15-4 異人③
奴隷とはな、自分では何も決められない人間の階級なのだ。逆に言えば自分では何も決めなくていい。そう考えるなら、自分で何も決めない人間は身分がどうであれ奴隷と同じだ。奴隷という人間の境遇は不幸だろうか?
ジェルマは奴隷に人間という表現を使った。これまで出会った誰も言わなかった事だ。
彼は敵国であろうと異教の徒であろうと犯罪者であろうと異常者であろうと、人間は人間だという姿勢にいささかの揺るぎも無い。
そうか、奴隷は人ではないと言う者もいるだろう。
しかしな、市民が奴隷に対して抱く憐れみや嫌悪は、貴族が貧農に対して抱くものと大差あるまい。貴族から見れば貧しい生活とそれを成り立たせる為にあくせくと働き、取るに足らない金銭で右往左往する、貧しくも卑しい人間に見えよう。
そこに自分達とは“別なもの”という感情が生まれても不思議ではない。
王族や貴族の特権階級もあれば、市民にも貧富の差がある。それは個人の責任に帰するものばかりではない、むしろ運命が多くを占めている。
それが境遇というものだ。市民に王族の権利が無い事、同じ市民でも貧富の差が存在する事、それらは不当ではない。
お前の世界は誰もが同じ権利と責任を持つのか?それは既に責任ではなく組織でもない。なぜなら何も決められないからだ。
倉庫のネズミと同じではないか。奴らはただ群れ、穀物を喰らう。
お前は、あたかも人間が生まれながらに権利を持っているかのように言う。お前の勘違いはそこにある。
よく知るがいい。生まれながらに天から与えられたものは“可能性”だけであり、権利を口にする前に責任が存在する事を。
もし、お前が言うように人間とは全ての面で平等であるというならば、法などつくれまい。結局は生物の大原則だけが法となるだろう。弱肉強食という力のみが支配する獣の世界だ。獣の世界ならば生まれついての奴隷もなければ身分も無い。これこそお前が望む平等ではないか。
人は他人に抱く嫌悪、憎しみに耐えられないのだ。
人を嫌悪し憎む己の醜さ、その醜さの果ての罪悪感、そして恐怖。
人は他人の不幸、犠牲によって成り立つ己の存在に耐えられないのだ。
人を憐れみながらも何もしない己の弱さ、己の優位性を守る貪欲さ。
だから戦いで殲滅すべき敵、教えに従わぬ者、異教を唱える者、不利益をもたらす者、使役される事で存在する者、それらは人間であってはならないと考える。
人として認めないのは攻撃性の裏返しだ。そして、攻撃とは常に弱者、不遇者から発せられるのだ。
いくら肉体的に優れていようと、どれほど金銭的に恵まれていようと、精神が脆弱な者は常に弱者だ。
お前は神についても言っていたな。万能であると。
神とは、遠い昔、我々の祖先に恩恵を与えた者や事象が象徴化されたものだ。
寒さと闇に震える者に火を与え、食べられる植物を教え、人々を導き、身を犠牲に人々を守る。そういう過去の事柄なのだ。
つまり、神は何かをしてくれるのではない。かつて行った事に対して祀られているのだ。
だから神は万能ではないし、全てが正しいのでもない。
神として祀られる火や水も火事や洪水という厄災をもたらすだろう?
神とは感謝を奉げる対象、そしてささやかな“幸運”を祈る対象なのだ。
お前がまた勘違いをするといかんから言っておくが、この幸運とは努力をした者だけが望む事を許されるものだ。ただ祈って幸運を得る事などあり得ないし、もしそれを望むのならそれは恥を知らぬ者だ。
一言で言えば神とは“運を託す”対象だ。
種を蒔けば収穫を得られるが、天候によって収穫量は影響される。
そのように人間が自らの力ではどうしようもない事について、人々は神に祈り、感謝するのだ。神を天と置き換えようが構わない。
今の教会は神を万能として全てを委ねるように教えている。しかし神は語らん。神の言葉を仰々しく喧伝するのは誰だ?
「教会だ」
このままでは全ての人間は“神の奴隷”どころか“教会の奴隷”だ。
さっき話しただろう。決めなくて良い、信じるだけで良いというのは楽なのだ。それは無責任で良いからだ。
無責任とは弱さだ。信じるだけの人間の精神は脆弱だ。
だから悪魔が作られた。
望まない結果、不幸や不運、妬み、不安、これらの原因を自らに課す精神力を失った、弱い人間は厄災の原因である悪魔が必要になった。
つまり、「欲望と無責任から絶対神が生まれ、自らの弱さを繕うために悪魔が生まれた」のだ。
それがゼリアニアに蔓延したアルエス教だ。
ジェルマはここで喋り過ぎたと気付いたように間をおくと言葉の調子を下げた。
お前がいた世界の本質は知らない。技術力が信じられないほど高いという事は分かった。
ただ、無駄な事ばかりしている世界だという事も言えるようだ。
僅かばかり生活を向上させるために、僅かばかりの我慢が耐えられずに、多くの戦いと不幸が作られている。
お前は相田ではなくアディアだ。
私の言葉を忘れるな。私はお前の言葉を忘れる事にしよう。
*-*-*-*-*-*
私はジェルマの言葉を何度も思い返した。
人間というものを生物学でも哲学でもなく、“自分”または“我々”としか認識していなかった。とても偏った、差別的な考え方だったのだ。
それはショックではあったが、新しいものが見えるようになった。
私にとって、いやジェルマに接した全ての人間にとって、ジェルマは強く不動であり憧れだった。
ジェルマを助け出そうという仲間が集まった。仲間は徐々に増えて20人にまで膨れ上がった。何かできると思った途端に密告でほとんどが捕まった。
その日、私は激しい頭痛に悩まされて寝込んでいたために捕らえられずに済んだ。
この頭痛の後、私の体に変調が起きた。感覚が鋭くなったのだ。
街を歩けば、通り中の話し声が聞こえ、動物の鳴き声すら理解できる事もあった。
私はどうなってしまったというのか・・・
「おい、来たぞ」
隣にいた男の上ずった声が、私の記憶を辿る思考を停止させた。
もう仲間は僅かに3人しかいない。
我々にできるのは、ジェルマの最後を見守り、処刑後の弔いをするくらいのものだろう。
広場に引き出された罪人、それは間違いなくジェルマだったが、昔の面影は全く無かった。
頑強だった肉体は痩せ衰え傷だらけだった。特に脚の傷は酷いらしく歩く事すら困難で兵士に引きずられていた。
私の心が一番傷ついたのはジェルマの顔に精気が全くない事だ。肉体と精神に対する拷問がジェルマを徹底的に破壊したのだ。
ジェルマの処刑がここまで遅くなったのはジェルマが罪を認めなかったからだ。
裁判が長引いたのは有力者の中にもジェルマの処刑に反対こそしないものの賛成もしないという者が多かったからだという。長く苦しんだに違いない。
私はどうしようというのだろう。ずっと考えていた。
計画していた護送中の急襲や、牢からの脱走も仲間を失って実行できなかった。
いま、処刑場で暴れたとしても捕らえられるだけで、ジェルマを救うことは出来ないだろう。
それにジェルマは逃亡に耐えられるような状態ではない。
私はどうしようというのだろう。
ふたたび自らに問いかけた時、いよいよジェルマが処刑台に登った。
これから衣服を剥がれ、鞭打たれた挙句に首を斬られるのだ。
「決めた」
私は剣を握ると、仲間に言った。
「私はジェルマと一緒に死ぬ。兵士達をできるだけ多く道連れにした後で、私がジェルマを斬る。罪人の首を刈る薄汚れた剣でジェルマを殺させはしない」
誰も一緒に来るとは言わなかった。しかし、それでいいのだ。
私は剣の鞘を掴んだままゆっくりと歩いた。
あまりに堂々としていたせいか、柵をくぐった私に誰も気付かなかった。
兵士達が気づいたのは、私はだいぶ処刑台に近づいてからだった。
1人の兵士が声を上げ、ジェルマが私に顔を向けた。
私が握った剣を見た。ジェルマの顔に精気が蘇る。
何か言っているようだが、呻くような声しか聞こえない。
舌を抜かれているらしく声にならいようだ。
私の中でまた何かが壊れた。
しかし私には伝わった。
最近の変調によって鋭くなった感覚に感謝した。
「俺を斬って剣を置き、膝をついて待て。そして生き延びろ。もう教える事はない。お前がやりたい事をやるがいい」
さっきまでジェルマを斬る事で救おうと考えていたのに、ジェルマの「俺を切れ」という言葉に戸惑った。
視界の端で何かが揺れた。
目を向けると遠く掲げられたザレヴィア王国の旗が見えた。
その時、私の脳裏にはザレヴィア王国の崩壊が映った。
私は生き延びる。そしてジェルマを貶めた奴等にこの剣で復讐してやる。
私が剣を抜くと、処刑台にいた兵士は逃げ去った。
私は「ありがとうございました」と囁くように言って剣を振り下ろす。
ジェルマの最後の言葉は「それで良い」だった。
ジェルマを斬った剣を処刑台に置いて私は膝をついた。
ひどく長い時間が過ぎたような気がする。
ふいに肩を掴まれ引き起こされると、内務府治安庁の長官が姿を現した。
「お前が斬ったのは、我らが神、我らが国家に反逆し、我が同志を傷つけ辱めた大罪人、ジェルマだ。お前のような市民が剣を用いる程にジェルマの大罪は明白にして広く知られているといえよう」
私はこの男がジェルマを苦しめた者だと分かったが、陥れた者ではない事も知っていた。
このままこの男を殺してしまう事もできたが、そんな小さな代償で私の恨みは収まらない。
私は俯いているだけだった。
「お前がやった事は治安庁の働きを妨害するものであり、本来なら罪は免れないが、神の教えと国家を強く思うがゆえの義憤と判断し、無罪とする」
治安庁の長官としては、これほど良い展開はなかった。
ジェルマをいくら罪人に仕立てようと、ジェルマを慕う隠然たる勢力があるのは事実で、逮捕したジェルマを奪還しようと企てた者達などもいたことだし、無謀にも復讐を行う者がいるかもしれない。
それがどうだ。この市民がジェルマを殺してくれた。
我々は手を汚さず、ジェルマ支持者の恨みもこの男に向かうに違いない。ジェルマに憤りを持つ市民がいるという点も使える。
その時、兵士の一人が驚きの声を上げた。
「あ、こいつアディアだ!ポルスでジェルマと同じチームの!」
その場にいた人間がざわめいた。
そう、私はアディア。ジェルマに拾われ導かれた者だ。
その兵士の眼はこう言っていた。恩知らずの裏切り者と。
同じような非難の渦が音も立てずに私を包んだ。
しかし、どんな非難でも受けよう。どれだけ憎しみや恨みを向けられても構わない。私はただ一つの目的の為に生きるのだから。
「素晴らしい」
長官はこれ以上無いという喜びを見せた。
「いくら恩人でも、苦楽を共にしたチームメイトであろうと、それでも許せなかったというのだな?それほどの罪をジェルマは犯したのだな?」
ますます良いではないか。ジェルマを殺した男は皆が知る男だ。これで恨みはこの男1人が背負ってくれるだろう。
醜い笑い顔だった。
自らの為にだけ生きる人間。善悪の判断が罰を受けるか否かで決まる人間。誰にも知られなければ平気で罪を犯す人間。
私は俯いて耐えた。
「私はこの街を離れます。いずれ戻ってくるかもしれませんが、その時はジェルマを思い出してください」
「何を言ってるんだ?元よりお前がどうしようと自由だ。どこへでも行くがいい」
開放されたその足で北へ向かった。
なぜならザレヴィアに対抗しうる国家は蛮族しかなかったからだ。