキキラサにははっきりと分かる。
人間の本当の強さは権力でも金でも腕力でもない。
この男の強さはたとえ敗者であろうと虐げられようと持ち続ける事ができる強さだ。
だから誰もこの男の領域を侵す事はできないだろう。
この男の領域は誰でも入れるが、誰も自分のものにはできない。
“厄介な男”
キキラサは思った。
引き寄せるくせに誰のものにもならない。
しかし、サイモスは言った。
あの男達を頼れと。