14-10 怯える森②
毛皮商人にしては政治的な情報に詳しすぎる。
ガルディは、この毛皮商人と最初に出会った時の事を思い出そうとしていた。ガルディの中の何かがそれを検証しろと言っているのだ。
「ガルディ、嫌な予感がしないか?」
「あぁ、ギルモアが動いて良い事があったためしがない」
「ただ、その動きの原因はサンプリオスだというんだ」
「サンプリオス?かつては南海の雄と呼ばれていたようだが、いまじゃ地方の一国家に過ぎないだろう?」
「いや、最近、サンプリオスとインゲニアが急接近しているというんだ。そしてその陰にローヴェの存在がある。サンプリオスとローヴェがまとまれば大陸南部をまとめる力は充分にある」
「しかしローヴェは中立宣言国家じゃないか」
そうだ。しかしあの抜け目ない国が動くようなら何かを得たという事だろう。それでなくとも王族や貴族が集まる国だ。何か密約があってもおかしくはない。
「まさか」
「“まさか”だから噂だし未来なのさ。やはりと思うなら、それは今気づいた過去でしかない」
ガルディは購入した穀物や塩、食器や布を積んで深い森へと帰っていった。
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ガルディは道すがら毛皮商人の話と他から仕入れた話を整理してみた。
ゼリアニアから海路サンプリオスに荷上げされる量が増えていると聞く。それに伴ってサンプリオスの経済力は急速な成長を遂げているらしい。
しかし海運といえばヴェルカノだろう。ふと疑問がよぎった。
タガンザク山脈の麓にあるヴェルカノなら航海の距離も短いから、オルグの被害に遭う可能性が低くなるし、過去に海運で栄えただけあって港の設備も整っているはずだが・・・
ともあれ、武力と物資は戦争の両輪だ。
サンプリオスがかつてギルモアに敗北したのは、そのいずれかが劣っていたからなのだ。
個人であろうと組織であろうと敗北と衰退によって力の行使は内側に向かい、自らの範囲を小さくしていく。サンプリオスの場合、その結果として分裂に至った。
反面、勝利と繁栄による力は必ず外に発散される。サンプリオスはそれを得たというのだろうか。
戦争の両輪である物資と武力。
物資はゼリアニアとの交易だろうが、武力は何を指すのだろう。
北のバルナウル、中央のギルモア、もしかするとエルトアの判断はあながち間違いではないのかもしれない。しかし、サンプリオスが復活するようならギルモアも蛮族に手を出している暇はないだろう。
バルナウルとてサンプリオスの復活は北の回廊の物流量に影響するのだから無関心ではおれないはずだ。
北はバルナウル、南はサンプリオスからゼリアニアの風が東大陸へ流れ込んでいる。もうジルキニア(東部国家)やフォルティニア(中央部国家)も無関心ではおれまい。
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森への帰り道、日没が迫っている。
ガルディは懐から黒い帯を取り出して目隠しをするように顔に巻いた。
「ふぅ、これで良く見える」
不思議な呟きを聞く者もいない無人の草原を急ぐ。
しかし、森の手前で真っ暗になってしまった。
「まずいな」
森に入ると空気に緊張が流れているのが分かった。
伝わってくるのは恐怖。
森全体が恐怖におののいている。
森の奥にある家に着くと指笛を鳴らす。
2度3度、指笛は森の中に響いて後を引くように消えていった。
ふいに薮を掻き分けるような音が聞こえる。
何かが薮から飛び出した。
「心配シタ」
「そうか、済まなかったな。買い物に時間がかかってしまってな」
「心配シタ」
「うん。だが、もう大丈夫だ。私は帰ってきた」
「心配シタ」
「買い物に時間がかかったが、お前の好きな干した果物もあるぞ」
「干シタ果物。美味シイ。甘クテ美味シイ」
機嫌は直ったようだ。
「そうだ。家に入ろう。食事にしよう」
「食事。温カイ食事、美味シイ食事」
声の主が建物に入ると、森の中には安堵の空気が流れる。
森が恐れていたのは白い獣。
この世界には存在しない白く巨大な体躯。
体長は3リティ(約2.4m)を超え、ベナプトルをも切り裂く爪と牙を持つ。
この森にすむ肉食獣は全て狩り尽くされた。
この森の生態系の頂点はただ一頭の白き獣。
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白い獣は孤独だった。己の姿を見れば誰もが恐れた。
それが悦びだった時もあったが、頂点の存在は常に孤独だ。
まだ身体が犬と同じ大きさの頃、籠に入った鳥を喰っては大勢の人間に追われた。
大きな傷を負い死にそうになったこともある。
それから身体が大きくなるにつれて、誰もがますます彼を恐れ、嫌悪し、殺そうとした。
あちらこちらを彷徨ってこの森に来た。この森は大きく人間も住んでいない。
他の獣や竜獣は全部食ってやった。あいつらは俺の食い物を食うからだ。
そしてあいつらに食われるはずだった生き物は俺にこう言った。
「死ね、消えろ、恐ろしい獣、残忍な獣、生きていてはならない、存在してはならない」
時として俺は、食う以上に殺した。しかし殺せば殺すほど、俺の存在は否定されていった。
ある日、一人の人間を見つけた。人間は以前に何匹か喰った事がある。
特別に美味い生き物ではないが、狩るのは簡単な生き物だし、昔の恨みもある。
しかし見つけた相手は普通の人間と違っていた。
目を隠している。こいつは目が見えないらしい。
簡単な獲物だ。ほとんど一撃にと思って跳躍した。
しかし、そこには何もいなかった。
横を見ると人間は顔さえ向けずに立ち尽くしている。
「避ケタ?コイツハ何者ダ?」
もう逃がさない。絶対に躱せない、確信の跳躍。
しかし、またもや爪は空を切り、前脚は地面を叩いて間抜けな音を立てた。
消エタ?何故!?
「腹が減っているのか?」
人間の声が後ろから聞こえた。
慌てて顔を声の方角に向ける。
「これをやろう」
目の前に投げられたのは一頭の猪だった。
喰おうと思っても喰えない人間が猪を差し出した。
混乱した。
何故ダ何故ダ・・・ナゼナゼナゼ
俺の中の獣が人間を喰えといい、俺の中の孤独が猪を食えといった。
俺は背を伸ばして座った。猪と人間をじっと見つめた。
この人間は俺を恐れてはいない。
俺を恐れるのは俺の敵であり獲物だ。
ではこの人間は何なんだ?少なくとも俺の獲物ではないのかもしれない。
迷っていると人間はこう言った。
「お前は間違えてはいない。生きていて良いのだ」
目から何かが溢れた。
コレは砂が目に入った時、竜獣の尾で顔を打たれた時、そんな時に出るコレがどうして今出るのだ?
良くは分からないが、俺はソレを流しながら猪を喰っていた。
ガルディと暮らすようになってからも分からないままだ。涙というものらしいが、なぜあの時涙が流れたのか今でも分からない。
でも、時々あの日のように涙が出そうになる時がある。そんな時の俺はとても弱くなる。
弱い事は許されない。だから涙が出てはいけない。
でも、ガルディは悪い事ではないのだと言った。
弱さが悪い事ではないとは理解に苦しむ。ガルディは時として難しい事を言う。
今日はガルディの帰りが遅かった。
腹が減って猪を1匹だけ喰った。
山際に沈んでいく夕日を見た時、喉の奥、頭の後ろが“きゅぅっ”となって、俺は弱くなりそうになった。
一人でいることじゃなく、ガルディが帰ってこないかもしれないからだ。
ガルディは約束を守る。
でも、帰りが遅くなるのは約束を破る事とは違うらしい。本当にガルディが言う事は難しい。
指笛を聞いた時は嬉しかった。
なぜ嬉しいのだろう。これもよく分からない。
獲物を捕らえたり喰らったりする時は嬉しい。肉が俺のものになったからだ。
でもガルディは俺のものではないし、俺はガルディを食わない。
なぜ嬉しいのだろう。
ガルディは乾かした果物をくれた。これを食べると力が湧くような気がした。
ガルディが帰って嬉しかったのは果物が食えるからか?イヤ、違ウ。
ガルディは腹を撫で、耳の後ろを掻いてくれた。俺が好きな時間だ。
ガルディが帰って嬉しかったのは撫でてもらえるからか?イヤ、違ウ。
違ウ違ウ違ウ、なぜだろう。
撫でてもらっているうちにどうでも良くなった。
「明日からまた干し肉を作らねばならん」
「手伝ウ、俺ガ手伝ウ」
「ありがとう。いつも助かるよ」
「ウンウン、俺ガ手伝ウ、ガルディ喜ブ。肉ガ手ニ入ッテ喜ブ」
「ああ、嬉しいよ」
「ソウダロウ、肉ガ手ニ入ルノハ嬉シイダロウ」
「肉が手に入るのも嬉しいが、嬉しいのはそれだけじゃないのだよ」
「何ダ、ソノ嬉シイノ元ハ何ダ」
「んー、説明が難しいな」
「ソウカ、ガルディデモ難シイノカ。ソレナラ俺ハ知ラナクテモイイ。ソレヨリモ、明日ハ北デ狩ルトイイ。北ノ森ノ猪ハ良ク肥エテイルゾ」
「そうだな」
「ヴァイロン」
ヴァイロンとはガルディが俺につけた名前だ。
ヴァイロンとは“白き者”という意味で、神話に登場する白銀の甲冑に身を包んだ騎士の名前らしい。最初は全く興味が無かったが、今では気に入っている。
「ヴァイロン?」
「何ダ?」
「私がこの森を出ていくとしたら、ヴァイロンはどうする?」
「イツモト同ジダ、帰リヲ待ッテル」
「いや、市場に行ったりするのとは違うんだ、もう戻らないかもしれない」
「戻ラナイ?帰ッテコナイト同ジカ?」
「そうだ」
もしガルディがいなくなったら、俺は1人になる。1人で狩りをして喰って寝る。水浴びも1人、滝がある崖から遠くを眺めるのも1人、夕日が沈む時も1人・・・。
頭の後ろがきゅぅっとなった。
「・・・俺モ行ク、ガルディト一緒ニ行ク」
*-*-*-*-*-*
寝音を立てるヴァイロンにもたれかかりながらガルディの脳裏に毛皮商人の言葉が繰り返された。
「“まさか”と思う事だから未来なのさ」
私を捨てた国が危機に瀕している。
私はどうしようというのだろう。仕打ちも忘れて力を貸そうというのか。
それとも恨みを晴らすべく王国の末路を見届けようというのか。
◇*◇*◇*◇*◇
エルトア王国では技術力に頼り、エナルダの能力は過小評価される傾向にあった。
兵士の戦闘能力に頼らないエルトア軍はある意味優れた軍隊ではあったが、軍の上層部は貴族と豪商によって占められ、これがエルトア軍の腐敗の温床となった。
クエーシトに流れ着いた孤高の戦士グラシス・ハルンストの例にもあるように、有能なエナルダほど上官からの風当たりは強かった。
そのグラシスと同じようにエルトア王国を離れた男がいた。
彼は憂国の士であり優秀な戦士でもあったが、事故で視力を完全に失ってしまう。
しかし、その才能と血が滲むような努力を重ね、空気中の成分をマスエナルして噴出、その反射を利用して周囲の状況を認識できるようになった。
目で見るのと同じように活動できただけでなく、集中していれば後方も認識することができたし、暗闇でも関係なかった。夜間の活動では大きな戦果が期待できるだろう。
それを軍部に申し出た彼はエルトア軍に対する認識が甘かったといえる。
彼の申し出はことごとく却下され能力は無視された。更に虚言により軍を混乱させたとして弾劾されてしまう。しかも弾劾したのは、彼の能力を唯一認識していた上官だった。
彼は軍を追放されエルトアを離れた。
しかしグラシスとは違い、他国に自分の居場所を見つけることをせずに隠遁生活に入ってしまったのだ。
その後も軍部の監視は続き、それを避けるように各地を転々としたガルディは、現在の住処である“ウルズの森”に辿り着いたのだった。
それが故にガルディの名前が世に知られる事は無かった。